汪兆銘

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[[Image:Wang Jingwei.png|thumb|155px|汪兆銘]] '''汪 兆銘'''(おう ちょうめい、Wāng Zhàomíng、 [[1883年]][[5月4日]] - [[1944年]][[11月10日]])は、[[知日派]]として知られた[[中国]]の[[政治家]]。[[字]]は'''季新'''。[[号]]は'''精衛'''。 ==日本留学から東南アジアでの活動まで== 1884年、10人兄弟の末子として広東省番禺県に生まれる。1904年9月、清朝の官費生として日本の[[法政大学]]に留学。留学中に[[孫文]]の革命思想に触れ、1905年、革命党に入党した。やがて孫文の来日を機に同年8月[[中国同盟会]]が結成され、汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務めることになる。この頃から汪は「精衛」という号を用いるようになった。 1906年6月、法政大学速成科を卒業。官費留学の期限は切れたが、汪はそのまま法政大学の専門部へ進み、革命運動を続けることとした。この頃、[[ペナン島]]の有力華僑の出であり、のちに汪の妻となる[[陳壁君]]も運動に参加している。 やがて清朝の意を受けた日本政府の取締りにより『民報』は発行停止に追い込まれ、[[孫文]]は根拠地をハノイ、ついでシンガポールに移した。孫文の信頼を得ていた汪も、孫文と行動を共にする。孫文がフランスへ去った後、汪は東南アジアにおける中国同盟会の勢力拡充に力を注ぐことになる。 == 清朝政府に対するテロ計画 == 1910年、汪は革命運動を鼓舞するため、[[清朝]]要人の暗殺を計画した。汪は[[北京]]で写真屋になりすまし、密かに爆弾を用意、[[愛新覚羅載ホウ|醇親王載澧]]を狙ったが未遂に終わった。清朝政府に逮捕された汪は死刑を覚悟したが、革命派との融和を図る民政部尚書[[粛親王善耆]]の意向により、終身禁固刑に死一等を減ぜられることとなった。 ==中華民国成立から孫文死去まで== 革命軍が蜂起し勢力を広げる中、1911年11月、清朝政府の大赦により、汪は釈放された。やがて[[辛亥革命]]により清朝は崩壊し、1912年1月1日に[[中華民国]]が成立したが、この成立宣言の文章を起草したのは汪である。この年汪は、革命運動の同志になっていた陳壁君と結婚した。 1912年3月、[[袁世凱]]が臨時大総統に就任したが、「皇帝」への野心を持つ[[袁世凱]]と[[孫文]]らの対立が表面化し(第二革命)、1913年、孫文は日本へ、汪はフランスへ亡命することとなった。袁世凱政府が崩壊して新政府が誕生すると、1917年、汪はフランスから帰国。孫文の下で、汪は広東軍政府の最高顧問を務めることとなる。1925年の孫文死去に際しては、孫文の遺言を起草。病床にて孫文の同意を得たと伝えられる。 ==国民政府との関わり== 孫文の死後、汪は広東で国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任する。この政府には、[[毛沢東]]ら[[中国共産党]]メンバーも参加していた。(のち北伐開始後、政府は武漢に移る) しかし1926年3月、[[中山艦事件]]により[[蒋介石]]との行き違いが生じ、汪は自発的に職責を辞任し、フランスに亡命した。1927年4月1日、蒋介石の招電に応じ、再度帰国。中央常務委員、組織部長に返り咲いた。なお、この直後の4月12日に蒋介石は[[上海クーデター]]により共産党の弾圧に乗り出した。 さらに蒋は4月18日、南京に国民政府を組織して、共産党の影響が強い武漢政府から離反した。汪は武漢政府に残ったが、やがて「共産党との分離」を決意し、武漢政府内にて清党工作を進めることとなった。 「反共産党」で一致したことから、武漢政府と南京政府の再統一がスケジュールにのぼり、蒋介石が下野して両政府は合体することとなった。汪は新政府で、国民政府委員、軍事委員会主席団委員等の地位に着いている。しかし共産党の広東蜂起の混乱の責任をとって汪は政界引退を表明し、再びフランスへ外遊することとなる。 一方国内では、独裁の方向に動き出した蒋と、その動きに反発する反蒋派との対立が生じる。汪は反蒋派から出馬を請われて帰国し、1930年9月、[[北京市|北京]]にて国民政府を樹立した。しかし北京国民政府主席は戦局の不利を見てすぐに下野を表明し、政権はわずか1日で瓦解した。汪は国民党から除名処分を受ける。 汪はしばらく[[香港]]に蟄居していたが、1931年5月、反蒋派が結集した広東国民政府に参画した。満州事変を機に蒋政府との統一の機運が高まり、1932年1月1日、蒋と汪が中心となる南京国民政府が成立した。汪はこの政府で、行政院長、鉄道部長の地位に着く。 1933年5月、汪は関東軍の熱河侵攻に伴う[[塘沽停戦協定]]の締結に関わった。実質的に[[満州国]]の存在を黙認するものであったが、これは汪の「一面抵抗、一面交渉」という思想の現れでもあった。汪はその後、政府内の反対派の批判を受けつつ、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進めることとなる。 ==汪兆銘狙撃事件== 1935年11月1日、国民党六中全会の開会式の記念撮影の時、汪兆銘は狙撃された。汪は三発の弾を受けたが、幸いにして弾は急所を外れていた。この時体内から摘出できなかった弾が、のち骨髄腫の原因となり、汪の命を奪うこととなる。犯人はただちに逮捕されたが、その背景は今日に至るも不明である。 汪は療養のため、1936年2月、ヨーロッパへ渡った。(1937年1月帰国) [[Image:Wang and Nazis.jpg|thumb|right|220px|狙撃の治療に訪れた[[ドイツ]]で、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]幹部と交流をもつ汪(1936年)]] ==蒋介石との訣別== 1937年7月、[[日中戦争]]が始まった。徹底抗戦を貫く蒋介石に対し、汪は「抗戦」による民衆の被害に心を痛め、和平グループの中心的存在となった。 10月12日には汪は[[ロイター通信|ロイター]]記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち[[長沙大火|長沙の焦土戦術]]に対して明確な批判の意を表したことから、蒋介石との対立は決定的なものとなった。今井武夫によれば、汪は11月16日の蒋との話し合いで、蒋との訣別を決心したと伝えられる<ref>今井武夫『支那事変の回想』P85</ref>。 一方、1938年3月頃から、日中の和平派が水面下での交渉を重ねるようになったが、この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」に発展していく。 1938年11月、[[上海]]で、汪派の[[高宗武]]・[[梅思平]]と、日本政府の意を体した[[影佐禎昭]]や[[今井武夫]]との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の二年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。 その合意の実現のため、汪側は、「汪は重慶を脱出する。日本は和平解決条件を公表し、汪はそれに呼応する形で時局収拾の声明を発表し、昆明、四川などの日本未占領地域に新政府を樹立する」という計画を策定した。 この計画に従い、1938年12月18日、汪はついに[[重慶]]脱出を決行した。12月20日、[[ハノイ]]着。汪の脱出に前後して、[[陳公博]]、[[陶希聖]]、[[梅思平]]らの汪グループも、それぞれ重慶から脱出した。しかし汪の期待に反して、昆明の[[龍雲]]、四川の[[潘文華]]、第四戦区(広東・広西)の司令官[[張発奎]]将軍などの軍事実力者たちは、ついに汪に同調することはなかった。 さらに汪にとって打撃となったのが、12月22日、汪の脱出に応える形で発表された近衛声明である。声明は、汪と日本側の事前密約の柱であった「日本軍の撤兵」には全く触れておらず、汪グループに強い失望を持たせる結果となった。 12月29日、汪は通電を発表し、広く「和平反共救国」を訴えた(「29日」の日付をとって「艶電」と呼ばれる)。蒋政権はただちに汪を国民党から永久除名した。 翌1940年1月、[[近衛文麿]]は突然首相を辞任し、汪の構想は完全に頓挫することとなった。 ==ハノイでの狙撃事件== 当初の構想が挫折した汪は、しばらくハノイに滞在することになる。1939年3月21日、国民党の刺客が汪の家に乱入、汪の腹心であった[[曾仲鳴]]を射殺した。刺客は汪を狙ったが、たまたま当日は汪と曾が寝室を取り替えていたため、曾が身代わりに犠牲になったものだった。 日本側は、ハノイが危険であることを察知し、汪をハノイから脱出させることにした。影佐禎昭、[[犬養健]]らがこの工作に携わり、4月25日、汪はハノイを離れ、5月6日、上海に到着した。 ==汪兆銘政府の成立== 一時は新政府樹立を断念していた汪だったが、ハノイでの狙撃事件をきっかけに、「日本占領地域内での新政府樹立」を決意することとなる。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、中国-日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待するものであった。 上海に移った汪は、ただちに日本を訪問し、新政府樹立への内諾を取り付けた。そして8月28日より、国民党の法統継承を主張すべく、上海で「第六次国民党全国大会」を開催、自ら党中央執行委員会主席に就任した。 そして、日本占領地内の傀儡政権の長であった[[王克敏]]、[[梁鴻志]]と協議を行い、9月21日、中央政務委員の配分を「国民党(汪派)三分の一、臨時維新両政府(王、梁政府)三分の一、その他三分の一」とすることで合意に達し、彼らと合同して新政府を樹立することとなった。 次いで10月、新政府と日本政府との間で締結する条約の交渉が開始された。しかし日本側の提案は、従来の近衛声明の趣旨を大幅に逸脱する過酷なもので、汪工作への関わりが深い関係者も、「権益思想に依り新たに政府各省から便乗追加された条項も少くなく、忌憚なく言って、帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物であった」<ref>今井武夫『支那事変の回想』P103</ref>、「十月初興亜院会議決定事項として[[堀場一雄|堀場]]中佐及平井主計中佐の持参せる交渉原案を見るに及び自分は暗然たるを禁じ得なかつた。・・・堀場中佐は自分に問ふて曰く「この条件で汪政府が民衆を把握する可能性ありや」と自分は「不可能である」と答へざるを得なかつた」<ref>影佐禎昭『曾走路我記』</ref>と回想している。 あまりの過酷な条件に、汪自身もいったんは新政府樹立を断念したほどであった。また1940年1月には、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が運動から脱落して「内約」原案を外部に暴露する、という事件も生じたが、最終的には日本側が若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった。 1940年3月30日、南京国民政府の設立式が挙行された<ref>国民党の正統な後継者であることを主張するため「南京遷都式」の形式をとった。</ref>。汪は、重慶政府との合流の可能性を睨んで、当面新政府の「主席代理」に就任した(1940年11月「主席」就任)。なお、新政府では妻の陳壁君も重要な役割を果たすことになった。 ==南京国民政府のその後== 新政権は誕生したものの、結局は汪の意図したような「重慶政府との和平」は実現せず、戦争は継続されることとなった。 1941年12月8日、太平洋戦争が始まったが、汪は事前に日本の開戦決意を知らされておらず、「和平」の実現がますます遠のいたことに衝撃を受けたという。汪は日本の国力では英米に対抗できないとの判断から開戦には反対していたが、結局汪兆銘政府も参戦することになり、[[1943年]]には[[東京]]で開かれた[[大東亜会議]]に、汪は南京国民政府代表として他のアジア諸国の首脳とともに出席した。 ==死去== 1944年に入ると、狙撃の際に受けた傷が激しく痛み始め、まもなく下半身不随の重体となった。同年3月3日には渡日して[[名古屋大学医学部附属病院|名古屋大学病院]]に入院。[[多発性骨髄腫]]と診断された。汪は身体の激痛に耐えながら闘病生活を続けたが、11月10日、そのまま名古屋にて客死した。 遺体を[[名古屋飛行場|小牧飛行場]]から飛行機に乗せて送り出す際には、近衛文麿、[[重光葵]]等が見送りに訪れた。[[南京]]郊外の梅花山に埋葬されたが、墓を暴かれることを恐れ、棺はコンクリートで覆いがされた。 終戦後の1946年1月15日、国民党第七四軍は、墓のコンクリートの外壁を爆破、汪の棺を取り出した。遺体はまもなく火葬場で灰にされた後、野原に捨てられたという。「[[漢奸]]」の墓を残すわけにはいかない、との考えからと見られる<ref>劉傑『漢奸裁判』</ref>。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == *[[汪兆銘政権]] *[[大東亜共栄圏]] [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月4日 (土) 07:33。]    

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