上原勇作(うえはらゆうさく、安政3年11月9日(1856年12月6日) - 昭和8年(1933年)11月8日)は、明治~昭和の軍人、元帥陸軍大将、子爵。第2次西園寺内閣時の陸軍大臣、第7代教育総監、参謀総長。日向国都城(現宮崎県都城市)出身。父は薩摩藩士。妻は野津道貫の娘。
1879年陸軍士官学校卒業(同期に秋山好古など)。主にフランス陸軍を範とし日本陸軍工兵の近代化に貢献し、「日本工兵の父」と称される。日露戦争には、岳父野津道貫(第4軍司令官)とともに第4軍参謀長として参加。
以後は軍政畑において重職を歴任し活躍する。1912年、陸相の石本新六が在任中に死去したため後任の陸相に就任。軍事力を強化するために陸軍が提案した2個師団増設案を、西園寺公望首相が財政を緊縮するために拒否したため、帷幄上奏権を行使して大臣を辞任。この後陸軍は、上原の後任者をあえて出さず軍部大臣現役武官制を利用し西園寺内閣を総辞職させる(二個師団増設問題)など、陸軍のプレゼンスの向上に腐心した。
1915年参謀総長に就任し、陸軍三長官をすべて経験した最初の例となる(その後の例としては杉山元のみ)。参謀総長として遂行していたシベリア出兵においては、国際協定によって1920年4月に撤退することになったが、上原はこれを「統帥権干犯」として拒絶、原内閣が陸軍大臣の田中義一の同意を得て撤退を閣議決定すると、現地政府との撤退協定が締結される前夜4月4日の晩にロシア側に総攻撃をかけてウラジオストクを占領してしまった。このために日本だけが単独でシベリアに駐留することとなり国際的非難を受けることになったばかりでなく、尼港事件などの悲劇の遠因となった。首相原敬は同年4月27日の日記にこの一件を「参謀本部の陰謀」と断じて上原を非難しており、激怒した田中が上原を更迭しようとすると、上原は元老山縣有朋に懇願して更迭を取りやめさせた。
陸軍部内で九州出身者を中心とする「上原閥」を形成して長州閥と対抗し、参謀総長の第一線を退いた後も終身現役の元帥として陸軍に影響を持ち続け、特に田中義一と激しく対立した。そして田中の後継者となった岡山出身の宇垣一成の陸軍近代化思想(宇垣軍縮)に理解を示さず、その反対派を支援、後の皇道派の温床を作り、陸軍における派閥抗争・確執の原因となったとの証言(田中隆吉)もある。
彼の副官をつとめた今村均によれば、軍事書を中心に大変な読書好きだったそうである。フランス語原書を読みこなし、軍事のみならず幅広く理解があったという。口やかましいとされ、周囲から疎ましがられた事もあったが、しかしそれは事物への広大な知識から発せられたのであり、感服すべきものであったと今村は述べている。今村の書において、上原副官時代が詳しく語られている。昭和6年に、防空には空軍省を設けて独立空軍を創るしかないと語っていたという。
日露戦争時の旅順要塞攻略戦で、日本軍(乃木希典大将指揮)が大苦戦したことを受け、上原は『私は日本の工兵を厳しく鍛え上げたが、ただ一つの手抜かりは、要塞攻略の為の工兵による坑道作戦の研究と訓練を怠ったことだ。これをやっておれば旅順であんなに苦戦しなかった』と語り、日露戦争後に直ちに上原の指導の下、要塞攻略戦の研究が始まり、明治39年に小倉練兵場にて第一回要塞攻略演習を行った。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月31日 (水) 06:43。