十五年戦争


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1931年満州事変から日中戦争を経て1945年ポツダム宣言受諾による無条件降伏に至るまでの約15年間にわたる戦争を、総称して十五年戦争と呼ぶ。鶴見俊輔1956年にこの言葉を使用したのが最初とされ、1960年代後半から一般にもこの言葉が浸透していった。この呼称は、満州事変以後繰り返された日中衝突及び太平洋戦争までの戦争は連続した日本による侵略戦争であるという見方に基づいているとして、侵略性を主張することに反発ないし消極的な人々からは否定的に受け取められることもある。

また、イデオロギー上の論争とは別に、満州事変(1931年 - )は塘沽協定1933年)で一応、停戦が成立しており、盧溝橋事件を発端とする日中戦争1937年 - )との連続性を認めるのは、非合理的とする意見もある。

略年表

日本の大陸介入

1931年

1932年

1933年

1934年

  • 10月 毛沢東の長征はじまる(36年10月まで)。

1935年

1936年

1937年

  • 国民政府、重慶に首都移転。

1938年

  • 1月 - 日本、「爾後国民政府を対手とせず」のいわゆる近衛声明発表。国民政府との和平交渉を打ち切った。
  • 4月1日 - 日本、国家総動員法公布。
  • 5月5日 - 国家総動員法、施行。
  • 12月 - 汪兆銘、重慶を脱出。

1939年

1940年

1941年

1942年

1943年

1944年

1945年

  1. 1937年から1945年までは日中戦争も参照
  2. 1941年から1945年までは太平洋戦争の年表も参照

日中摩擦

日中戦争(支那事変、日華事変)が起こるまでに、日中摩擦が起こっている。 第一次世界大戦後、日本は21か条の要求を中国につきつけ、侵略の意図をあらわにした。それに対し中国人は反発し五四運動、前後して日貨排斥運動が起こった。1928年、日本は北伐から山東省権益を守るべく山東出兵を行い、済南事件で日中双方は衝突する。

背景

関東大震災金融恐慌世界恐慌、その後のブロック経済化の流れ等で負った深刻な経済的ダメージを、 日本は満州進出、後には南方進出(大東亜共栄圏)で取り戻そうとした。 しかし、軍部の政治的な発言力が強まり、「満州は日本の生命線」として、また、 朝鮮に代わる「本土防衛」のための緩衝地帯として、満州進出を進める日本は、 満州国を承認しない列強との対立が深刻化し、遂には全面戦争にいたる。

経過

1931年満州事変の当初、日本政府の方針は「事局不拡大」だったが、関東軍は無視して事変の拡大を進め、満州国の建国を後押しし、日本政府は結局、満州事変を事後追認した。

1933年日本は満州国を承認しない他の国際連盟加盟国と対立、満州国を否認する決議が採択されると、抗議として国際連盟を脱退した。

1937年盧溝橋事件勃発。日本は1931年の満州事変によって満州国という緩衝国家を得たが、それが同国を日本によって作られた傀儡政権とみなす国際連盟各国、特に民族主義を刺激された中国国民政府との関係を悪化させていた。 この年7月に勃発した盧溝橋事件以後、両国の険悪の度合いは増し、 8月の第二次上海事変を期に泥沼の日中戦争に引きずり込まれていく。 12月、日本軍は国民政府の首都南京を落としたが、国民政府は、最初漢口に、漢口陥落後は重慶に遷都し交戦を継続した。

1938年1月、近衛文麿首相は「国民政府を対手とせず」の声明を発表。日本は蒋介石の重慶政権を否定した。同年、国家総動員法が成立し、日本は日中戦争に全力を投入、国力を磨り潰して行く。

1939年ノモンハン事件勃発、日本はソ連の脅威と陸軍装備の劣勢を認識するも、事実を隠匿したために、結局日本軍の得た教訓は、「対戦車攻撃には火炎瓶が有効」といった程度だった。(初期型の戦車以外には、火炎瓶は有効とは言えない)

1940年には、 日本は汪兆銘の南京政府を中国における正当な政権として承認。

同年9月、日本は、英米がナチス・ドイツの傀儡政権と認識するヴィシーフランスとの合意に基づき、北部仏印に進駐した。同時期、日本は、日独伊三国軍事同盟を締結した。

ドイツと同盟し、軍事力を背景にアジア諸国に対する勢力拡大を図る日本に、警戒心を刺激されたイギリスやオランダ、アメリカなどの周辺諸国は、石油鉄クズなどの日本への輸出を制限し(ABCD包囲網)、日本に経済的圧力をあたえた。

その後も近衛文麿首相などによって戦争回避のための日米交渉が継続されたが、1941年、日本の南部仏印の占拠を機に日米関係は絶望的に悪化、ABCD包囲網が完成し、石油や鉄クズの日本への輸出が完全に停止した。こうした状況が続き、次第に日本の世論は「対米開戦やむなし」に傾いていく。

11月、中国および仏領インドシナからの全面撤退や日独伊三国軍事同盟の即刻破棄などを要求したアメリカのハル・ノートに対して反発した日本は、モスクワに迫るドイツ軍の成功を見て、同年12月8日、英米蘭と開戦、英米蘭の太平洋東南アジアにある領土を攻撃し、 太平洋戦争が勃発した。条約上の義務はなかったが、同盟国のドイツとイタリアも、アメリカに宣戦布告した。

日本軍首脳部は、膨大な国力差のあるアメリカとの戦争を、真珠湾攻撃などの緒戦で戦果を挙げた時、もしくは同盟国ドイツが欧州で勝利した時に、スイスバチカン等の中立国を通じて講和する、という(甘い)見通しで始めた。 しかし、緒戦こそ善戦したものの、戦争が長引くにつれ、経済力と技術力に勝る米国に押し返され、 1945年5月、頼みの綱のドイツは降伏し、同年8月8日、ソ連が対日参戦、「ソ連を通じての講和」の構想も不可能になり、ほぼ同時に広島と長崎への原爆投下もあり、最終的に同年9月2日、日本も降伏文書に調印した。

結果・犠牲

十五年戦争では、日本において軍、民間人あわせて三百万人の犠牲者(死者)が出た。アメリカにおいては、太平洋戦争期、主に軍人に9万人の戦死者を出している。

中国側の犠牲者数については諸説あるが、1951年9月6日の沈釣儒報告「戦犯の検挙と懲罰について」の中で、「中国軍民の蒙った生命の損失は一千万人以上である」との言及が見られ、しばらくはこの数字がしばしば引用されていた。 その後『中国新民主主義革命時期通史』に「確かな統計によっただけでも、人民の死傷者は1,800万人に達し(軍隊の死傷者数は含めず)」との記述が見られ、負傷者も含めた死傷者数ではあるが、これが、「統計」をもとに算出した、と主張する最初の数字である(当文献の初版は1961年だが、現在知られているものは1979年の第三版)。 軍人の死傷者については1985年8月11日付「人民日報」宋時輪論文にて「380万人余」との数字が提出された。これ以降、中国軍民の死傷者2,168万5千人」という数字が「中国人民革命軍事博物館」に展示されるようになる。 さらに1987年には、劉大年・中国社会科学院名誉所長により、「現存する戦争当時の戸籍簿をすべて洗い直」すなどの作業の結果、従来「ほとんど計上されていなかった」一般民衆の餓死者や病死者を含めて、「死者だけで2000万人以上」とする推計が発表された。 (以上、石井明氏論文『日中戦争における中国の人的・物的損失について』による)

その後1995年には、「死傷者3500万人以上」という数字が提出されたが、この数字の根拠は不明。以上、死者数及び死傷者数については詳細な調査は不可能であり、中国側の提出する数字の信頼性も不明である。ただし、日中戦争によって中国の軍人及び一般民衆に多大な被害が生じたことは疑い得ない。

総括

明治から昭和にかけて日本は飛躍的な発展を遂げたが、富の再分配が適切に行われなかったので社会階層が固定化され貧富差が拡大した。また、急激に増加した人口を国内だけで養うことが困難になり、海外移民等を積極的に進めるが、黄禍論の台頭により厳しい状況におかれた。このような社会背景のもと立て続けに起きた金融恐慌昭和恐慌は、社会不安を増大し閉塞感を蔓延させた。無力で失策を続ける政府に多くの国民は失望し、逆に軍部への期待が高まった(徴兵制のため軍部では下層階級の意見が通りやすかった)。ここに至って、もはや国内的な努力のみでは問題を解決できない状況となり、国外に活路を求める以外に無いという考えが台頭してくる。軍部は国民的支持を背景に自らが得意とするによる解決方法を探り、イギリスなどのブロック経済を模して、他地域への進出によって恐慌を乗り切ろうとした。これが十五年戦争の始まりと考えられる。

日本は満州事変によって満州という新たな殖民国家を得たが、それは中国民族主義を刺激し日中関係の悪化を招いた。険悪の度合いは増し、盧溝橋事件を期に泥沼の日中戦争に引きずり込まれていく。日本の拡大主義はイギリスやオランダなどの周辺諸国、特にアメリカの警戒心を刺激し、石油鉄クズなどの禁輸(ABCD包囲網の発動)という日本にとって極めて厳しい経済制裁を加えられる。その後も近衛文麿などによって戦争回避のための日米交渉が継続されたが、1941年中国大陸からの全面撤退や日独伊三国軍事同盟の即刻破棄などを要求したアメリカの最後通牒(ハル・ノート)に反発した日本は、逆に欧米の太平洋や東南アジアにある領土を攻撃し、太平洋戦争が勃発した。

日本軍首脳部は、アメリカとの膨大な国力差を真珠湾攻撃による緒戦の勝利と精神主義による早期講和で乗り切ろうとする。しかし、緒戦こそ善戦したものの戦争が長引くにつれ、経済力と技術力に勝る米国に押し返され、1945年8月15日、敗戦を迎える。

この戦争は、

社会不安→軍部台頭→膨張政策→諸国との摩擦→破滅的戦争→軍部崩壊→民主化

という発展途上国近代化・民主化の典型的なパターンに沿っているものとも言える。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月18日 (月) 07:53。










    
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