大日本帝国陸軍


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん)とは、1871年から1945年まで、日本天皇が統帥していた陸軍である。通常は単に日本陸軍と呼び、大日本帝国陸軍とは呼ばない。他に帝国陸軍と呼ばれることもある。また、本来は日本陸海軍を指す呼称である国軍(こくぐん)、皇軍(こうぐん)という呼称も、日本陸軍を指す場合が多い。

概要

大日本帝国憲法制定前はその位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は、軍事大権については憲法上内閣から独立し、直接天皇統帥権に属するものとされた。

最高指揮官は天皇で、大元帥として陸海軍を統帥する。軍令参謀本部軍政陸軍省が司った。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、陸軍では参謀総長、海軍では軍令部総長である。

略史

創成期

帝国陸軍の起源は、明治維新後の1871年に、薩摩長州土佐から徴集され組織された天皇直属の「御親兵」である(正式に陸軍省が発足するのは1872年2月の兵部省改組による)。この兵力を背景にして廃藩置県を断行した。御親兵はその後「近衛」と改称された。その時点では士族が将兵の中心であったが、陸軍としては徴兵制による軍備を目標としていた。

この創成期の帝国陸軍建軍では大村益次郎が兵部省兵部大輔として主に兵制の基礎を構築し、士族による軍制から徴兵制度による国民兵制への移行を目指した。不幸にして大村が暗殺されると、その後を山県有朋が承継して1874年1月に徴兵令を発布し同年4月に東京鎮台に初の徴兵による兵卒が入営した。

しかし、近衛は徴兵制を武士を冒涜するものと不満を募らせ、征韓論による西郷隆盛の下野を機に将校兵卒が大量に辞職した。当初は専ら国内の治安維持、叛乱勢力の鎮圧(佐賀の乱神風連の乱西南戦争ほか)などを担った。当初、兵部省は1871年(明治4年)に東京・大阪の2個鎮台を置き、遅れて鎮西鎮台、東北鎮台を設置した。

陸軍省と改まった2年後の1873年(明治6年)には全国を6個の軍管区(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)に分けて、それぞれに1個ずつの鎮台を置き、反乱士族の鎮圧などに当った。1888年(明治21年)に6個鎮台はそのまま師団に改変されて第1ないし第6師団が置かれ、近衛は近衛師団となり禁闕守護を任務とすることとなった。

外征の開始

1874年(明治7年)の台湾出兵以降、徐々に外征軍としての性格を色濃くするようになり、1888年(明治21年)には、拠点守備の側面の強い鎮台制から、後方支援部隊を組み込んで機動性の高い師団制への改組を行った。

1894年(明治27年)の日清戦争開戦時には、常設師団は7個であったが、戦争後の1898年(明治31年)に常設師団6個師団(第7ないし第12師団)が増設された。日露戦争では全ての師団が戦地に派遣されたため、内地に残留する師団がなくなってしまった。そこで、日露戦争中の明治38年4月に4個師団(第13師団ほか)が新編された。国運を賭して行われた日露戦争の奉天会戦における勝利を記念して陸軍記念日が制定された。

日韓併合後は、旧大韓帝国軍人を朝鮮軍人として編入した。また、日韓併合後は朝鮮半島防衛のため2個師団を交代で朝鮮半島に派遣していたが、辛亥革命後の中華民国の混乱から警備強化の必要性が高まり上原勇作陸相は2個師団の増設を西園寺公望首相に求め、その混乱から西園寺内閣は結果的に倒れることとなる。その後、陸軍省の要求が通り、1915年(大正4年)に朝鮮半島に衛戍する2個師団(南部に第19・北部に第20師団)が編成されることに決まった。

軍縮期

その後、世界的な軍縮の流れに従って山梨半造陸相及び宇垣一成陸相の下で3次にわたる軍縮山梨軍縮及び宇垣軍縮)が行われて、4個師団(第13師団第15師団第17師団第18師団)が廃止され、平時兵力の3分の1が削減された。

宇垣軍縮では、同時に陸軍の近代化を目指しており航空兵科が新設されるなどしたほか、平時定員を減らしつつ有事における動員兵員数を確保するため、学校教練制度を創設して中学校等以上の学校に陸軍現役将校を配属することとした。

昭和期

昭和期には統帥権の独立を掲げ、政府の統制を逸脱して独断専行の行動が顕著になる。また二・二六事件以降の「軍部大臣現役武官制」を盾に倒閣を繰り返すなど政局混乱の原因をつくり、日中戦争から太平洋戦争に至る無謀な戦争へと突き進んだとの批判を受けることが多い。ソ連仮想敵国としてとらえて作戦計画を立案し、しばしば海軍と衝突した。満州事変盧溝橋事件を経て中国大陸へ大量に派兵した。

日中戦争の長期化・戦線の拡大に伴い師団の増設が相次ぎ、1937年(昭和12年)からは留守師団を元に百番台の特設師団が設けられるなどした(第101師団など)。また、1940年昭和15年)8月から8個常設師団が満州帝国に永久駐屯することとなった。さらに、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には本土決戦に備えて大量に急造の師団が増設された。規模が拡大したため、の上に方面軍総軍が設けられるに至った。

陸軍の解体

太平洋戦争では歩兵部隊を主力に、戦車部隊や航空隊を南方に派遣したが、多くを失った。ポツダム宣言受諾後、戦闘行動を停止した各地の陸軍部隊は、それぞれその地区を管轄する連合国軍降伏し、その管理下で復員業務に従事することとなった。

そして、陸軍省も第一復員省復員庁に改組され、その後陸海軍の残務処理は厚生省、後に厚生労働省が担当することとなった。なお、陸軍病院については、軍医とともに国立病院(現・国立病院機構)へと移管され、国営医療機関として現在まで続いている。

海軍は、掃海業務を担当する航路啓開隊として一部が存続されたのに対して、陸軍は徹底的な解体が行われ、近衛師団も復員後に禁衛府皇宮衛士総隊として存続が図られるが、すぐに解体されてしまった。

陸上自衛隊との関係

帝国陸軍解体後に創設された警察予備隊警察官には公職追放を受けた正規将校を除く、旧陸軍出身者も採用されたため、陸上自衛隊には、旧陸軍の習慣・伝統も一定度継受されている面はある(陸上自衛隊制式行進曲である陸軍分列行進曲(抜刀隊)や、愛馬進軍歌や空の神兵といった当時の軍歌軍楽等)。

しかし、創設時の風潮であった陸軍悪玉論や陸軍の復古を懸念したアメリカ軍側の圧力もあり、公式には伝統の継承を断絶している。陸上自衛隊は、アメリカ陸軍の影響が強く、姿勢を正す際の手の握り等、旧陸軍と異なる服務、礼式を採用している。

ちなみに海上警備隊(後の警備隊海上自衛隊)では、操艦に熟練が必要だったことから、海軍出身者を大量に採用した。

軍閥・軍国主義思想

1878年(明治11年)8月に、精鋭である筈の近衛砲兵が反乱を起こすという竹橋事件が起こり、政府に衝撃を与えた。また、自由民権運動の影響を陸軍が受けることを防ぐために、軍人勅諭が出された。ここでは「忠節・礼儀・武勇・信義・質素」の徳目を掲げると共に、その中で政治不干渉を求めていた。

しかしながら、陸軍軍人の中核を占める陸軍士官は、陸軍省職員として官僚機構の側面も有しており、古くは薩摩藩長州藩等出身の将校らとその他の藩又は幕府出身の将校らとの対立があったとされる。また、陸軍士官学校陸軍大学校という近代的士官教育制度確立後は、兵科間であるとか、陸軍大学校を経たエリートたる中央幕僚(陸軍大学校卒業徽章が天保通宝に似ていることから天保銭組と俗称された)と隊付将校(無天組)との間であるとか、派閥間の思想又は人事上の対立(皇道派統制派の対立)など、無数の内部的な抗争を生みやすい状況であった。

また、関東軍など、外地に所在する現地部隊が、中央の統制を充分に受けずに行動するなどの問題点も抱えていた。そのため、「スマートネイビー」を標榜とする海軍とは、偏った陸軍悪玉海軍善玉論等に影響され対照的にイメージされやすく、日本陸軍に対する悪い印象は一般的である。また、映画などでも陸軍将校の横暴が描かれることが多い。

最後の陸軍大臣下村定大将は敗戦後の第89回帝国議会において、斎藤隆夫代議士からの質問に対して、日本陸軍を代表して問題点を総括している(昭和20年11月28日)。「軍国主義の発生に付きましては、陸軍と致しましては、陸軍内の者が軍人としての正しき物の考へ方を過つたこと、特に指導の地位にあります者がやり方が悪かつたこと、是が根本であると信じます、……或る者は軍の力を背景とし、域る者は勢ひに乗じまして、所謂独善的な横暴な処置を執つた者があると信じます、殊に許すべからざることは、軍の不当なる政治干与であります(拍手)……私は陸軍の最後に当りまして、議会を通じて此の点に付き全国民諸君に衷心から御詫びを申上げます……此の陸軍の過去に於ける罪悪の為に、只今斎藤君の御質問にもありましたやうに、純忠なる軍人の功績を抹殺し去らないこと、殊に幾多戦歿の英霊に対して深き御同情を賜はらんことを、此の際切に御願ひ致します(拍手)」(「……」は省略部分)

これが、陸軍解体直前の陸軍大臣による総括であった。このように、陸軍指導者が軍人としての正しい振舞い方を誤り、また軍人勅諭でも禁止されていた政治関与を行ったことを、国民に対して明確に謝罪するとともに、全ての軍人が誤ったわけではなく、純忠なる軍人もいたことを否定しないように請願して演説を終えた。

制度

階級(昭和19年-廃止時)

陸軍軍人の階級(昭和19年8月10日-廃止)
階級 兵科 各部
技術部 経理部 衛生部 獣医部 軍楽部 法務部
 憲兵 主計建技 軍医薬剤歯科医衛生 獣医獣医務 法務法事務
大将 陸軍大将            
中将 陸軍中将陸軍技術中将陸軍主計中将陸軍建技中将陸軍軍医中将陸軍薬剤中将陸軍歯科医中将 陸軍獣医中将  陸軍法務中将 
少将 陸軍少将陸軍技術少将陸軍主計少将陸軍建技少将陸軍軍医少将陸軍薬剤少将陸軍歯科医少将 陸軍獣医少将  陸軍法務少将 
大佐 陸軍大佐陸軍憲兵大佐陸軍技術大佐陸軍主計大佐陸軍建技大佐陸軍軍医大佐陸軍薬剤大佐陸軍歯科医大佐 陸軍獣医大佐  陸軍法務大佐 
中佐 陸軍中佐陸軍憲兵中佐陸軍技術中佐陸軍主計中佐陸軍建技中佐陸軍軍医中佐陸軍薬剤中佐陸軍歯科医中佐 陸軍獣医中佐  陸軍法務中佐 
少佐 陸軍少佐陸軍憲兵少佐陸軍技術少佐陸軍主計少佐陸軍建技少佐陸軍軍医少佐陸軍薬剤少佐陸軍歯科医少佐陸軍衛生少佐陸軍獣医少佐陸軍獣医務少佐陸軍軍楽少佐陸軍法務少佐陸軍法事務少佐
大尉 陸軍大尉陸軍憲兵大尉陸軍技術大尉陸軍主計大尉陸軍建技大尉陸軍軍医大尉陸軍薬剤大尉陸軍歯科医大尉陸軍衛生大尉陸軍獣医大尉陸軍獣医務大尉陸軍軍楽大尉陸軍法務大尉陸軍法事務大尉
中尉 陸軍中尉陸軍憲兵中尉陸軍技術中尉陸軍主計中尉陸軍建技中尉陸軍軍医中尉陸軍薬剤中尉陸軍歯科医中尉陸軍衛生中尉陸軍獣医中尉陸軍獣医務中尉陸軍軍楽中尉陸軍法務中尉陸軍法事務中尉
少尉 陸軍少尉陸軍憲兵少尉陸軍技術少尉陸軍主計少尉陸軍建技少尉陸軍軍医少尉陸軍薬剤少尉陸軍歯科医少尉陸軍衛生少尉陸軍獣医少尉陸軍獣医務少尉陸軍軍楽少尉陸軍法務少尉陸軍法事務少尉
准尉 陸軍准尉陸軍憲兵准尉陸軍技術准尉陸軍主計准尉陸軍建技准尉   陸軍衛生准尉 陸軍獣医務准尉陸軍軍楽准尉 陸軍法事務准尉
曹長 陸軍曹長陸軍憲兵曹長陸軍技術曹長陸軍主計曹長陸軍建技曹長   陸軍衛生曹長 陸軍獣医務曹長陸軍軍楽曹長 陸軍法事務曹長
軍曹 陸軍軍曹陸軍憲兵軍曹陸軍技術軍曹陸軍主計軍曹陸軍建技軍曹   陸軍衛生軍曹 陸軍獣医務軍曹陸軍軍楽軍曹 陸軍法事務軍曹
伍長 陸軍伍長陸軍憲兵伍長陸軍技術伍長陸軍主計伍長陸軍建技伍長   陸軍衛生伍長 陸軍獣医務伍長陸軍軍楽伍長 陸軍法事務伍長
兵長 陸軍兵長陸軍憲兵兵長陸軍技術兵長     陸軍衛生兵長  陸軍軍楽兵長 陸軍法事務兵長
上等兵 陸軍上等兵陸軍憲兵上等兵陸軍技術上等兵     陸軍衛生上等兵  陸軍軍楽上等兵 陸軍法事務上等兵
1等兵 陸軍1等兵 陸軍技術1等兵     陸軍衛生1等兵     
2等兵 陸軍2等兵 陸軍技術2等兵     陸軍衛生2等兵     

大将が方面軍司令官、中将が司令官・師団長、少将が旅団長、中将・少将が各種学校長、大佐が歩兵連隊長、中佐が騎兵戦車連隊長、少佐が大隊長、中佐・少佐が飛行戦隊長、大尉・古参中尉が中隊長、中尉・少尉が小隊長連隊旗手、軍曹・伍長が分隊長を担当。

准尉は特務曹長を改名したものであリ、厳密に言えば将校と下士官の間の階級である為、必ずしも将校・尉官には該当しない(准士官参照)。

組織

天皇

なお、陸軍の首脳3名たる陸軍大臣参謀総長及び教育総監を総称して陸軍三長官ともいう。

徴募・生活

兵卒は、徴兵令、後には兵役法に基づき、徴兵制度により充足された。兵卒の徴兵制度については日本軍の兵帝国陸軍身体検査規則参照。また、兵卒や営内居住の下級下士は内務班に属した。大部分の歩兵にとって、基本的な部隊は中隊となる。

将校は、建軍期には明治維新を推進した藩出身の士族が中心となっていたが、藩閥による恣意的な登用を避け、近代的な陸軍将校養成制度を確立するために陸軍士官学校が設立されて以降は、基本的には士官学校出身者を以て基本的に将校を補充していた。なお、初期には陸軍教導団を経て下士に任官した後に陸軍士官学校へ入学する途もあり、武藤信義元帥など教導団出身の将星も輩出された。

英国海軍の影響で貴族趣味と評された海軍と異なり、皇族を除けば、学歴差別などの特別待遇はほとんど存在しなかった。そのその顕著な例が徳川慶喜の孫である徳川慶光公爵である。彼は二等兵として二度招集されたが、特別待遇はなく、一兵卒として中国を転戦した。幹部教育においても海軍兵学校生徒が最初から上級下士官待遇を与えられて、下士官・兵とは断絶した教育を受けたのに対し、陸軍士官学校生徒は兵卒としての階級からのスタートであり、卒業して見習士官で部隊に配属されてようやく曹長、その後ようやく少尉任官ということになった。

このような環境であったたので、徴兵によって召集された者でも、低学歴者が実力で下士官に昇進する一方、大学出が二等兵としてこき使われるということが日常茶飯事であり、戦後になって前者が陸軍生活に郷愁を感じる反面、後者が徴兵体験を屈辱と感じて体験記等を世に出し、世間の反陸軍イメージの形成に一役買う一員となった。

参考文献

  • 森松俊夫『図解陸軍史』(建帛社・1991年9月) ISBN 4767985080
  • 『日本陸軍指揮官総覧』(新人物往来社・1995年1月) ISBN 4404022549
  • 太平洋戦争研究会『図説日本陸軍』(翔泳社・1995年7月) ISBN 4881352636
  • 米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社・1998年4月) ISBN 476980833X
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』(芙蓉書房出版・2001年2月) ISBN 4829502738
  • 太平洋戦争研究会『日本陸軍がよくわかる事典』(PHP研究所PHP文庫・2002年7月) ISBN 4569577644
  • 黒野耐 『帝国陸軍の“改革と抵抗” 』(講談社 2006年9)ISBN 4061498592

関連項目



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月30日 (金) 22:53。







      
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。