徐州会戦


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徐州会戦(じょしゅうかいせん)は、日中戦争中の1938年3月15日から5月19日に発生した日本軍と中国国民軍と大規模な戦闘である。日本側は北支那方面軍及び中支那派遣軍、中国側は李宗仁の中国国民軍が戦闘を行った。

背景

1937年12月に南京戦役で勝利した日本の支那派遣軍は、大本営の戦線不拡大方針を無視して戦線を拡大、北京南京を結ぶ打通作戦を企図した。このためには、1912年に開通していた津浦鉄道(天津-蘇州・浦口)の確保が要件として上げられていた。この中で、台児荘の激戦が発生する。

台児荘

1938年3月頃、日本軍は省都済南も含め、山東省北部を占領していた。北支那派遣軍の第5師団(師団長:板垣征四郎)と第10師団(師団長:磯谷廉介)は合流、共同で要衝の徐州を攻略することとしていた。これに対して国民党山東省主席の韓復矩は兵力の温存を図り、天険の要害である黄河の防衛線もがら空きにした。

この結果、津浦鉄道の守備は手薄となっており、情報を察知した磯谷師団は板垣師団との合流を待たずに単独で進軍を開始し、泰安済寧滕県と順次攻略していった。戦わずして後退した中国軍の戦意はかなり低く、まともな戦闘にはならなかった。

しかし、他方では板垣師団は国民革命軍の名将張自忠により臨沂で膠着状態にあり、磯谷部隊との合流に向けた前進が阻まれていたのである。

3月15日徐州を目の前にした大運河の北岸の町・台児荘(現在の山東省棗庄市の一部)に到達した磯谷師団の瀬谷支隊(歩兵第33旅団基幹)は予想外に有力な兵力の抵抗を受ける。敗退を繰り返した軍をまとめた総司令官の李宗仁は、大運河を背にした要衝・台児荘を徐州の防衛拠点として約10万人の兵力を結集していた。

磯谷師団は約一ヶ月の間台児荘攻略のために攻撃を繰り返しても功を奏しなかった。国民党軍は戦えば負ける戦闘の繰り返しであったが、徹底抗戦の構えであり、板垣師団を抑えていた張自忠も同作戦地域に転進させる。

この間、日本軍は局地戦では戦果があったものの、情報の乱れもあり最終的に台児荘攻略がならないままで推移していた。国民革命軍湯恩伯軍団の北東方向からの圧迫を受けたこと、既に台児荘が陥落したとの誤報が流れたことなどから、4月7日に磯谷師団はやむを得ず撤退する。

国民党軍は4月8日に忽然と敗退した日本軍を知り、狂喜した。日本軍の実態を把握できなかった国民党軍にとって、上海戦役・南京戦役と続いた敗戦の中で久々の勝利であり、日本軍撃退を大々的に宣伝、戦意高揚に努めた。

徐州攻略作戦

磯谷師団の撤退により、大本営もこの地域に有力な中国軍が存在することを認識し、津浦鉄道全線掌握の大きな障害になることを鑑み、戦線不拡大路線を転換、徐州作戦を展開することとなる。

北から磯谷師団、東から板垣師団に加えて、南からも中支那派遣軍派遣(3個師団基幹)を決定。ひたすら「徐州徐州と人馬は進む」といわれた行軍を続け、5月20日に徐州占領を完了、津浦線の打通に成功する。日本軍に三方から囲まれたため、中国軍は数では優勢であったが張自忠部隊以外は全般に戦意が上がらず、撤退というよりは散開に近い有様で逃げ惑い、5月19日には徐州を放棄していたのである。一ヶ月前に台児荘で日本軍を撃退した同一の部隊とは思えない体たらくである。日本軍は中国軍に大きな打撃を与えたものの、華北平野の中の街をわずか数師団で完全包囲することは困難であり、数十万の中国兵の包囲環からの脱出を防ぐことには失敗している。

しかし、李宗仁は徐州の維持は放棄したものの、日本軍の南進を阻止することを放棄したわけではなかった。黄河の堤防を決壊させ、決壊地点から東シナ海に至る江蘇省北部周辺を大湿地帯にして日本軍の南進と漢口への進撃を阻止した。戦線はこの後膠着する。

その後

河北方面で戦線が膠着し、国民政府も依然として抗戦の構えを崩さないことから武漢作戦が発令されることとなり、さらに泥沼の中国戦線が広がることとなる。

戦果

  • 日本軍戦死者:約一万五千名
  • 中国軍戦死者:約二万二千名
  • 徐州陥落
  • 韓復矩は戦わずして済南・黄河を放棄したことで蒋介石により銃殺刑に処された。

関連項目



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月4日 (木) 09:49。












     
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