韓国併合


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韓国併合(かんこくへいごう)は、1910年8月22日韓国併合ニ関スル条約に基づいて日本大韓帝国(今日の韓国北朝鮮に相当する地域)を併合した事を指す。日韓併合(にっかんへいごう)、朝鮮合併(ちょうせんがっぺい)、日韓合邦(にっかんがっぽう)などの表記もある(韓国では韓日併合、中国では日韓併合と表記する)。

韓国併合によって大韓帝国は消滅し、日本はその領土であった朝鮮半島を領有した。1945年の第二次世界大戦終戦に伴い実効支配を喪失し、1945年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に日本による朝鮮支配は終了した。

併合条約の日韓の見解

日本側が韓国併合は現在において「もはや無効」であるという立場をとることで韓国併合ニ関スル条約の締結自体は合法であったという考えを内包しているのに対して、韓国・北朝鮮とも韓国併合ニ関スル条約は違法に結ばれた条約であるから同・条約と関連する条約のすべてが当初から違法・無効であり、日本の朝鮮領有にさかのぼってその統治がすべて違法・無効であるという立場を崩していない。この点については65年に国交を回復した韓国と日本との間においても合意に達していない。

「韓国併合」というとき、大韓帝国が消滅し、朝鮮が日本の領土となった瞬間的事実だけではなく、併合の結果として朝鮮を領有した継続的事実を含意する場合もある。

時代背景と日本・朝鮮の世論

明治維新後、急速に発展を遂げた日本は対外的な国防政策を考えた場合に朝鮮半島が地政学的に大きな意味があると考えた。古来より永きに渡って琉球と並んで日本と大陸との交流におけるパイプ役を果たしてきた朝鮮半島が敵対国家に渡ることは、日本にとって戦略的に致命的な弱点を握られることを意味していると考えたためである。

当時、朝鮮は清朝中国を中心とした冊封体制を堅持し、鎖国状態にあった。日本の開国・冊封体制からの離脱は、長らく東アジア国際秩序を保証していた中華秩序への挑戦であり、朝鮮はこれに批判的であった。日本による近代化の要請も内政干渉であると考え、また日本も善意か悪意かは別として干渉であることを自覚していた。日本の民間知識人による近代化の提言も、侵略的意図によるものと考えられるか朝鮮王朝内部における政争の具にしかならなかった。

しかし、西欧列強や日本は朝鮮半島の鎖国状態が続くことを許さず、日本は江華島事件を機に李氏朝鮮と日朝修好条規を締結し、それを皮切りに李氏朝鮮は列強諸国と不平等条約を結ばされて開国を強いられる。その際、日本は「朝鮮は自主の邦」という文言に固執したが、中華秩序において冊封を受けた朝貢国は元々「自主の邦」であるため、清朝の冊封体制から離脱させようという日本の意図は朝鮮王朝にとっても朝鮮の知識人にとって理解しがたいものであった。誤解されがちだが、冊封体制下の国、すなわち「朝貢国」とは即、「属国保護国」を意味するものではない。朝貢国が政治的に中国に従属している度合いはきわめて多様であり、多くの場合は朝貢貿易の側面が強かったのだが、これが近代的な西欧的国際関係の論理に翻訳されたとき、日韓での認識の差が生じた。

開国後、甲申事変が起きるなど、、朝鮮の内部からも改革の要請は出ていたが、大院君閔妃はあくまでも旧来の、朝鮮王朝を守り通そうとしていた。日本は清国とともに朝鮮半島の政治改革を目論んだが、清国はあくまでも朝鮮は冊封体制下の属邦であるとの主張を変えなかった。

日本と清とが緊張するなか、悪政と外国による侵略を排除すると唱えた農民反乱・甲午農民戦争が起きた。日本と清の両国とも、その鎮圧を名目に朝鮮に出兵し、1894年日清戦争が勃発した。日清戦争で勝利した日本は、清国との間に下関条約を結んで朝鮮が自主独立国であることを認めさせることで、朝鮮における清国の影響力を排除することに成功した。

日清戦争直後の朝鮮半島では改革派の勢いが強かったものの、日本が三国干渉に屈するのを見た王室をはじめとする保守派が勢力を回復してロシアに接近、政争が過激化した(閔妃暗殺も、この時期である)。1896年に親露保守派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取、高宗はロシア公使館にて1年あまり政務を執った(露館播遷)。これにより朝鮮がロシアの保護国と見なされる危険性もあったと考え、日本は朝鮮への影響力を維持するため1897年大韓帝国と国号を改めて独立の事実を明確にさせようとした。結局、大韓帝国成立後も実質的に朝鮮王朝と同様の政体が朝鮮を支配することとなり、進歩会(のちの一進会)などの改革派は弾圧され(改革派への弾圧を日本政府に依頼することすらあった)、開化は進まなかった。

日本国内では再び朝鮮半島への改革に介入すべきだとの世論が起こり、遅々として進まない朝鮮半島の政治改革に「日本が併合してでも改革を推し進めるべきだ」とする世論が台頭した。

桂太郎は「欧州に並ぶ強国になるには新たな領土が必要だ」という見地からこれを強力に推し進めた。これにより朝鮮の自国領土への編入を望む日本政府と、日本世論とは合致した。

韓国統監であった伊藤博文と彼を中心とするグループは、「併合は時期尚早である」として反対した。この反対論は、第一に朝鮮の統治政策に関して「将来、朝鮮で日本への抵抗・独立勢力になり得る芽を先に除去すべき時期である」と考えて抵抗勢力や反乱についての対策に腐心していたこと、特に義兵活動が盛んなところでは村の大部分を焼き払う等の方法を用いた強引な弾圧を推し進める(吉田光男_2004:134頁)などしていたこと、第二に日本国内に目を向けて「国内産業の育成に力を入れるべき時期だ」と考えていたこと、第三になにより対外的に「まだ国際社会の同意を得られない」と考えていたことなどから導き出された立場であった。

保護国化の進行

大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満州を手に入れたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに明確な南下政策を取りつつあった。当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。1904年日露戦争の開戦である。

日本政府は開戦直後に朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため、1904年2月23日に日韓議定書を締結した。また、李氏朝鮮による独自の改革を諦め韓日合邦を目指そうとした進歩会は、鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。8月には第一次日韓協約を締結し、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推薦した。日本政府による推薦者を加えて影響力を確保し、他国への便宜供与を制約しようとの試みである。他方で閔妃によってロシアに売り払われた関税権を買い戻すなど、その影響力を増していった。一方、高宗は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの密使外交を展開していった。

この高宗の密使外交を排するために日本政府は日露戦争終結後の1905年11月に第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)を締結し、12月には韓国統監府を設置して外交権をその支配下に置いた。しかし第二次日韓協約の締結を認めない高宗は条約締結は強制であり無効であると訴えるため、1907年第2回万国平和会議に密使を派遣した(いわゆるハーグ密使事件)。これに対して韓国統監であった伊藤をはじめとした日本政府首脳は激昂し、高宗を強制的に排除した。李完用らの協力もあり、7月20日には半ば強制的に高宗は退位に追いこまれ、純宗が第2代の大韓帝国皇帝として即位した。7月24日には第三次日韓協約を結んで内政権を掌握し、直後の8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させるにまで至った。

これを不満とした元兵士などを中心として、抗日目的の反乱が起きたが兵のほとんどが旧式の武装しか持たず、兵としての練度もなかったためにほどなく鎮圧された。もともと、軍隊としての存在意義が薄かったための解散でもあった。残存兵力はその後の抗日義兵闘争に加わったともされる。

日本統治時代

1909年7月に韓国併合の方針が閣議決定されたものの、韓国統監府を辞して帰国していた伊藤博文はあくまでも併合自体は将来的な課題として早期合併に抵抗を続けていた。しかし、10月26日に安重根によって伊藤博文が暗殺されたことにより早期併合に反対する有力な政治家がいなくなったこと、および初代首相であり元老のひとりでもあった伊藤を暗殺されたことによって日本の世論が併合に傾いていった。韓国併合に向けて着々と準備が進む中、1909年12月4日、突然韓国の一進会より「韓日合邦を要求する声明書」の上奏文が提出されると、韓国国内では国民大演説会などが開かれ、一気に一進会糾弾と排日気勢が高まり、在韓日本人新聞記者団からも一進会は猛烈な批判を浴びせられた。そもそも「韓日合邦を要求する声明書」は韓国と日本が対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの大帝国を作るという、当時の現状から見ても日本にとっては到底受け入れられない提案で、また、無闇に韓国の世論を硬化させる結果を招き、統監府からは集会、演説の禁止命令が下された。

韓国併合の閣議決定から1年、いろいろと紆余曲折はあったが、閣議決定どおり、1910年8月22日に日本は日韓併合条約により朝鮮半島を併合した。

これにより、大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世界大戦大東亜戦争太平洋戦争)の終結まで日本の統治下に置かれた。大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、かわって全朝鮮を統治する朝鮮総督府が設置された。韓国の皇族は日本の皇族に準じる王公族に封じられた。また、韓国併合に貢献した韓国人は朝鮮貴族に封じられた。

朝鮮総督府は1910年 - 1919年に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地の99%以上は地主の申告通りに所有権が認められたが、申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(主に隠田などの所有者不明の土地とされるが、旧朝鮮王朝の土地を含むともいう)は接収され、東洋拓殖株式会社法(明治41年法律第63号)によって設立され、朝鮮最大の地主となった東洋拓殖や、その他の日本人農業者に払い下げられた。これを機に朝鮮では旧来の零細自作農民が小作農と化し大量に離村した。朝鮮総督府は東洋拓殖会社の一部の資金で朝鮮半島で日本窒素などの財閥に各種の投資を行った。日本の統治下で、李朝時代の特権商人が時代に対処できず没落する一方、旧来の地主勢力の一部が乱高下する土地の売買などによって資金を貯め、新興資本家として台頭してきた。これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。

大韓民国における日本統治時代の呼称

日本統治時代を韓国側が日帝強占期(韓国の公営放送KBS=韓国放送公社=ではこの呼称に最近統一しようとしている)、日帝時代または日政時代などと呼ぶ事が知られている。前者2つには、韓国併合の有効性、合法性を認めず、朝鮮半島に対する日本の支配を単なる軍事占領とする認識がうかがえる。また、日本植民地時代という呼称も用いられるが、韓国併合条約、日本による朝鮮領有の合法性、有効性を示唆するものであるという認識から、近年では忌避される傾向にある。

大韓民国における日本統治時代の評価

独立後の韓国の歴史学者・学会は、日本による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。彼らの言うところの「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった。そうした雰囲気もあって、日本統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、近代化の萌芽は朝鮮朝の時代に既に存在しており、日本による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする近代化萌芽論が独立後に現れた。一方、評論家・作家の金完燮や日本の保守層を代弁する人物として、拓殖大学の教授で済州島出身呉善花などは日本による統治を肯定的に評価する本を執筆しているが、少数派であり、チンイルパとして糾弾されている。特に金完燮は国会での傍聴中や裁判中に暴行を受けるなどの被害を受けており、安全のため住所すら公表していない。またソウル大学教授の李栄薫などによる、日本の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論も存在するがこれも少数派である。最近、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済が急速に崩壊したことを主張し、近代化萌芽論を強く否定している。また国外的には、ハーバード大学の朝鮮史教授カーター・J・エッカートも萌芽論を否定しているが、彼は日本統治そのものについては朴正煕政権との類似性などをあげ、軍事独裁の一形態であり、韓国の資本家に独裁政権への依存体質をもたらす原因になったと評価している。

日本統治下の朝鮮を植民地と呼ぶかどうかについての論争

植民地という呼称は、新規の領土を旧来の領土に比して特殊な政治制度の下におき政治的従属状態においているものを呼ぶことが多い。現実例から抽出されたモデルに現実に用いられた呼称を適用することからはじまったが、先行モデルを中心に価値判断を排除すべく概念規定されつつある。これは先行する事実をモデルにしないかぎり、名称をつけられず、議論も不可能であるためである。

ただし、欧米による先行のモデルとの差異を論じるべく日本型植民地支配がどのようなものであったかについては継続して議論が戦わされている。のみならず「日本の統治政策は同時代に欧米諸国の行った異民族統治とは異質で、善政である」「植民地という言葉は諸外国が異民族統治に対して行った悪政に使われる言葉である」という認識から、双方を一緒に植民地という言葉で形容することへの批判がある。この立場からは日本の朝鮮支配について「植民地」という呼称を用いるべきではないと主張されている。これらの主張においては、日本人と朝鮮人が異民族であるか否かについて議論の対象にされていない。

朝鮮を支配していた当時の日本政府は、法的には朝鮮に対して特別の呼称(植民地、外地など)を付さなかった。ただし公文書では植民地、外地とも使用例が見られる([1][2]を参照)。在野の学者や思想家の間には朝鮮が植民地であるかどうかについて見解の相違があった。憲法学者の美濃部達吉、植民政策学者の新渡戸稲造、矢内原忠雄など社会科学者は概ね植民地であると見なしていたが、歴史学者の田保橋潔や思想家の北一輝などは植民地ではないとした。植民地でなければ何だと言ったのかはつまびらかではないため、その後の内鮮一体論と同一視される傾向にある。戦後の日本の政治家の発言や日朝平壌宣言のような外交文書でも朝鮮が植民地であったとする表現があるが、これを日本政府の公式見解とするかどうかには議論がある。(日本の戦争謝罪発言一覧参照)。。

年表

韓国併合に関係する年表
出来事
韓国 北朝鮮
1895年 下関条約
閔妃暗殺
1896年 露館播遷
1897年 大韓帝国に国号変更
1904年 日露戦争開戦
日韓議定書
第一次日韓協約
1905年 日露戦争終結
第二次日韓協約
第二次日韓協約
韓国統監府設置
1907年 ハーグ密使事件
純宗即位
第三次日韓協約
1909年 伊藤博文暗殺
1910年 韓国併合
1945年 分割占領、朝鮮総督府解体
朝鮮38度線以南 アメリカ合衆国が占領 朝鮮38度線以北 ソビエト連邦が占領
1948年 大韓民国建国 朝鮮民主主義人民共和国建国
1952年 サンフランシスコ平和条約発効
日本、朝鮮に対する権利、権原及び請求権を放棄
1965年 日韓基本条約調印 発効
日本は大韓民国を全朝鮮の正統政府として承認

歴史認識の比較

日韓併合史について、以下のような歴史認識の相違がある。(なお、以下に示す「保守派」と「革新派」は、日本のマスコミなどでそのように表記されるグループの名称を使用したものであり、定義通りの保守、革新を表すものではない。)

日本の保守派に広く見られる認識 日本の革新派や韓国で一般的な認識
資本主義の萌芽 李氏朝鮮末期の朝鮮には資本主義の萌芽は存在せず、日本による統治が朝鮮の近代化をもたらした。 李氏朝鮮末期には、近代化の萌芽が存在した(姜在彦「朝鮮の開化思想」/他、司馬遼太郎など)。資本主義の萌芽が存在したと唱える者も少数ながら存在する。
ロシアによる併合 仮に日本が朝鮮を併合していなくても、ロシアが併合していた。日本は自国の安全を確保する目的と、朝鮮に対する善意の両方から併合を行った日本は自国の安全を確保する目的と、朝鮮に対する善意の両方から併合を行った。ロシア(ソ連)における少数民族の過酷な境遇を思えば、朝鮮が日本に支配されたことは僥倖というほかない。 仮定の話でしかないので、この点を論じない者、取り上げない者がほとんどである。日本が併合しなければロシアに併合されると言う根拠もわからなければ、日本の支配のほうがロシアによるものより善いとする論拠がわからない。
朝鮮における併合の受容 朝鮮朝末期では最大と日本がみなしていた政治団体・一進会も、日韓併合に賛成していた。日韓併合は多くの朝鮮人に歓迎された。しかし、一進会などが主張する対等合併は両国の国力の差、大韓帝国の混乱した実情などから非現実的で、朝鮮が従属的な地位に置かれるのは必然的であった。地方の農民反乱についてはその多くが既得権益を失った両班によるものであり、何らかの手段を用いて貧農を反乱に駆り立てたのに違いない。 韓国では、朝鮮の植民地化は武力による脅迫によって断行されたものであるという認識が大多数を占める。ゆえに韓国併合に関する全ての条約は締結時から違法であり、国際法上も違法であるという認識が主である。この認識に基づいて、締結前の日韓協定に遡及して、それによってもたらされた結果にまで日本の責任を問う者も多い。日本の革新派では、併合条約が違法だという立場をとらない論者も植民地化の不正義を遡及して追及するべきと考えている者が多い。また、韓国・日本を問わず、朝鮮植民地化のみならずアフリカにおける奴隷貿易や欧州の奴隷制度時代にまで遡及して(すなわち欧米諸国の植民地主義をも含めて)違法とするべきだと唱える者もいる。朝鮮の資本主義化を悲観していた一進会でさえ日本への吸収合併ではなく日本との対等合併を主張していたために彼らの期待は裏切られた。併合そのものに対しては、各地で地方士大夫に率いられた農民反乱が起きたことをもって、反発があったことは自明とする。
独立運動 朝鮮においては三・一独立運動など独立運動が相次いで起こっていたが、それらは本格的な武力衝突には至っておらず、独立運動としては小規模であり、多くの朝鮮民衆は熱烈に独立に向けて活動していたわけではない。上海に成立した大韓民国臨時政府は派閥抗争が激しく、また無差別なテロリズムの性質が強く独立運動の実態に乏しい。臨時政府が第二次世界大戦中に行った宣戦布告は連合国からは承認されていない。国内の共産主義運動は地下に潜伏しており、大きな影響力を持たなかった。満州の共産主義運動は中国共産党の影響下で行われたもので朝鮮独立ではなく中国革命を目指すのが本義とされていた。しかし、その実態は無差別に民衆から略奪を行う匪賊と大差がない。匪賊ゲリラの違いについては論じないが、論じる必要がない。 日本の統治に対して朝鮮の民衆は併合前にも日本統治時代にも激しく反発していた。朝鮮では100万人規模の三・一独立運動など独立運動が相次いで起こっていた。三・一独立運動が日本政府に与えた衝撃は大きく、運動が首都で弾圧された後も各地方に波及し、完全な制圧に数箇月を要している。その途中には日本当局がキリスト教会に立てこもった独立派住民をキリスト教会ごと焼き払い皆殺しにするという事態まで引き起こした(堤安里事件)。これは欧米諸国の非難を招き、以降はキリスト教会を弾圧の対象にできなかったために独立運動の拠点を自ら作り出してしまうという日本帝国主義にとっての大失態を引き起こしている。上海では大韓民国臨時政府が成立し光復軍を組織して抗日運動を行っており、第二次世界大戦中には日本に対して宣戦布告を行い、連合軍と共同行動をとろうとしたが実態は爆弾テロ闘争であったことを認めざるを得ず、結果として直接の対決に至る前に日本の降伏によって独立を迎えた。共産主義運動に対する評価は日本統治に批判的な人々の間でも、日本革命または中国革命に従事するべき存在として扱われていたという評価や、朝鮮民主主義人民共和国の建国の基礎になったと評価、無差別な略奪・暴行を行う匪賊以上の打撃を与えられなかったという評価やゲリラであるかぎり匪賊と見分けがついてはならないのが当然であるとするものまで様々である。
日本統治時代の認識 日本はその開国直後から、ロシアの南下への備えとして、朝鮮に対して自立を求め様々な支援をしたが、朝鮮独自の改革運動が失敗に終わると、併合に方針を転換した。そのため、当初から植民地化ではなく、日本の一部分として殖産と教育などの様々な投資を活発におこない、朝鮮半島の経済および人的資源を育成しようとした。したがって、植民地的搾取ではなく、投資に重点が置かれ、市場を開設し、インフラを整備した。特に、教育の普及による朝鮮半島の人的資源の開発は当初から重視され、学制がひかれるとともに、京城帝国大学が帝国大学としては6番目にソウルに設置された。朝鮮は天然資源も労働力も豊富ではなく、植民地としての価値はなく、逆に、日本からの財政支援が長期に渡っておこなわれた。ゆえに日本は併合によって利益を得たわけではなく、むしろ朝鮮に恩恵を及ぼした面が大きいと主張する。これが「植民地支配」であるとして、西洋列強が行った残虐で搾取的な異民族支配と同じ言葉で括るのは、不当な印象操作以外のなにものでもなく、到底うけいれられない。朝鮮半島が、ロシアや中国の侵略圧力にさらされていた当時、それらの国家に対して侵略をさせないだけの経済力と軍事力を独自でもつことが、できなかったという状況の下での次善の選択としては、日韓併合はもっとも妥当なものに近いと考えられ、朝鮮民衆の最大組織であった一進会などの勢力が併合を推進した意図と比べても本質的な差異はない。このように併合にはプラス面があったし、また韓国・一進会が併合について主体的に関与している度合いが大きい以上、決して日本側が一方的に非難されるいわれはなく、プラス面を考慮したうえで併合を評価するべきである。 朝鮮植民地化によってあらゆる搾取に甘んじ絶対的に窮乏化した(すなわち相対的に窮乏化したのではないという認識)。植民地政策、特に土地調査事業によって大量の農民が土地を離れざるを得なくなった。産米増殖計画においては、日本への輸出ばかりが増大し小作農は窮乏化した。また、工業化によって日本の資本家(企業)は安価な労働力を確保し、土地・資源のみならず膨大な労働力を搾取した。朝鮮人による商品消費も日本資本または日本資本傘下の朝鮮人系企業に依存したため、朝鮮人は二重三重に搾取された。朝鮮植民地化によって、大日本帝国は莫大な利益を蓄積し、欧米の植民地宗主国に列する強国に成長した。



差別 経済的平等については併合直後の、日本と朝鮮半島の経済的な開発状況にはかなりの差があり、当初から日本は朝鮮半島に多大な投資を行ってその改善に努めた。その格差が大きかっためその改善には多大な時間を必要とし併合期間が終了するまでに達成され得なかったが、経済水準の均衡化はかなりの改善をみた。(この時期の朝鮮半島に対する投資が東北地方の過小資本をよび東北地方の経済の遅れの原因となったという指摘がある)。また、政治的平等については、朝鮮人に対しても内地では選挙権が与えられ、かつ、選挙権と徴兵の有無が多くの国で併せて考えられていたのと趣旨を同じくし、朝鮮半島に対しては徴兵が実施されなかったように、徴兵義務などの負担と選挙権などの政治的な権利の付与は、朝鮮半島の地理的な隔絶による選挙の困難性と併せて、ある程度の合理性のある区別が行われていたと見ることが可能であり、これらの事態をさして単純な差別と見ることはできない。なお、太平洋戦争中には朝鮮に徴兵制がひかれるのが決まったのと平行して朝鮮の住民にも投票権が認められた。ただし、あくまでも制限選挙ではあった。日中戦争から太平洋戦争にかけては日本の国内の戦時体制の強まりの結果として同化圧力も高まった。この時期に創氏改名が行われているが、これは朝鮮人側から改名についての要望が当初のきっかけで、日本はその要望に答えたのだから朝鮮人に非難されるいわれはない。また創氏改名も日本人名にすることを強制されたわけではなく、改名は任意だったはずだ。第二次世界大戦中に、抗日運動がほとんど起きていないのは、ほとんどの朝鮮人が日本人になる道を受け入れ始めていたからである。そのことは朝鮮人の志願兵の多さからも傍証されうる。官公庁や軍においても朝鮮人の高官が存在したことは、実質的に差別があるとしても、形式的には差別が存在しなかったことの証左となる。また、当時、朝鮮人の顕職者が日本人より少なかったことも、日本人と朝鮮人の能力と教育レベルの差の結果であるから、朝鮮人は文句を言う前にわが身をかえりみてほしい。 日本人は朝鮮人を蔑視していた。その象徴が創氏改名であり、これに応じない朝鮮人は、郵便物が配達されないなどにとどまらず、職や仕事を得られず生活できない事態にまで追い込まれるといった不利益を受けた。いわば社会的な強制であった。地方では強制のためにしばしば官憲による暴行が横行した。日本の官憲と行政官とによる創氏改名の強要は日増しに強まり、第二次大戦中には抗日運動の一つも起こせないほど、官憲による弾圧が激しくなっていた。民族主義者系の抗日運動は1920年代のうちに壊滅し、共産主義者による運動のみが細々と残った。朝鮮に徴兵制が施行されなかったのは多くの植民地と同じく、朝鮮人の反乱を恐れためである。朝鮮からは本国議会へ議員を選出することはできず、朝鮮人の代議士が存在したとしても日本政府の傀儡としてあらかじめ選出されている候補に過ぎず、朝鮮人の民意を代表すると信じたものはいなかった。官公庁や軍に朝鮮人が採用されたとしても、その多くは下級職であり、昇進の道は日本人より比較にならないほど閉ざされていた。これらは、後年、総動員体制期を迎えるにあたって唱えた一視同仁内鮮一体などの美麗字句が単なるタテマエでしかなかったことを示している。朝鮮人への蔑視感情は継続してさまざまなメディア表現にあらわれており、激化する一方であった。庶民の間では“(天皇)陛下の赤子に鮮人がなるなど畏れ多い”という差別思想が根強くあり、特に植民地朝鮮においてその程度は根強かった。この根強さは朝鮮総督府の支配政策にとって障害になるほど強固であり、朝鮮憲兵隊は本国政府に対して、朝鮮に植民した日本人(日本政府にとっては棄民に近い扱いだった事情も介在する)が朝鮮人に蔑意をあらわにする実例を個々具体的に報告ことで、日本人の差別意識が朝鮮人の民族意識を涵養しているという警告を再三に渡って送っている。


解放後 日本は、大量のインフラを朝鮮に残したにも拘らず、朝鮮戦争でそれを台無しにした。北部では、行政プロを対日協力者として公職追放したために、行政のノウハウがない状態で建国しなければならず、朝鮮戦争後にも金日成による相次ぐ粛清によって人材を失い正常な統治が不可能になった。南部では、朝鮮戦争前には権力をめぐる抗争や共産主義者のゲリラ活動が激しく、朝鮮戦争後には李承晩政権のもとで経済的に停滞していた。行政機構の機能不全は朝鮮人の施策によって引き起こされ、朝鮮戦争は日本政府が関与しないところで金日成の奇襲によって起きたのだから、何もかも日本統治が原因だとするのはお門違いである。 南部では占領軍が朝鮮総督府が残した行政機構・行政官・警察官を用いた統治を継続しようとした。朝鮮人にとっては、解放の喜びに浸る間もなく対日協力者による統治が続くと映り、大きな反発を招き、ときには反乱が起きた。これは大韓民国政権担当者の座を巡る争いと密接に関連した。北部では朝鮮民主主義人民共和国政府が対日協力者を徹底的に除去したため貧農およびインテリ層の支持を集め多数の越北者が出現したが、のちに粛清される者が多数出るなど失望させられる結果となった。日本は敗戦国であることから植民地統治の後始末にあたる責任から逃れることに成功したため、朝鮮は朝鮮戦争という東西の代理戦争に巻き込まれ莫大な人的物的資源を失った。これらの経緯にもかかわらず、日本の植民地支配が悲劇の原因であるという認識を示す日本人もいた。その反面、植民地解放後も一部の日本人や政治家が「併合は朝鮮人が求め主体的に関与したことで、日本はそれに応じたにすぎない」「あれは植民地支配などではない」「朝鮮統治は朝鮮人のためにやってあげたことで日本人は何らの利益も得ないまま朝鮮人に恩恵を及ぼす一方であった」「感謝してもらいたいくらいだ」という立場をとりつづけ、そのように発言してきたことについては、被害者に侮辱を加えるセカンドレイプ行為を60年間に渡って継続的に行ったものであり朝鮮人を愚弄するものだと韓国では受けとめられている。北朝鮮は戦後の日本の行為についてまで謝罪と償いを求めており、金丸信を代表とする自民党・旧社会党・朝鮮労働党3党共同宣言は「戦後45年間の償い」を盛り込んだ。これが何を指すか明確ではないが、実際に日本の革新派・韓国内の左派ともに、日本政府が植民地支配被害者・戦争被害者に対して何らの対策もとらず「日韓問題は全て解決済み」として現状を正当化しつづけてきたことの道義的責任、それによって被害を拡大したことの不作為責任を追及している。

参考文献

  • 吉田光男_2004: 吉田光男編著『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学教育振興会、2004年。

関連項目

外部リンク




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年12月20日 (土) 10:50。












     
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