提岩里虐殺事件

提岩里虐殺事件ていがんりぎゃくさつじけん、제암리학살사건)は1919年4月15日、日本の植民地統治下の朝鮮京畿道水原郡(現在の華城市)で、三・一独立運動中に起きた事件。30人程の住民が軍隊によって虐殺された事件である。

概要

事件当時の日本の公式文書では、 「憲兵隊が提岩里(チェアムリ)の教会に、小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男達20数名を集めて取調べをしていた。そのとき、その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして襲いかかってきたのを犯人だと即断して殺害してしまった。これをきっかけに教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。兵卒に射撃を命じ、殆ど全部を射殺するに至った。教会もその後近所からの失火により焼失した」とされていた。そのため日本の右派・保守派には、これに従い韓国側の主張を根拠なしと切り捨てる人もあったたとえば杉本幹夫著『「植民地朝鮮」の研究』(展転社、2002年)など。。

しかし、翌4月16日に現地視察にやってきた駐ソウルアメリカ総領事館領事、在ソウル米国人宣教師、AP通信のソウル特派員がこの事件に関する報告書の作成・本国への提出を行い、さらにその数日後には駐ソウル英国総領事館からも現地調査団が現地に送られ、事件は世界中に報道されるにいたり、事件の真相は軍による虐殺・放火であると認識された長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係―朝鮮独立運動とアメリカ 1910-1922』平凡社、2005年2月。。

さらに、近年発見された、当時の朝鮮軍司令官宇都宮太郎の日記によれば、事件は日本兵が30人ほどの住民を教会に閉じこめたあと一方的に殺害、放火したもので、その「事実を事実として処分すれば尤も単簡なれども」それでは「虐殺、放火を自認することと為り、帝国の立場は甚しく不利益」となるという判断から、幹部と協議した結果「抵抗したるを以て殺戮したるものとして虐殺放火等は認めざることに決し、夜十二時散会す。」とあり、住民の抵抗は存在せず、火災は軍による放火であったことが分かった。関与した有田俊夫中尉の処分は30日間重謹慎処分とされたhttp://www.asahi.com/national/update/0228/TKY200702270448.html&date=20070228131005" target="_blank">3.1独立運動の鎮圧を詳述 朝鮮軍司令官の史料発見。

外部リンク


有田中尉に係る裁判宣告の件報告
 国立公文書館 http://www.jacar.go.jp/
 レファレンスコード:C03022465000
 PDF → http://www.geocities.jp/ochanome2000/arita.pdf

朝鮮騒擾経過概要
 国立公文書館 http://www.jacar.go.jp/
 レファレンスコード:A04017275800
 PDF → http://www.geocities.jp/ochanome2000/koniti.pdf

※pdfのURLは直接アドレスバーにコピペしてください

参照

_




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月22日 (木) 02:49。












     

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2009年03月10日 23:00
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。