若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、新字体:若槻 礼次郎、慶応2年2月5日(1866年3月21日) - 昭和24年(1949年)11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。第25代および第28代内閣総理大臣。男爵。旧姓は奥村、幼名は源之丞、号は克堂。
松江藩の足軽奥村仙三郎の次男として生まれる。奥村家は極めて貧乏であり、内職のようなことをしてようやく生活していた。幼少の頃はまだ帯刀であり、木刀一本腰に差して寺子屋に通う。
小学校を出ると漢学塾へ通うが、1年後やめて教員伝習校内変則中学科に入る。しかし家が貧乏で、学資が続かず在学8~9ヵ月にして中学をやめ、しばらくは家にいて山へ薪を取りに行ったり、家事の手伝いをしていた。
16歳のころから3年間程、小学教員をする。司法省法学校が官費で生徒を募集することを知り、飛び立つ思いであったが、試験場は東京まで出て行かなければならない。しかしその費用がなかったので、島根県能義郡長をしていた叔父若槻敬に相談し、旅費だけ貸してもらい数えで19の年に松江を出た『若槻礼次郎自伝 古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 18-25頁。
東京へつくと大学予備門に通っていた岸清一(のち法学博士)の下宿へ転がり込んだ。岸とは血のつながりはないが、近い親類であった『若槻礼次郎自伝 古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 3-21頁。1892年7月、帝国大学法科を平均98.5点という驚異的な成績をのこして首席で卒業した。同期に、のちに司法大臣、鉄道大臣を歴任した政党政治家小川平吉、数期にわたり内務大臣を務めた官僚政治家水野錬太郎らがいる。
大蔵省に入り、主税局長、次官を歴任する。大正元年(1912)、第3次桂太郎内閣で大蔵大臣、同3年から4年まで第2次大隈重信内閣で再度蔵相、同5年、加藤高明らの憲政会結成に参加して副総裁となる。大正13年(1924)、加藤内閣で内務大臣となり、翌年、普通選挙法と治安維持法を成立させる。
加藤高明首相が在職中死去したため、憲政会総裁として内相を兼任し組閣。彼の内閣の時期には左派政党で一種、社会主義的な「無産政党」が数多く結成された。
12月25日に大正天皇が崩御し、その日のうちに昭和と改元された。そのため昭和元年は7日しかない。明けて昭和2年1月、少数与党で臨んだ第52議会冒頭で、おりからの「朴烈事件」と「松島遊郭事件」にかんして野党が若槻内閣弾劾上奏案を提出した。若槻は政友会の田中義一総裁と政友本党の床次竹二郎総裁を待合に招いて、「新帝践祚のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案が出ている限りどうしようもない。引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。野党はこの妥協を承諾、「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」という語句を含んだ文書にして三人で署名した。「深甚なる考慮」は内閣退陣を暗示し、予算案成立と引き換えに、憲政の常道に基づき政権を野党政友会に譲ることを意味する。これで若槻は議会を乗り切ったが、予算が通っても一向に総辞職の気配を見せなかったことから、野党は合意文書を公開、「若槻は嘘つき総理である」と攻撃した。このため謹厳実直な能吏のはずの若槻禮次郎は「ウソツキ禮次郎」と呼ばれる羽目になった。
また議会終了間際、衆議院予算委員会で片岡直温蔵相は野党の執拗な追及に対し、次官から届けられたメモに基づき「現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました」と発言する。実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していたが、この発言で東京渡辺銀行に預金者が殺到し、休業に追い込まれてしまう。これにより昭和金融恐慌が勃発した。
大戦景気のあと不景気に悩まされていた銀行や成金たちはここで一気に倒産の憂き目に会うこととなる。特に台湾銀行は成金企業の鈴木商店と深い結びつきを持っていたが、台湾銀行が債権回収不能に陥り、休業すると同時に鈴木商店も倒産し、これは恐慌の象徴的事件ともいえる。台湾銀行の回収不能債権のうち8割近くが鈴木商店のものだったという。
若槻内閣はこの状態に対し、台湾銀行救済緊急勅令案を枢密院に諮るが、この手続きは憲法違反であるとして否決されてしまう。政策実行不能と考えた若槻は4月20日に内閣総辞職し、立憲政友会の田中義一に組閣の大命が下ることとなる。
しかし、これは陰謀であった。若槻内閣は憲政会の内閣であり、穏健外交を政策に掲げていたため、1926年7月から始まった蒋介石の北伐に対してなんらリアクションを取らなかったのである。実はこれが枢密院にとっては気に入らないことであった。そこで枢密院はこの事件を利用して若槻に揺さぶりをかけたものだと考えられる。よって次代の田中内閣が諮った同様の勅令案に対して枢密院は全く反対をしない。
但し、内閣と枢密院の見解が食い違った場合、内閣が辞職しなければならないという規定はなく、ここで総辞職をしたのは若槻の性格の弱さとも取れる。
(1931年4月14日 - 1931年12月13日) 次に若槻が内閣を組織するのは1931年4月のことである。憲政会はそのとき立憲民政党となっていた。濱口内閣の失策により深刻な不景気を迎えていた国内では「満蒙(満州とモンゴル)は日本の生命線」とまで言われるようになっていたが、満州は蒋介石の北伐により危機に瀕していた。
当時軍部では、汚職の続く政治家や失策の多い政党内閣に対し、強い危機感が生まれていた。そんななか「世界最終戦論」を唱える関東軍の石原莞爾、板垣征四郎、土肥原賢二らによって柳条湖付近の南満州鉄道が爆破され、日本本国からの連絡を待たないまま彼らは長春を占領、土肥原を新市長につけてしまう。
これは統帥権の所在の不明確さに原因がある。統帥権は憲法上天皇にあるが、実際天皇は軍部に対して直接指令することはなく、内閣の軍部大臣が内閣の方針を軍部に伝えていたのである、緩やかなシビリアンコントロールともいえる。ところが満州事変の場合、閣議で決定した「不拡大方針」を関東軍につたえると、「統帥権干犯だ」といわれ突っぱねられてしまう。つまり関東軍は今までの慣例を破壊してしまったのである。
直後の閣議では不拡大方針が決定され、若槻は両軍部大臣、林奉天大使にもその旨を伝えている。しかし、各新聞は関東軍の行動を絶賛し、世論は満州事変賛成へと動いてゆく。
そんな中、後に首相となる林銑十郎朝鮮軍司令官は関東軍救援を名目にこれまた本国からの連絡を待たずに独断で満州へ侵攻してしまう。関東軍も不拡大方針を無視し錦州を独断で爆撃。これにより今まで沈黙していたアメリカとイギリスが非難声明を出すこととなる。若槻の不拡大方針は国民、軍部に見放され、ついには安達謙蔵内相が「挙国一致」を訴えたため、閣僚にも見放された状態で閣内不一致総辞職となる。
これにより「軍部が既成事実を積み上げれば政府の方針が覆る」という見解が軍部内で生まれ、後の軍部暴走へとつながり、日本は軍国時代へと突き進んでゆくこととなる。
その後若槻は首相経験者の立場で政治に参画し、重臣会議のメンバーにもなった。1941年には東條英機を次期首相として奏薦した重臣会議において宇垣一成を次期首相に推し論争を繰り広げている。戦争末期には重臣の一人として終戦工作に関与した。既に昭和19年から吉田茂により協力を呼びかけられている。昭和20年に入ってからは鈴木貫太郎内閣の奏薦やポツダム宣言受諾などに関わった。なお、昭和10年代前半に次期内大臣という声があったが、民政党の色が強いということで実現しなかった。
敬―礼次郎―有格┬寛義 └信成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月4日 (火) 11:23。