日本統治時代の朝鮮

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日本統治時代の朝鮮(にほんとうちじだいのちょうせん、英語:Korea under Japanese rule、朝鮮語:Template:lang?)(1910年8月22日 - 1945年9月2日)では、大日本帝国による韓国併合から太平洋戦争第二次世界大戦)での敗戦までの間、日本の領有下にあった朝鮮について述べる。

総督府の所在地は京畿道京城府(現在のソウル特別市)であった。

概要

1910年、当時の大韓帝国は「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって朝鮮総督府の統治下に置かれ、日本の領土となった韓国併合条約の解釈については、現在の日本政府の見解ならびに日本側の研究者の一部の意見では「合法不当」、対して韓国・北朝鮮の多くの研究者ならびに日本の研究者の一部の意見では「不法不当」となっているTemplate:要出典?

朝鮮総督府は鉄道から医療まで朝鮮半島へ最新鋭の各種インフラを導入して整備するとともに、当初は憲兵警察制度(併合年で7,712名。その内、朝鮮人は4,440名水田直昌監修『統監府時代の財政』122頁。)や言論・結社の自由の厳しい制限などに代表される武断統治により、朝鮮王朝末期からの一部の抗日運動を抑えようとした。1919年の3.1独立運動以後、日中戦争に至るまでの期間は3.1運動や大正デモクラシーの影響などにより朝鮮総督府は従来の植民地政策を限定的ながら修正し、言論や結社の自由が与えられた。そのためこの時代には比較的自由な雰囲気の中で、朝鮮人による様々な合法的・文化的な民族運動が繰り広げられた。この時期には朝鮮文学の発展が見られ、大都市を中心に大衆文化の発展も見られた。

満州と接する北部国境地帯では朝鮮独立を掲げる民兵組織と朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。また朝鮮でも、1919年には3.1運動が起こったが、日本の憲兵警察により取締りされた三一運動の取締りについては、たとえば「すさまじい弾圧」(朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』三省堂、1974、215頁)や「民衆の蜂起と日本の弾圧」(姜徳相『呂運亨評伝1: 朝鮮三・一独立運動』新幹社、2002、165頁)、「激しい弾圧」(吉田光男編著『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学振興会、2004、140頁)という表現を用いている。対して名越二荒之助『日韓2000年の真実』(国際企画)等では「鎮圧」としている。

公立学校を中心とした同化政策や、独立運動に対する警戒・取締りは植民地化の経緯とあいまって朝鮮民族の日本(本国)への反感を強めるものもいた。また、統治者としての在朝日本人の間では朝鮮人への侮蔑意識が本国の日本人以上に広まったとされ、そのことも反感を招いたとされる。そのため時には朝鮮総督府側でさえもが朝鮮人に対する侮蔑意識が統治への反感を無意味に掻き立て、円滑な統治を妨害しかねないという危惧を表明した宮田節子「朝鮮民衆と『皇民化』政策」。。

当時の大日本帝国は朝鮮を大陸侵出のための重要な拠点と考えており、また欧米に比して遅れていた工業化を補完する目的もあり、朝鮮の開発を行った。他方これらの開発工事において、主な労働力は当然ながら朝鮮人の中に求められた。労働者の人権という概念の未発達と植民地人であるという要因などが重なり、朝鮮人労働者は劣悪な環境におかれるものもいた。

第二次世界大戦中は皇民化教育や創氏改名などが推進された。朝鮮語はそれまで公教育で必須科目として教授されていたが、朝鮮教育令の改正に伴い1938年には随意科目となった。そして日本語使用家庭の顕彰、学校で朝鮮語を使用した生徒への罰則などを含む「国語常用」運動が繰り広げられた結果、朝鮮語教育は公立学校からほぼ完全に排除されていった。賞罰表象を用いた朝鮮総督府の「国語常用」運動(PDF文書)それと平行して朝鮮語メディアや文芸活動への圧迫も強まり、1940年には「朝鮮日報」「東亜日報」が総督府の命令により廃刊させられた。また1942年には朝鮮語学会の主要メンバーが治安維持法違反で検挙された。「日韓新たな始まりのための20章」p47~49、三ツ井祟執筆しかし、少数の官報などは存続を許されており、硫黄島の戦いにおける日本軍の玉砕を報じるハングル新聞が発行されていた例もある。

第二次大戦中は朝鮮人志願兵の募集がなされ李王垠洪思翊をはじめ陸大を卒業し日本軍幹部まで出世する者もでた。また、1942年に行われた朝鮮出身者に対しての募兵では募集4,077名に対し、25,4173名の朝鮮人志願兵が集まり、62.4倍の倍率に達している(国立公文書館 アジア歴史資料センター 朝鮮及台湾ノ現況(本邦内政関係雑纂/植民地関係)レファレンスコード:B20020312847)、軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した当時陸軍を中心に、アジア・太平洋戦争における日本民族の人的消耗を避けるため「外地民族」の人的資源の活用は避けられないとする意見が広まっており、朝鮮における徴兵制はその帰結であった。(「朝鮮民衆と『皇民化』政策」、p102~p103、宮田節子著)。また徴用により内地(日本)に行かされ、労働に従事した労働者や、日本軍に対する慰安婦となった女性もいた。「現代朝鮮の歴史」第3章、ブルース・カミングス著これらの慰安婦について、日本軍の行った人権侵害であるとする立場と、日本の右派・保守派を中心に慰安婦について「単なる売春婦である」とする見解がある。また「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」とし、「日本版歴史修正主義」と反論しているものもいる(高橋哲哉『歴史/修正主義』岩波書店、2001年、ⅲ頁)

日本統治に終止符を打ったのは1945年の日本の第二次世界大戦での敗戦であった。1945年8月15日に、玉音放送により日本の敗戦が知らされたため、植民地朝鮮では祖国の解放を知り朝鮮人が喜びをあらわにする光景が各地で見られたという。この日は現在も韓国では「光復節」として祝日となっている。ポツダム宣言を受諾したことにより、日本は朝鮮半島における権原を失い、そして1945年9月9日、降伏文書調印に伴い朝鮮総督府は解体した。

終戦直後、朝鮮総督阿部信行陸軍大将と朝鮮軍司令官上月良夫陸軍中将により朝鮮へは自治権が与えられたが、アメリカ合衆国はこれを認めず、進駐の翌日9月9日軍政を布告。ソ連と共に朝鮮半島を北緯38度線を境に南をアメリカが、北をソビエト連邦が占領(分割占領)した。その後連合軍軍政期を経て北緯38度線より南側が大韓民国(韓国)、北側が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)としてそれぞれ独立を宣言する。アメリカが韓国を、ソビエト連邦が北朝鮮を支援し、1950年朝鮮戦争が勃発した。

なお、日本が残した産業資源の多くは北部に集中していた。このため朝鮮戦争からしばらく、北朝鮮は工業生産力・軍事力などの点で韓国を圧倒していた。韓国は北朝鮮よりも貧しかったが、日本の援助とベトナム特需によって漢江の奇跡という大幅な経済発展を達成した。

社会政策

Template:独自研究? 朝鮮総督府の社会政策は、朝鮮人を日本人に同化させようとした面があったため朝鮮人の間からはしばしば民族的な反感があがった。

教育制度

朝鮮では1895年の甲午改革により、近代教育制度が始まったが1906年までに11年たっても全国で小学校が40にも満たないというのが実情であった。初代統監として着任した伊藤博文は大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、日本は朝鮮半島にて学校建設事業を最優先してすすめた。その結果、1940年代には1000を超える各種学校が朝鮮半島にできることとなった金ワンソプ『親日派の弁明』p104。

朝鮮総督府は朝鮮人による自主的な教育を警戒し統制しつつ私立学校が1910年の2225校から1918年に775校に減少した。また書堂(朝鮮の儒教的私塾)に関しては1918年に書堂規則を公布して、書堂開設には道長官の許可が必要なこと、朝鮮語など漢文以外の科目に総督府編纂教科書を使用しなければならないことを規定した。(「朝鮮史」P.281、糟谷憲一著)、日本語朝鮮語をはじめ算数、日本史、朝鮮史、修身などの教育を公立学校を中心に展開した。

もともと朝鮮には義務教育制度はなかったが、併合後も朝鮮には施行されなかった。初等学校への就学率は植民地時代の最末期で男子が6割、女子が4割程度であった。

李氏朝鮮では一般人(特に女子)に対する教育をする機関はなく、7割程度の朝鮮人が読み書きができず、また朝鮮では漢字が重視されハングルは軽視され教育されることはなかった姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』(朝日文庫)姜在彦『朝鮮の歴史と文化』明石書店。日本統治下においては学校教育における科目の一つとしてハングルと漢字の混用による朝鮮語が導入されたため、朝鮮語の識字率は一定の上昇をみた崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』祥伝社。総督府は1912年、近代において初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用諺文綴字法を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のための新正書法である諺文綴字法を作成し、それを用いた。ただし公学校に朝鮮語教育について、その内容や時間数に対し朝鮮人言語学者からの不満がたびたび寄せられ、また朝鮮語の時間以外の教授言語はあくまで日本語であった。

日中戦争以降、総督府は兵士として朝鮮人を動員することなども視野に入れ、「内鮮一体」の名の下朝鮮人の日本人化を急ぐようになった。そのため本格的に朝鮮語の排除と、日本語による置き換えが開始され、公教育から事実上朝鮮語が追放された。賞罰表象を用いた朝鮮総督府の「国語常用」運動(PDF文書)これに関しては、「朝鮮が日本領である以上朝鮮語は日本語の方言であり、内地の方言同様最終的には消滅させるべきである」という朝鮮語方言論「植民地の中の『国語学』」、安田敏郎著、p189~192や、「帝国臣民である以上朝鮮人はその民族性を捨てて、大和民族に同化せねばならない」とする論「植民地の中の『国語学』」、安田敏郎著、p133~134、p147~148 に基づき、朝鮮語の完全な廃棄と日本語の母語化を朝鮮人に求める意見が総督府側に属する日本人言語学者達から流布された。

公教育における朝鮮語の排除と平行して朝鮮語メディアや文芸活動への圧迫も強まり、1940年には「朝鮮日報」「東亜日報」が総督府の命令により廃刊させられ、朝鮮語新聞は総督府が発行する毎日新報一紙のみとなった。また1942年には朝鮮語学会の主要メンバーが治安維持法違反で検挙されたこともある「日韓新たな始まりのための20章」p47~49、三ツ井祟執筆。

大学令による旧制大学については、当初存在しなかったものの、優秀な人材を育成するために京城帝国大学が設立された他方朝鮮人による民立大学設立運動については、民族精神の再生産を行い、植民地統治への妨害になりかねないとして抑圧する姿勢をとったため、京城帝国大学は日本統治下の朝鮮で唯一の大学であったとする見解もある(「日本統治下朝鮮の高等教育-京城帝国大学と民立大学設立運動を巡って」p77、阿部洋著)日本統治時代後期において、京城帝国大学における日本人の学生の比率は6割程度、朝鮮人の学生の比率は4割程度であった。当時の朝鮮における日本人人口は全人口の3%程度であった。

創氏改名

創氏は、朝鮮の苗字のシステムを日本式に改めさせるものであり、一家の中で(主に夫妻で)違っていた苗字をひとつに統一する制度。改名とは姓名を届け出する際に日本風の名前を名乗る制度である。

前者は制度上必須であり、すべての朝鮮人に適用された。後者は建前上は任意であり、当初南次郎総督自身もそのように言明していた。研究者の水野直樹は1940年2月11日の届出開始以降全戸数の中で姓名を届け出た人々の割合が4%程度とすこぶる低かったことから、朝鮮総督府は方針を転換し、下部機関を中心に朝鮮人に日本的な名字を名乗るよう推奨する一大キャンペーンを開始し、この過程で日本的な名字に対して抵抗を示した人々に対しては、さまざまな公的サービスからの排除、および警察からの監視などの圧力が加えられた。結果として80%以上の朝鮮人は日本的な氏の届出をせざるを得なくなった。ただし縁故や意思などによりこれらの圧力をかわした朝鮮人の中には、朝鮮式の氏を使う人も存在した、と主張している。「日韓新たな始まりのための20章」p50~54、水野直樹執筆

創氏改名の第一目標であった朝鮮人の名字のシステムを日本式に改めることに関しては、朝鮮に日本風の家制度を導入することが主眼とされていた。当時の創氏改名のイデオローグ団体のひとつであった緑旗日本文化研究所は、創氏改名の意義について「従来は一身が宗族(朝鮮社会で男系先祖を共有するという意識によって支えられた集団)に結びつけられたが、今後は『各家庭が直接、天皇に結びつけられて居る』この理念が第一義となるのである。」と力説している。(「氏創設の新精神とその手続」p18、緑旗日本文化研究所編、1940年)

植林事業

植林事業とは、初代朝鮮総督府総督の(後に第18代内閣総理大臣となる)寺内正毅の方針で、日本が朝鮮を併合した当初は、禿山だらけだった朝鮮半島を改善するために発令された「山林令」である。

朝鮮半島の地形調査で、朝鮮半島は花崗岩台地の山岳国家で、緑が育ちにくいことが判明し、そこからが始まりとされている。そもそも森林というのはなければ、降雨で土砂が流れ込んでしまい、農林事業に影響を及ぼすのである。そこで出たのが「山林令」で、朝鮮総督府は1911年から30年間で朝鮮半島全人口の一人当たり最低25本という植林事業を行い、換算すれば5億9千万本という植林を行ったとされている。さらに日本個人の造林事業などを含めると実に10億本行ったという記録もある。

独立運動

義兵闘争この過程において、日本側の戦死者は1907年8月から1910年までの3年半の間に、133人である。対して義兵側の死者は17,688人であった。(「朝鮮暴徒討伐誌」、1913年)などに見られるように、併合以前から日本の朝鮮支配計画に反抗する朝鮮人の運動は存在していたが、第一大戦終結後の民族自決理念の高まりと高宗の死によって朝鮮人の独立要求は高まり、1919年には3・1独立運動が起こり大規模な暴動にまで発展した。朝鮮中を巻き込んだこの独立運動は約一年間続き、総督府側による取締りによって多くの死傷者がでた(運動家に殺害された者も多い)。朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば46,948人が逮捕され、7,509人が死亡し、15,961人が負傷した朴殷植は事件発生当時上海亡命しており、死傷者数は伝聞によるものであると本人は本書中で断っているが、韓国の教科書や研究者の一部はこの犠牲者数を参照としている。当時の日本側の統計によれば、8,437人が逮捕され(逮捕されたものは主犯でも懲役3年以下という軽いものであった)、死者数は553人(運動家に殺されたものも含む)、1,409人が負傷した。Template:cite book?「エンサイクロペディア・ブリタニカ」の記述によれば、デモの続いた一年間の間に7000人が日本の警察と軍隊により殺された。Template:cite web?

3.1独立運動時、暴徒と化した民衆によって、警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われている。それを鎮圧するには多少の武力を使うことはどこの国でも行われることでもある名越二荒之助『日韓2000年の真実』国際企画。

こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名なのは堤岩里事件である。この事件は4月15日に堤岩里の住民30余名を教会堂に集めて、小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑で射殺の後放火、他にも日本側が放火し15村落317戸が延焼し、39人が亡くなったというのが全貌である。その違法性については日本側も認識していたらしく「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ尠カラザルコトヲ確メタリ。…之が処分ニ就テハ殺生ハ止ムヲ得ザルモノニシテ放火ハ公然之ヲ認ムルハ情勢上適当ナラザルヲ以テ火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(憲兵司令官より大臣宛電報4/21付け)と上に報告している。

1919年の3.1独立運動は大韓民国臨時政府樹立のきっかけとなり、また満州や沿海州を拠点とし、中朝国境で日本軍とのゲリラ戦に従事するレジスタンス組織の活性化にもつながった。一方総督府も、過酷な統治だけでは植民地体制を持続させることはできないとして、文治政治と呼ばれる一連の懐柔策を打ち出した。朝鮮における憲兵警察制度は廃止され、限定的ながら言論や結社の自由が与えられた。

3・1独立運動後に活発となった満州や沿海州における朝鮮独立を掲げたレジスタンスに関しても、朝鮮総督府は厳格な方針で望んだ。1920年の間島出兵においてはゲリラ戦を行う朝鮮人民兵組織への対処として、彼らが潜んでいるとされた村に対する焼き討ちや村民処刑なども含む態度で臨み、キリスト教の宣教師などからの抗議を受けた「現代史資料(28) 朝鮮(四) 独立運 動(二)」姜徳相著、みすず書房出版、。

第二次世界大戦において、大韓民国臨時政府は1941年12月9日に連合国側に立ちドイツと日本に対して宣戦布告を行った。これは現実の国際政治において影響力のあるものとはいえず、多分に象徴的な意味あいのものだったが、軍事部門である朝鮮解放軍は東南アジアの一部や中国等で作戦を遂行した。現実的な意義を持った活動としては、多くの朝鮮人が中国共産党国民党の軍隊に加わり、日本軍との戦闘に従事した。

経済

当時の大日本帝国は朝鮮を大陸侵出のための重要な拠点と考え、また日本内地に比して遅れていた工業化を補完する目的もあり、朝鮮の近代化のために多額の国家予算を朝鮮半島に投じた。鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場など、最新鋭のインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、結果的に朝鮮半島の近代化に役立っていった。鉄道路線の敷設や日本製鐵清津製鉄所)や三菱製鉄兼二浦製鉄所)による製鉄所の建設、日本窒素肥料(現:チッソ)の進出による水力発電所建設などが行われ、朝鮮総督府からの補助金による1,527件の農業用ダムと410件の水路の建設、5億9千万本以上の植林砂防ダム建設などの水利事業も行われた。これは、それまでの欧米諸国による植民地政策には見られないものであったとする見方もあるCumings Bruce (1984a), "The Legacy of Japanese Colonialism in Korea" in Myers, Ramon H. and Mark R. Peattie (Editors) The Japanese Colonial Empire, 1895-1945, Princeton:Princeton University Press。1920から30年代の朝鮮半島の経済成長率は年間約4パーセントで、同じ期間の欧州(1パーセント台)や日本・米国(3パーセント台)に比べて、より高い成長をしており、朝鮮半島1人当りの生産成長率も約2.4パーセントと高い成長率を記録していた結果が出ている「1920~30年代の成長率4.1%」 2004年3月3日 朝鮮日報。他方、これらの開発工事において、主な労働力は当然ながら朝鮮人の中に求められた。植民地統治の前期においては賦役(無償労働)による工事なども行われており、過酷な負担であるとして3・1独立運動の原因のひとつともなった「我が観たる満鮮」p52~55、中野正剛。賦役の廃止後も、労働者の人権という概念の未発達と植民地人であるという要因などが重なり、朝鮮人労働者は多くの場合劣悪な環境におかれたこの例の一つとして、日本窒素肥料の朝鮮における朝鮮人労働者への劣悪な取り扱いなどがあげられている(「聞書水俣民衆史 第5巻 植民地は天国だった」、岡本達明編著)。

朝鮮王朝末期には大部分で未だに道路の舗装などが行われていなかった京城(朝鮮時代の漢陽、現在のソウル)は、区画整理が行われ路面電車が走る都市となった。衛生面では、朝鮮半島で流行していたコレラ天然痘ペストなどの伝染病の予防政策も行われて乳児死亡率は減少し、また農地の開発により食糧生産量も激増したことで、人口は、併合の4年前1906年には1600万人程度朝鮮末期の人口統計には漏れがあり、1906年の統計では980万人であった。(「日本の植民地支配-肯定・賛美論を検証する」P.30、水野直樹著)だったものが1940年には2,400万人程となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた朝鮮総督府『統計年報』黄文雄『歪められた朝鮮総督府』光文社。

総督府は土地所有者の調査をして所有者のいない土地を接収し、東洋拓殖に買い取らせ、進出した日本人や朝鮮人有力者に分配した。総督府が接収した農地は全耕作地の3.26%ほどである山本有造著『日本植民地経済史研究』名古屋大学出版会。農地が新たに開墾されたことに加え、前述の水利事業によって生産能率が向上したことにより、食糧生産は増大した。但しの多くが日本(内地)に輸出されたため朝鮮人1人当たりの米の消費量は1919年~1921年の平均0.68に対して、1932年から1936年にかけては0.40石まで減少した。朝鮮総督府農林局「朝鮮米穀要覧」この状況をさして、「飢餓輸出」とよぶ研究者も存在している。「日本による朝鮮支配の40年」P.111、姜在彦著逆に全相仁らの研究によると日本時代の米の消費量は平均0.58石の水準を保ち、後半期にはむしろ消費量が若干増加しているとする研究者もいる。またソウル大学李栄薫教授は韓国の「日帝による土地収奪論」は神話であるとし「私たちが植民地時代について知っている韓国人の集団的記憶は多くの場合、作られたもので、教育されたものだ」としておりソウル大教授、日本による土地収奪論は神話、朝鮮人の身長が伸びていることから、少なくとも1920年代中頃までは「朝鮮人の生活水準が着実に向上していたのは明らか」とする見解も存在している日本統治時代の韓国人の平均身長 2006年2月18日朝鮮日報。

李朝末期の韓国は、道路や、農地、山、河川、港湾などが荒廃しきっており、民衆は官吏・地主・両班に高利貸(トンノリ)によって責めたてられて収奪されていた。そのため日本が朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合もつくったことで、農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、韓国人農民に多大な利益をもたらすようになった。また水利組合をつくったおかげで安心して農耕ができるようになったという面も存在する『醜い韓国人』朴泰赫。大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで多額の利益を得ていた。その代表的な人物がサムスングループの創始者である李秉喆である。彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に1938年大邱にて三星商事を設立し、これがのちのサムスングループに発展していった2007年12月7日KBS WORLD

一方で農村の貧民の中には、京城などの大都市でプロレタリアートとして生活の糧を求める人、火田民となるもの、職を求めて日本や満州に渡航した者が数多く出た。京城等における農村出身のプロレタリアート層の中には都市周辺部に粗末な小屋を建てたスラム街を形成し、「土幕民」と呼ばれるものも存在した。「日韓新たな始まりのための20章」p36~37、松本武祝執筆

植民地近代化という性質上、この時期の朝鮮における経済発展の成果は多くが在朝日本人や日本企業に分配され、朝鮮人(とりわけ農村部)への分配度は低く、日本人と現地人たる朝鮮人の間の所得格差も非常に大きなものがあったとされる日帝下朝鮮経済の発展と朝鮮人経済が、それも市場を通じた商行為にすぎずソウル大学、李栄薫教授食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくものであり、強奪したわけではない、利益を得ていた朝鮮人も当然に存在した。

2004年に発表されたソウル大学の調査結果によって、1911年から1937年にかけての朝鮮における産業構造の変化は、第1次産業では75%から45%になり、第2次産業では7%から22%になり、第3次産業では18%から33%となり、資本経済化が飛躍的に遂げられたことが明らかにされた。また、1912年から1937年にかけての年平均実質GDPは4.10%、実質GDEは4.24%の成長をなしており、同時代の日本本土やアメリカの3%台、欧州の1%台を上回り、世界恐慌下においても急速な成長を遂げていたことが明らかにされた。「1920~30年代の成長率4.1%」 (朝鮮日報 2004/03/03)

日本内地との関係

釜山福岡下関などを結ぶフェリーが運航されていた。貧困層を中心に、多くの朝鮮人がフェリーで来日し、日本で職を求めた。仕事を得た人々の多くが日本に定住したが、1945年の敗戦で日本政府が朝鮮における権原を失うと、彼らは日本に帰化するか、新たに朝鮮に成立した韓国または北朝鮮の国籍を得た。

朝鮮からやってきた人々の多くが近畿地方に定住していた。そのため戦後に日本へ来た在日朝鮮人も近畿地方(とくに大阪府)に住むものが多かった。

政治への関与

朝鮮には憲法も選挙法も適用されていなかったが、朝鮮人も日本国籍を付与されていたため、内地における衆議院選挙に参加することは可能であった。唯一朝鮮人として朴春琴が衆議院議員に選出されている。貴族院議員には通算10人の朝鮮人議員が任命されている。そのほか地方議会の議員に選出される者、中央官庁や地方公共団体に勤務する者もいた。杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』。

通貨

日本円と等価の朝鮮圓(円)が朝鮮銀行より発行されていた。この通貨内地(日本本土)では使用できなかったが日本銀行の円との等価交換が保証されていた。 Template:節スタブ?

行政

李氏朝鮮時代の朝鮮八道高宗32年(1895年)に二十三府となり、続く高宗33年(1896年)に制定された13道を引き続き行政区画とした。

また、これら13道の下には<b>郡</b>が置かれ、郡の下にが置かれた。なお、13道は内地都庁府県に、府・邑・面は内地の市町村にそれぞれ相当する。

年表

日本統治前

日本統治時代

脚注

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関連項目

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月13日 (土) 06:48。












     

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最終更新:2009年01月16日 23:28
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