帝国議会(ていこくぎかい)
帝国議会(ていこくぎかい)とは、1889年に発布された大日本帝国憲法(明治憲法)の下での国会(立法機関)である。1890年11月29日の第1回議会から、1947年3月31日の第92回議会まで行われた。
明治初期の自由民権運動、国会開設運動を経て1890年(明治23年)に成立。初期議会においては政府の超然主義と衆議院が対立していたが、日清戦争後には政府と両院の提携が行われるようになり、大正デモクラシーにより政党政治が行われるようになると衆議院の立場が強まるが、軍部などの勢力の台頭で議院内閣制は確立できず、1932年(昭和7年)に起きた軍部のクーデター未遂である五・一五事件で地位が低下する。特に1940年(昭和15年)に全政党が解散して大政翼賛会が成立されると、議会は政府・軍部の提出を追認するだけの翼賛議会と化していったもっとも政府や軍部側も、国民や敵国に対して「挙国一致」の体裁を見せなければならなかったために、議員達にも政府役職の一部を配分し戦争遂行に直接関係しない分野では議会の立場に配慮する等の一定の譲歩がなされたために、その利益を受けた議会指導者や主流派は積極的に翼賛議会確立に努め、政府や軍部の方針に批判的な一部議員は議会内部からも圧力を受けた。。
衆議院では成立当初から乱闘騒ぎがしばしば起きていたのに対し、貴族院ではほとんどなかったとされている。なお、日清戦争中の第7議会は、大本営のあった広島市で開催されている。
1947年(昭和22年)3月31日の第92議会で衆議院は解散し、貴族院は停会された。そして同年5月3日に日本国憲法が施行され、帝国議会に代わり国会が設置された。
衆議院と貴族院の二院制で、貴族院は皇族、華族議員ただし、伯爵以下の議員については7年に1度互選が行われてその代表が議員となることになっていた。と勅選議員、多額納税の議員で構成され、解散はなかった。ただし、皇族が議会に出席したことはなかった。議院相互の関係等は議院法によって規律された。両院は、衆議院の予算先議権を除き、対等の権限を有する1891年2月20日、天野若円(大成会)が提出した、衆議院が大日本帝国憲法第67条関連の予算削減を審議する際には事前に政府の了解を得るという決議が衆議院で可決され、政府もこれを了承した。これは一見帝国議会における予算削減の権限を自主的に制約したようにも見えるが、裏を返せば予算先議権がある衆議院と政府が合意した予算削減に貴族院が更に修正を加える余地を奪うもので衆議院が予算審議における貴族院に対する優越権を議会慣習の形で事実上確立したものであった。。
帝国議会の常会(通常会)は毎年12月に召集され、会期は3ヶ月であったが、勅命によって延長されることもあった。議会の召集・開会・閉会・停会・衆議院解散は天皇大権に属した。衆議院が解散されると、貴族院も停会扱いとされ、解散から5ヶ月以内に衆議院選挙を行って新議会を召集しなければならないとされていた。
日本国憲法下の国会と比較すると、大日本帝国憲法は三権分立の形式を取りながら立法権は天皇の大権に属し、議会には政府が提出する法律案に対する立法協賛権及び予算案に対する予算議定権、政府に対する建議権、天皇に対する上奏権、議会に持ち込まれた請願を審議する権限が与えられていた。また、天皇による法律裁可権に基づく裁可を経るという条件付きながら法律提案権も有していたただし、実際には議会で成立した議員提案の法律案が、天皇の裁可を得られずに成立しなかった例はない。。
(議決を経なければ法律は成立しないものの)帝国議会は天皇の立法権行使に対する協賛機関という位置付けであった点に一番の違いがあり、「立法権は国王と議会が共に持ち行使する」という近現代の欧州立憲君主国における位置づけとはやや異なる。
また、大日本帝国憲法下では法律事項とされる事項であっても、法律に反しない限りは帝国議会の関与を要せず勅令をもって独立命令を制定でき(「立法」の対象が狭く考えられていたただし、緊急勅令は後日議会の承認を得なければ以後の効力は無効となり、非常大権は帝国憲法下では一度も出されなかった。)、皇室経費は議会の協賛の対象外とされその他天皇大権に関わる予算も政府が同意しない限りにおいては削減・廃除が出来ないとされるなど、政治に関する他の多くの権限が議会の統制を受けず、議会の権限は弱かった。従って、帝国議会の議決は、国家の最高意思ではなく、帝国議会の権限外にあった。
日本国憲法下の国会では、委員会制が採られているが、帝国議会では三読会制が採られていて、本会議中心であった。委員会の種類としては全院委員会、常任委員会及び特別委員会が置かれていた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月6日 (土) 03:35。