生麦事件

生麦事件(なまむぎじけん)は、江戸時代末期の文久2年8月21日1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷した事件である。この事件の賠償問題から薩英戦争が起こり、結果として、薩摩藩とイギリスが相互理解を深めるきっかけとなった。京急本線生麦駅近くに事件の石碑が残る。


事件の概要

thumb|350px|『生麦之発殺』早川松山画 明治になって想像で描かれた錦絵で、名前が出ているのは[[島津久光小松帯刀のみ。当時は久光の武勇伝として一般に親しまれていた。]] 文久2年(1862年)、薩摩藩主島津忠義(当時茂久)の父・島津久光は、幕政改革を志し、700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いていたが、ほぼ目的を達し、勅使・大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。久光は大原衛門督の一行より一日早く、8月21日に江戸を出発したが、率いた軍勢は400人あまりであったと『薩藩海軍史』は記している。400人とはいうものの、これは正規の藩士の数であり、荷物を運ぶなど下働きの人数は別で、しかも武器弾薬を多量に携えての大規模な行列だった。

行列が生麦村に差し掛かった折り、騎馬のイギリス人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で、香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンである。4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいた。

生麦村住人の届け出書『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より。ちょうど事件が自宅前で起こったため一部始終を間近に見た勘左衛門が、事件当日に神奈川奉行所に出した報告書である。と神奈川奉行所の役人の覚書神奈川奉行支配定役並・鶴田十郎覚書(嘉永文久年間見聞雑記)『薩藩海軍史』に収録、そして当時イギリス公使館の通訳見習だったアーネスト・サトウの日記『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』よりをつきあわせてみると、ほぼ以下のようなこととなる。

行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れ」といわれただけだと思いこんだ。「わき」といったところで、行列はほぼ道幅いっぱいにひろがっているので、結局4人は、どんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊もつっきり、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの藩士たちの無礼を咎める声に、さすがに、どうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬して敬意を表するという発想はなく、今度は「引き返せ」といわれたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。そのとき、数人の藩士が抜刀し、斬りかかった。4人は驚いて逃げようとしたが、すでに遅かった。リチャードソンは、肩から腹へ斬りさげられ、臓腑が出るほどの重傷で、桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、追いかけてきた藩士にとどめを刺された。

マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に、「あなたを助けることができないから、ただ馬をとばして逃げなさい」と叫んだ。夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部がとばされただけで、無傷だった。マーシャルとクラークは、血を流しながらも馬をとばし、神奈川のアメリカ領事館(本覚寺)へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けることになった。無傷のボロデール夫人が、まっさきに横浜の居留地へ駆け戻り、救援を訴えた。

『薩藩海軍史』によれば、リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門当時京都の薩摩藩邸にかくまわれていた那須信吾の実兄宛書簡は、喜左衛門の弟の奈良原喜八郎としている。であり、さらに逃げる途中で、久木村治休が抜き打ちに斬った。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりで止めをさしたのは、海江田信義であったという。主に海江田信義の著作と直話に基づく話のようだ。 なお、当時近習番だった松方正義の直談によれば、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、おもむろに大小の柄袋を脱したという。つまり、いつでも自ら刀が抜けるよう準備をしたのである。

生麦事件は、東禅寺事件など、それまでに起こった攘夷殺傷事件とはちがって個人的な行為ではなく、大名行列の供回りの多数が、無礼を咎めて一斉に抜刀したものであり、たとえ直接久光の命令がなくとも、暗黙の了解のもとに行われていたことは歴然としている。事件直後、各国公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって開かれた対策会議でも、「島津久光、もしくはその高官を捕虜とする」という議題があがっていて『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』、下手をすれば戦争に直結しかねないだけに、イギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねることとなる。

ボロデール夫人の要請に応えて、最初に動いたのは、イギリス公使館付きの医官だったウィリアム・ウィリスWilliam Willis (physician))である。騎馬で、まだ続いていた薩摩藩士の行列のわきをすりぬけて生麦に向かううちに、横浜在住の加勢の男たち3人が追いついてきて、やがて、イギリスの神奈川領事・ヴァイス大尉率いる公使館付きの騎馬護衛隊も追いついた。一行は、地元住民の妨害を受けながらも、リチャードソンの遺体を発見し、横浜へ運んで帰った。『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』 

実のところ、イギリス代理公使ジョン・ニール中佐は、薩摩との戦闘が起こることを危惧して、騎馬護衛隊の出動を禁じていた。それを無視して、ヴァイス領事が出動したことで、二人の間には確執が生じる。事件当日の夜から翌朝にかけて、横浜居留民の多くが、遺体収容を果たしたヴァイス領事を支持して、武器をとっての報復を叫んでいた。フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールが、それを応援するようなそぶりを見せていたことも、居留民たちの動きを加速した。しかしニール中佐は冷静で、現実的な戦力不足と、全面戦争に発展した場合の不利を説いて騒動を押さえ込み、幕府との外交交渉を重んじる姿勢を貫いた。『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』

一方、島津久光は、その夜、横浜に近い神奈川宿に宿泊する予定を変更して程ヶ谷宿に宿泊した。一行の中にいた大久保利通の当日の日記によれば、横浜居留地の報復の動きを警戒して、藩士二人が探索に出ている。 天領である生麦村の村役人は直ちに事件を神奈川奉行に届け出、これを受けて調査を開始した神奈川奉行は久光一行に対し使者を派遣し事件の報告を求めたが、久光一行は翌日付けで「浪人3、4人が突然出てきて外国人1人を討ち果たしてどこかへ消えたもので、薩摩藩とは関係ない」という人をくったような届け出書を出し、神奈川奉行が引き止めるのを無視してそのまま急いで京へ向かった。当時、薩摩藩が幕府を軽視していたことが伺え、すでにこのとき「イギリスが文句があるのならば直接相手をする」という意志を固めていたという見方もある。神奈川奉行からの報告を受けた老中板倉勝静は薩摩藩江戸留守居役に対し事件の詳しい説明を求めたところ、数日後に「足軽の岡野新助が、行列に馬で乗り込んできた異人を斬って逃げた。探索につとめているが依然行方不明である」という、これまたでたらめな届け出を提出した『薩藩海軍史』。神奈川奉行からの詳細な報告を受け事件の概要を把握していた幕府ではこのデタラメな届け出に憤り、薩摩藩江戸留守居役に出頭を求め糾弾したが、薩摩藩側はシラを切り通した。

薩摩のこの態度には、理由がないわけではない。久光が江戸に到着して間もない6月23日、薩摩藩は幕府に、訴え書き『薩藩海軍史』収録を提出していた。その文面によれば、往路ですでに久光の行列は、騎馬の外国人に遭遇していた。狭い東海道で、日本人の通行にはかまわず、横に並んで広く場所をとり、不作法が見受けられる、というのである。続けて、「久光も少々のことには目をつぶれ、と藩士たちに達してはいるが、先方に目にあまる無礼があった場合は、そのままにするわけにもいかない。各国公使へ不作法はつつしむように達して欲しい」と、訴えている。それに対する幕府の返答は、「そういう達しはすでに出しているが、言葉も通じず、習慣もちがうことから、我慢して穏便にすませて欲しい」というその場しのぎのもので、実のところ幕府は、「大名行列への不作法をつつしんでもらいたい」などという達しは出していなかった。

久木村治休は後年の回顧録に「私ども薩藩の若侍は夷人となると切ってみたかったものだ。しかし、やたらに斬るわけにはいかない。実際、負傷外人が駆けて来た時は「御馳走が来たな」と思った」と書いている、というような話もあるasahi.com:(11)久木村治休・池田哲之さん -マイタウン鹿児島。薩摩から出て、初めて傍若無人に行動する多数の外国人を見て、攘夷気分を昂ぶらせていた藩士も多かったわけで、しかも当時、攘夷殺傷は一般に英雄行為として称えられていた。事件は起こるべくして起こったともいえるのである。

事件発生の背景

当時、宣教の機会をうかがって来日していたアメリカ人女性宣教師のマーガレット・バラは、アメリカの友人への手紙にこう記している。 「その日は江戸から南の領国へ帰るある主君の行列が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、この人たちは当然守らなければならないことも幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。そしてその大名行列に出会ったとき、端によって道をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったのです」 『古き日本の暼見』より

ただ、事件後の代理公使ニール中佐と幕府とのやりとりで見れば、イギリス公使館は勅使・大原重徳の東海道通行の知らせは受け取っていたものの、その日付は、島津久光の通行より一日遅く、またイギリス公使館では翻訳に手間取ってもいて、リチャードソン一行は、イギリス領事館からの正式な告知は、受けていなかったものと思われる。しかし、林董の回顧録に、リチャードソンたちは、「今日は島津三郎通行の通知ありたり。危険多ければ見合すべし」と友人から忠告されていたという話も見えて、アメリカ公使館は非公式の通知を受けていたか、あるいは情報を得て、独自の判断から自国民に警告を出していたのではないかとも考えられる。

事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さない様に道を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、特に問題も起こらなかったという。ヴァン・リードは日本の文化を熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼な事であるか、礼を失すればどういう事になるかを理解しており、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」とイギリス人4名を非難する意見を述べている。『後は昔の記ー林董回顧録』

ヴァン・リードが現実にこのとき東海道にいた傍証としては、アメリカ公使ロバート・ブリュインの本国への報告書をあげることができる。「午後八時ごろ、わたしはこの惨劇のしらせを江戸でうけとった。それはアメリカ人ユージン・ヴァン・リードからの数行の走り書きの手紙によってであった。かれはこの日東海道に出ており、事件の現場からすこしはなれたところにいた。幸いかれは日本語ができたし、日本人のあいだでよくしられていたので、数人の日本人から警告をうけ、そのおかげで無事ボートで横浜にたどりつくことができた」 また、同じく報告書の中で、ブリュインは、以下のように指摘している。「高位の人物が部下をしたがえて通過するとき、他の人々は馬からおり、敬意を表するのがこの国の慣例であることを考えると、リチャードソンがこの日本の慣例にしたがわなかったことは、薩摩の家老によって侮辱とうけとられたかもしれないし、いっそうありうることは、日本の法律で認められている残虐行為を正当化する理由として、そのことが利用されたことである」『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』より

アーネスト・サトウは、後年、イギリス人の知人への書簡にこう書いている。 「……あなたの東方問題に関する長文のお手紙は大変私には興味がありましたが、それについて詳細に申し上げ、またリチャードスン事件についての情報を差し上げる時間はありません。あの当時の日記に私は註釈をつけて置きましたが、それらは舞台裏にいなかった十九歳の少年のものであります。私の記憶に最もなまなましく残っている事実は、他の人々全員に先んじてウィリスが単独で東海道を馬に乗って、負傷者が横たわっている米国領事館まで行き、そのうちの何人かが、おそらく襲撃に加わった、薩摩藩のサムライたちのなかを切り抜けたことです。彼が危害を加えられなかったという事実は、その場に現れたかも知れないすべての外国人たちを殺傷することが、島津三郎の家来たちの心中にはなかったこと、そしてリチャードスン殺害は双方の不幸な大失策であったということです。当時私が耳にしたのは、彼が馬の向きを変えたとき、島津三郎の駕籠に近過ぎ、どうかしてそれに触れたか、おそらく棒の先端に触れたかしたということです。しかし、これが実際に起こったとか、そして一行をサムライたちの怒りに曝したなどと私は主張する気はありません」『アーネスト・サトウの生涯 ーその日記と手紙よりー』より

この手紙を書いたとき、アーネスト・サトウはまだ現役のイギリス外交官(モロッコ駐在特命全権公使)であり、リチャードソンへの非難を明言することはひかえたものと受け取れるが、事件当時の日記にも、リチャードソンに対して、同情的な言及はない。これは、当時の清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルース(Frederick Wright-Bruceエルギン卿の弟)が、リチャードソンに対して、冷ややかな見解をもっていたことにも関係していると思われる。

ブルース公使は、本国の外務大臣ジョン・ラッセル卿への半公信(半ば公の通信)の中で、こう書いている。「リチャードソン氏は慰みに遠乗りに出かけて、大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから他人に敬意を 表せられつけている。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきによけるかしなかったのであろうか。私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分の雇っていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホークであったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である」板野正高著『駐清英国公使ブルースの見た生麦事件のリチャードソン』(学士会報1974年 第723号)『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』より孫引き

以上に見るように、生麦事件は、リチャードソン一行の現地蔑視からくる礼儀を欠いた行動によって発生したものであり、上海におけるリチャードソンのふるまいにも粗暴なものがあって事件を引き起こしていることから、イギリス外務省も、内々には非を認めていたものと推測できる。ただ、ブルース公使も書いているように、極東に進出していたイギリスのミドル・クラスの人々には、現地の習わしをふみにじる粗暴なタイプも多く駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックは横浜の居留民社会を「ヨーロッパの人間の屑」と表現していた。、上海の商人仲間におけるリチャードソンの評判は、かならずしも悪くはなかったようだ。イギリス外務省も、その指令を受ける在日イギリス公使館も、横浜居留商人などの強硬論や被害者家族の訴求を、無視することはできなかった。

事件直後に現場に駆けつけたウィリス医師は、リチャードソンの遺体の惨状に心を痛め、戦争をも辞すべきでないとする強硬論を持ちながらも、一方で兄への手紙にこう書いている。「取るに足らぬ外国人の官吏が、もしそれが同国人であったならば故国のならわしに従って血闘原文が「決闘」ではなく「血闘」になっている。に価するほどの態度で、各省の次官に相当する日本の高官をののしったりします。また、英国人は威張りちらして下層の人たちを打擲し、上流階級の人々にもけっして敬意を払いません。このような態度の大部分はすべての外国人に共通したものなのですが、とりわけ現地の人々のあいだに非友好的な嫌悪の種をまいたのはわれわれ英国人です。-中略-誇り高い日本人にとって、もっとも凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるにちがいありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』より

こういった当時の横浜居留民の常態を考えれば、薩摩藩が、すでに往路で事件が起こりかねなかった状況を訴えていたにもかかわらず、島津久光一行の東海道通行とそれにともなう外国人通行自粛の要請を、幕府が各国公使館に、正式に通告していなかったことの問題は大きい。この不手際は、事件後のイギリスとの外交交渉においても、幕府側の弱みとなり続けた。条約により、居留地を中心として十里四方の外国人の遊歩は自由とされていたことから、幕府の規制要請がない限りにおいては、リチャードソン一行の行動がいかに無礼なものであろうとも、通行の安全を保障すべき幕府の責任を、イギリス側は強硬に追求することができたのである。

事件後の状況と余波

事件から二日後の8月23日、ニール代理公使は、横浜において、外国奉行津田近江守と会談した。この会談で、ニールは、「勅使の通行は連絡があったのに、なぜ島津久光の通行は知らせてこなかったのか」と追求した。これに対して奉行は、「勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもので達する必要はない。これまでもそれで問題はなかった」と答えて、「勅使より薩摩藩の通行の方が問題が起こる可能性が高いのはわかりきった話だろう」と、ニールにつっこまれている。『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』引用の「幕府側の所記」 すでに、幕府の統制が及ばないことがはっきりしている薩摩藩を、「大名は幕府の下にあるのであり、さらに島津久光は元藩主でさえない」という幕藩体制の形式的な身分論でのみとらえて、その幕府の本音を外交上の重要な場面で持ち出すというのは、幕府側に政権当事者としての現実認識が欠けている、といわれても仕方がない。これでは最初から、「大名など身分が低く尊重する必要はないので、無礼をはたらいてもかまわない」と認めてかかっているに等しい。ニールは、本国の外務大臣への報告書に、勅使通行の知らせは受けたが久光通行の知らせはなかったことを明記して、外交上自国に有利な幕府の過失を指摘している。『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』

当然のことながら幕府は、軍勢を率い、勅使をともなって、幕政に口を出しに来た島津久光に対して、敵意をもっていた。そのため、生麦事件の知らせに、「薩摩は幕府を困らせるために、わざと外国人を怒らせる挙に出たのだ」と受け止める幕臣が多数で、薩摩を憎み、イギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったくたてることができないでいたという。『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』が引用する越前藩の記録『再夢記事』(中根雪江著)

一方、攘夷を歓迎していた東海道筋の庶民は、「さすがは薩州さま」と歓呼して久光の行列を迎えたという。『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より。事件当時、戸塚の宿役人だった川島弁之助の後年の談話である。 京都の朝廷もまた、久光を称えた。このとき山階宮晃親王が作った「薩州老将髪衝冠 天子百官免危難 英気凛々生麦役 海辺十里月光寒」という漢詩は、明治になってからも愛唱されることとなる。『薩藩海軍史』 

しかし、生麦事件をきっかけとして、朝廷が攘夷一色に染まってしまったことは、久光および薩摩藩の思惑を超えた結果だった。薩摩藩が幕府に対して抱いていた不満は、むしろ、幕府が外国貿易を独占していたことにあったのである。生麦事件のわずか9日前、ジャーディン・マセソン商会横浜支店のS.J.ガウアーが、ヴァイス領事に出していた報告書には、「独立心に富んだ大名は、心底から攘夷を望んでいるのではなく、外国との交易をこそ望んでいるのに、幕府に不当に妨害されている。外国船を購入するだけでも、幕府の役人に邪魔をされる状態だ。先日船を買いに来た強大な大名の代理人は、幕府に介入されることなく取り引きができるよう、イギリスは自分の藩と通商条約を結ばないだろうか、といっていた」というように記されていた。萩原延壽氏は、『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』で、このガウアーの報告書を紹介し、同時に「強大な大名の代理人」とは、薩摩藩の小松帯刀ではないかと推測している。この報告書に近い時期(8月5日)に、小松帯刀は実際にジャーディン・マセソン商会に出向いて汽船を購入しているのである。『薩藩海軍史』

文久3年(1863年)の年明け早々、生麦事件の処理に関するイギリス外務大臣ラッセル卿の指示が、ニール代理公使のもとへ届いた。幕府に対しては「公式の謝罪と罰金10万ポンド(40万ドル)」、そして薩摩藩には幕府の統制がおよんでいないらしいとの見極めから、薩摩藩に対して「犯人の処刑と賠償金2万5千ポンド(10万ドル)」を求めるもので、話し合いでそれを拒んだ場合は、船舶の捕獲や海上封鎖、薩摩に対しては状況によっては砲撃も考えて対処するように、というものだった。「船舶の捕獲や海上封鎖」というのは、戦闘状態のとば口であり、こういった海上兵力による脅しを、自国居留民の安全をはかりながら実行しろ、というのである。その苛酷な内容は、ニール代理公使をたじろがせるものだったが、本国の命令には逆らえない。なんとか実行すべく、イギリス極東艦隊に要請して、可能なかぎりの数の軍艦を横浜に集めた。『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』

当時イギリス外務省にいて、後に日本へ外交官として赴任することになるA.B.ミットフォードAlgernon Freeman-Mitford, 1st Baron Redesdale)は、「ラッセル卿は外務大臣として外交センスに欠けていた。強気に出るべきところで出ず、不必要なところで強気の言動を見せすぎて摩擦を引き起こしたりした」というようなことを述べている。『The House Of Mitford』 実際、生麦事件に関しても、薩摩に対する対処として「砲撃」に関する指示があいまいであったことから、薩英戦争の後に、「城下町砲撃は過剰攻撃だった」とイギリス議会で問題になった。

海軍力を背景としたニール代理公使のねばり強い交渉の結果、幕府は要求に応じたが、薩摩との交渉は決裂し、薩英戦争にいたることとなった。しかし、ニール代理公使が7隻のイギリス軍艦を引き連れて薩摩に出向く以前に、すでにガウアーは、「薩摩は幕府を介して事件を解決することをいやがっているだけで、独立を確保するために、イギリスと友好条約を結びたがっている」という情報を公使館にもたらし、幕府の中でも事情通の若年寄・酒井飛騨守は、薩摩とイギリスの接近を怖れて、薩摩行きを取りやめるよう、直接ニールに訴えている。『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄』

薩英戦争後の薩摩とイギリス公使館の急接近は、すでにそれ以前から用意されていたもので、戦闘の勃発も、結局それを妨げることなく、むしろ促進することになった、ともいえるだろう。結果論ではあるが、生麦の惨劇は、幕藩体制の矛楯を、諸外国に向けて露呈させるきっかけとなった。


脚注

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参考文献

  • 公爵島津家編纂所編『薩藩海軍史 中』(明治百年史叢書 原書房)昭和43年7月15日発行
  • 萩原延壽著 『遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄1 旅立ち』(朝日新聞社)1998年10月20日発行第1刷
  • ヒュー・コータッツィ著 中須賀哲朗訳『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』(中央公論社)昭和60年4月20日発行初版
  • マーガレット・バラ著 川久保とくお訳『古き日本の暼見 Glimpeses of Old Japan 1861〜1866』(有隣新書 有隣堂)平成4年9月18日発行初版第1刷
  • 林董著 由井正臣校注『後は昔の記ー林董回顧録』(東洋文庫173 平凡社)1990年9月25日初版第7刷
  • イアン・C・ラクストン著 長岡祥三、関口英男訳『アーネスト・サトウの生涯 ーその日記と手紙よりー』(東西交流叢書10 雄松堂出版)2003年8月8日初版発行
  • 徳富蘇峰著 平泉澄校訂『近世日本国民史 文久大勢一変 中編 維新への胎動(中)生麦事件』(講談社学術文庫1119 講談社)1994年3月10日発行第1刷
  • 石井光太郎 東海林静男編『横浜どんたく 上巻』(有隣堂)昭和48年10月30日発行
  • 横田達雄編『青山文庫所蔵資料集1 那須信吾書簡(一)』(青山文庫後援会)昭和52年12月
  • Copyright・Jonathan Guinness with Catherine Guinness,1984『The House Of Mitford』(Orion Books New Ed版 )

生麦事件を題材とした作品

  • 吉村昭『生麦事件』上、下(新潮文庫、2002年)
    • 上 ISBN 4-10-111742-X、下 ISBN 4-10-111743-8

関連項目




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月23日 (金) 07:28。












     

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