谷寿夫

谷 寿夫(たに ひさお、1882年12月23日 - 1947年4月26日)は、岡山県出身の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将南京大虐殺南京事件)の責任を問われ南京裁判において処刑された。

経歴

岡山中学校東京府立四中を経て、陸軍士官学校卒(15期)、陸軍大学校卒(24期 恩賜)。

陸軍士官学校卒業後、日露戦争に従軍し、イギリス駐在武官1915年 - 1918年)中、第一次世界大戦にも従軍する。その後、陸軍大学校の教官(兵学)に任命される。その時、兵学の教科書として、日露戦争を研究する時の必読書として知られる、『機密日露戦史』をあらわす。

1935年第6師団長(熊本)に親補される。1937年12月、中支那方面軍松井石根司令官)の隷下として第6師団も南京攻略戦に参軍する。このとき、所謂、南京大虐殺がおきたとされる。南京攻略戦の成功により、中部防衛司令官に任命された。

1939年予備役となる。戦後、南京大虐殺の責任を問われ、中国側に身柄を引き渡され、南京裁判にかけられ処刑される。裁判において谷は、申弁書で、掃討戦は第16師団(当時の師団長は中島今朝吾)が起こしたものであり、第6師団は無関係と主張した。

だが、現在でも中国側からは、南京裁判で処刑されたことで、南京大虐殺の責任者として松井石根につぎ知名度が高い。谷の上司である第10軍司令官の柳川平助、主力として南京掃討戦を行なった中島第16師団長も1945年に死去しており、松井石根につぐ責任者である上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王は皇族であり不起訴となったため、生き残っていた谷に責任がまわってきたことは不運であった。

著書

  • 『機密日露戦史』新装版、原書房、2004年。 ISBN 4-562-03770-9



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2009年1月11日 (日) 16:52。











    

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最終更新:2009年03月04日 21:37
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