阿部 信行(あべ のぶゆき、明治8年(1875年)11月24日 - 昭和28年(1953年)9月7日)は日本の陸軍軍人、政治家。第36代内閣総理大臣。
石川県金沢市に旧金沢藩士の子としてうまれる。東京府尋常中学(のち東京府立一中)を経て、第四高等学校在学時に日清戦争があり、軍人志望に転換、四高を中退し、陸軍士官学校へ。陸士9期生、陸軍大学校19期生。1930年12月22日に第4師団長となる。1933年、軍事参議官。1936年、二・二六事件後の粛軍の結果、陸軍大将を最後に予備役編入。
1939年8月30日に内閣総理大臣に就任した。参謀本部軍務課長・有末精三が内閣成立に暗躍したともいわれる。また同郷出身者で多くを構成する阿部内閣は「阿部一族」とも「石川内閣」とも呼ばれた。当初は外務大臣を兼任した。2日後の9月1日には第二次世界大戦が勃発した。しかし阿部内閣は、ドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとし、大戦への不介入方針を掲げた。陸軍の反対もあり、翌1940年1月15日に首相職を辞任、内閣総辞職した。
その後、1942年4月30日に実施された翼賛選挙を前に結成された翼賛政治体制協議会の会長に就任。5月20日に結成された翼賛政治会でも引き続き会長を務めた。1944年より朝鮮総督。その年、息子の信弘がイギリス艦隊に対する特攻で戦死している。戦後、A級戦犯容疑で逮捕されるが、極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷直前になって突如起訴予定者のリストから外されたといわれており、同裁判を巡る謎の一つとされている。
Template:Infobox 軍人? 平沼内閣の突然の崩壊で、それまで首相選びの任に当たってきた元老・西園寺公望も「自分には意見がない」と言い出す有様であった。近衛文麿や広田弘毅の再登板説が出たり、宇垣一成陸軍大将、勝田主計元蔵相の名前が挙がったが、なかなかまとまらない。そんなとき、陸軍が阿部を推し、皆が飛びついた。阿部は陸軍大学校では成績優秀の「恩賜の軍刀」組。日露戦争、シベリア出兵で出征はしたものの、実戦には参加せず、「戦わぬ将軍」のあだ名で有名だった。その代わり、軍務局長、陸軍次官の職を無難にこなし、事務屋として力量を発揮した。また陸軍次官の時、宇垣一成陸相が病気入院し、その代理として陸軍大臣を代行した。統制派、皇道派のどちらにも属さず、無色であることも幸いした。
昭和天皇に軍事学を進講したことがあり、天皇も阿部の緻密な頭脳と円満な人柄を評価していた。西園寺に代わって天皇側近として台頭してきた木戸幸一とは姻戚関係にあった。海軍のリベラル派提督・井上成美は義弟という間柄。天皇も阿部なら陸軍の派閥争いを収め、海軍とも気脈を通ずることが出来ると見ていた。しかし、首相というポストは阿部には荷が重すぎたようだ。天皇からの大命を拝命した帰り、湯浅倉平内大臣の所へ顔を出したが、顔中に「朱のこぶ」ができたようだった。湯浅は「首相の大命を受けたら、鼻で3斗の酢を飲むほどの苦痛」を覚悟すべきだと、西園寺がかねがね言っていたことを思い出し、まさにその通りの顔つきだと思った。このとき、阿部は天皇から政策や人事で厳しい注文を受け、緊張の極みにあったのだ。
日独伊三国同盟の締結を棚上げし、日中戦争の処理に全力を挙げる姿勢を見せるなど、阿部も出だしは良識派らしかった。しかし、中華民国との和平も、米英両国との関係改善も進まない。貿易省を新設して外務省から経済外交を取り上げる行政改革に手をつけ、9月26日には閣議決定にまでこぎつけたが、外務省キャリアのほぼ全員が辞表を出すという激しい抵抗にあって失敗。しかもこの年は凶作と流通統制の影響でコメの流通が滞りがちとなり、コメの出回りを促進しようと、米価を引き上げたのが裏目に出て、物価の高騰、物資不足を招いた。あまりの不人気に、陸軍も組閣の4ヶ月後に倒閣に動く有様だった。国会でも退陣を勧告する騒ぎとなり、阿部も一時は衆議院の解散を考えたが、衆議院解散による反軍感情が沸騰することを怖れた陸軍が支持せず、畑俊六陸相、吉田善吾海相に反対され内閣総辞職となった。
終戦時は朝鮮総督であり、最後の総督として植民地統治からの解放を喜ぶ朝鮮人の姿を見せ付けられるという皮肉な結末を迎えた。米軍に護送され早々に引き揚げたが、邦人の保護より自分の生命、財産を守ることを優先したといわれたのは阿部にはやや酷な批判だった。しかし、宇垣一成陸相の下で次官を務め、「宇垣の寵児」といわれながら、宇垣が事実上失脚すると離反した。その後は東條英機と密着し、東條内閣の実現に一役買った。機を見るに敏なところがあったものだから、こうした批判も出たのだろう。「野戦の将軍ではなくて処世の将軍」との厳しい評が生まれるのも故なしとしない。軍令・軍政畑の要職を歴任したことにも見られるように、軍人への道よりも東大か京大を出て官僚への道を進む方が向いていたとも批評されている。
戦後は、首相在任中に、陸軍の暴走を止められなかった自己を責め続けたといわれている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月14日 (土) 10:13。