昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、1849年4月17日(新暦5月9日) - 1914年4月9日)は、日本の皇族。明治天皇の皇后。旧名、一条 美子(いちじょう はるこ)。お印は若葉。病弱で実子はなかったが、嫡妻として、夫の側室が生んだ大正天皇を養子とした。
嘉永2年(1849年)4月17日誕生。従一位左大臣一条忠香の三女で、生母は側室新畑民子(忠香の正室は伏見宮順子女王)。右大臣一条実良(1835-1868年)の妹。徳川慶喜の婚約者であった千代君(照姫)は実の姉であり、千代君に代わって慶喜に嫁いだ美賀子(忠香養女、実は今出川公久の娘)とも義理の姉妹となる。
はじめの諱は勝子(まさこ)。通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)など。安政5年(1858年)6月、寿栄君(すえぎみ)と改名。
慶応3年6月28日(1867年7月29日)、新帝明治天皇の女御に治定。伏見宮家の縁故で、女流漢学者で勤王論者の若江薫子(1835―1881年)が家庭教師として忠香の娘たちの養育に携わっていたが、女御を一条家から出すのに際し、薫子は姉姫を差し置いて妹姫の寿栄君を推薦したと言われている。
明治元年12月26日(1869年2月7日)、美子(はるこ)と改名。同月28日(1869年2月9日)入内して女御の宣下を蒙り、即日皇后に立てられた。この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年(1850年)の出生とされた。当初、中世以来の慣行に従って中宮職を付置され、中宮と称されたが、翌年、中宮職が皇后宮職に改められ、称号も皇后宮と改められた。このときを最後に、中宮職は廃止され、中宮の称号も絶えた。
1914年(大正3年)4月9日午前2時10分、沼津御用邸にて崩御。公式には4月11日同時刻。まる2日ずらされたのは、宮内省内蔵頭当時の収賄で司直の手が及びかけていた渡辺千秋宮内大臣を急遽更迭させるための措置。大喪最高責任者となるはずであった渡辺が大喪の終るまでの約3ヶ月の間に逮捕されると、皇太后の遺徳は汚され宮内省の威信は地に落ちると考えられたためであろう。同年5月9日、宮内省告示第9号により「昭憲皇太后」と追号され、翌年5月1日に、明治天皇とともに明治神宮の祭神とされた。陵墓は伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)。
維新期の皇后として社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現学習院女子部)や、お茶の水の東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した(赤十字社の正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后がたまたま被っていた冠が桐と竹の組み合わせで出来ていた事から、「これがよかろう」という事で決められたという)。津田梅子ら女子留学生の派遣にも関わったとされている。皇后として欧化政策の先頭に立たなければいけない立場をよく自覚しており、1886年(明治19年)以降は、着用の衣服を寝間着を除いてすべて洋服に切り替えた。洋服を率先着用した理由としてもう一つ「上半身と下半身の分かれていない着物は女子の行動を制限して不自由である」という皇后自身の言葉も伝えられている。現在の皇室で意外なほど和服が着られないのは、この時の方針が踏襲されているからである。
また、生涯に3万首を超える和歌を詠み、その一部が『昭憲皇太后御集』として伝わる。昭憲皇太后の御歌としては、1876年(明治9年)2月、東京女子高等師範学校に下賜した校歌「磨かずば玉も鏡もなにかせむ学びの道もかくこそありけれ」(玉も鏡も磨かなければ何にもならない。勉強もそういうもの)が著名であり、また、華族女学校の教育指針を詠んだ「金剛石」「水は器」等も、尋常小学校唱歌として広く歌われた。
崩御に際して「ロンドンタイムズ」は彼女を高く評価した(出雲井晶『エピソードでつづる 昭憲皇太后』参照)。
皇后・皇太后・太皇太后の3つの身位の班列は、皇族身位令により、1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后の順と定められ、諡号・追号には生前帯びていた身位のうち最高のものをつけることになっている。皇后であった彼女の追号は、本来なら「昭憲皇后」とされるはずであった。それが「皇太后」になった理由は、孝明天皇の正妻であり明治天皇の「実母」(嫡母)であった英照皇太后の追号が「皇太后」であったことから、誤ってそれに倣って命名してしまったものとされている。
また、皇族身位令の制定が1910年(明治43年)であっていまだその内容が充分に定着していなかったこと、さらに大宝律令の規定ではこれとは違い、1.太皇太后、2.皇太后、3.皇后の順と定められていたことも影響していると考えられる。英照皇太后は生前女御のままで皇后には冊立されず、明治天皇の即位にともなって皇太后とされたので、その追号は正確なものであったが、昭憲皇太后にはこれは当てはまらない。追号は勅裁により定められたものであるから、誤りが判明しても「綸言汗の如し」としてこれを改めることが出来ず、現在に至っている。彼女を祭神とする明治神宮は、1920年(大正9年)と1963年(昭和38年)の2度にわたって「昭憲皇后」への改号を宮内省・宮内庁に要請しているが、いずれも拒否された。
続く貞明皇后と香淳皇后の2人の皇后は、生前皇后であったことを正確に反映した追号を贈られている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月8日 (土) 02:12。