関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生した海溝型の大地震(関東地震)による災害。東京都・神奈川県・千葉県・静岡県の南関東地方の広い範囲に甚大な被害をもたらした。
上記の従来の数字に対して、近年の学界では、実際の死者・行方不明者はより少なく10万5000人余だったという説が定着している。理科年表では、震災後から2005年度版まで、死者数や倒壊件数などの被害を、現在推定される数値よりかなり多い値で掲載していた。これは震災から2年後に総められた「震災予防調査会報告」に基づいた数値であったが、近年になり武村雅之らの調べによって、重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘され、その説が学界にも定着したため、2006年度版から修正されることになった。鹿島小堀研究室の研究成果を基に、理科年表が関東大震災の被害数を80年ぶりに改訂
thumb|関東大震災により大破した[[凌雲閣]] 地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。加えて能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、「陸軍本所被服廠跡地惨事」で知られる火災旋風を引き起こしながら広まり、鎮火したのは2日後の9月3日午前10時頃とされている。
東京市内の建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破し、建設中だった丸の内の内外ビルディングが損壊。また、大蔵省、文部省、内務省、外務省、警視庁など官公庁の建物や、帝国劇場、三越日本橋本店など、文化・商業施設の多くが焼失した。神田神保町や東京帝国大学図書館、松廼舎文庫も類焼し、多くの貴重な書籍群が失われた。
震源に近かった横浜市では官公庁やグランドホテル・オリエンタルホテルなどが石造・煉瓦作りの洋館であった事から一瞬にして倒壊し、内部にいたものは逃げる間もなく圧死した。更に火災によって外国領事館の全てが焼失,工場・会社事務所も90%近くが焼失した。千葉県房総地域の被害も激しく、特に北条町では古川銀行・房州銀行が辛うじて残った以外は郡役所・停車場等を含む全ての建物が全壊。測候所と旅館が亀裂の中に陥没するなど壊滅的被害を出した。
なお、地震以後も気象観測を続けた東京の中央気象台では、1日21時頃から異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している藤原咲平編『関東大震災調査報告(気象篇)』中央気象台刊行。 この頃、気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失していた。気象記録としては抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。
190万人が被災、14万人余が死亡あるいは行方不明になったとされる(上述のとおり、近年の学界の定説では、死者・行方不明者は10万5000人余と見積もられるようになった)。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2千余棟である。地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴なった火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴なう土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県根府川村(現、小田原市の一部)の根府川駅ではその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出したといわれ、更に村も山崩れにより壊滅したという。
文化人で被害に遭ったのは英文学者・評論家の厨川白村で、鎌倉で津浪に襲われて死んだ。また、避暑に郊外へ来ていた皇族からも3名の死者が出ており、小田原では閑院宮御別邸が倒壊し寛子女王(17歳)が下敷きとなって死去、また藤沢で東久邇宮家の師正王(6歳)が避暑先の別荘の倒壊で死去、鎌倉では山階宮武彦王妃の佐紀子女王(20歳)が別邸の倒壊により死去した。
thumb|150px|朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える[[朝日新聞|大阪朝日新聞(大正12年9月3日号外)]] 1918年に第一次世界大戦が終わり、荒廃したヨーロッパに変わって日本の工業製品輸出が伸びた戦争特需による好景気も、ヨーロッパ経済が急速に回復すると過ぎ去っており、景気に陰りが見えてきた日本経済に甚大な打撃を与えた。
折りしも加藤友三郎内閣総理大臣が8月24日(震災発生8日前)に急逝していたため「首相不在」という異常事態下での災害であった。当時東京にあった新聞社は地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱した事で印刷機能が崩壊し、更に大火によって東京日日新聞・報知新聞・都新聞を除く13社は焼失してしまい、最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付夕刊を発行するまで報道機能は麻痺した。通信・交通手段の途絶も加わって関東以外の地域では伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり(ラジオ放送の実用化はこの直後、大正末期のことである ラジオ)、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」・「津波、赤城山麓にまで達する」・「政府首脳の全滅」・「伊豆諸島の大噴火による消滅」などと言った噂やデマが取り上げられた。その中には朝鮮人が「暴徒化詳細については関東大震災犠牲同胞慰霊碑を参照した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。
このような状況のもと、大災害時に情報が遮断された中で朝鮮人の「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」という噂を信じる日本人は多かった。
時の警視総監・赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戌総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。これを受けて内務省警保局(局長後藤文夫)が各地方長官に向けて警報を打電した。その内容は次のとおりである。「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」。また「行政戒厳」の形で戒厳令を発令した。
更には送信所自身からも“襲撃されるかもしれない、警護求む”“送信所周辺に不穏な動き、大至急救援を”などと。更に警視庁からも戒厳司令部宛「鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし」と“朝鮮人による火薬庫放火計画”なるものが伝えられた(出典は全て『現代史資料 第6巻-関東大震災と朝鮮人』みすず書房)。
実際、当時の混乱の中、大衆の多くが“暴徒と化した朝鮮人”を恐れ、民間の自警団との衝突も発生した。そのため、朝鮮人や中国人なども含めた死者が出た。一説によると、 朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行(俳優・千田是也が暴行されたといわれる)したという。また、福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、多くが殺された。殺害の犠牲者は複数の記録、報告書などから研究者の間で議論が分かれており、当時の政府(司法省)の調査では233人、吉野作造の調査では2711人、最も犠牲者を多く見積もる立場からは6415人(「独立新聞」社長の金承学の調査)と幅が見られる。
また、日本軍も多くの朝鮮人を保護した。 実際は、4合ビンに入れられた井戸水を飲み干して見せ、「朝鮮人が井戸に毒を入れたというのはデマである」と、自警団を追い返したのは、朝鮮人49人を保護した川崎警察署長・太田淸太郎警部である(「神奈川県下の大震火災と警察」神奈川県警察部高等課長西坂勝人著)(毎日新聞湘南版06.09.09朝刊)。
内務省警保局調査では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名であった。また警察は、朝鮮人・中国人などを襲撃した日本人を逮捕している。殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし、そのほとんどが執行猶予となり、実刑となった者も皇太子裕仁親王(当時は摂政)結婚の恩赦で釈放されたという。一方、迫害の標的にされた当の朝鮮人の犯罪は、殺人2名、放火3件、強盗6件、強姦3件であった。“自警団”が本格的に取り締まられるようになるのは10月、解散が命じられるようになるのは11月のことである。
陸軍や憲兵隊の中には、この混乱に乗じて社会主義や自由主義の指導者を一掃しようとする動きがあり、大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが殺された甘粕事件(大杉事件)、労働運動の指導者であった平澤計七など13人が亀戸警察署で軍に銃殺され平澤は首を切り落とされた亀戸事件、在日中国人指導者の王希天などの殺害事件が起きた。
またその被害の大きさから、一時は遷都も検討されたという。遷都の候補地には姫路や京城などが挙げられた。
震災は大きな損害を与え,その被害の甚大な事から一時は遷都も検討されたが、政府としては復興機運が衰える事を恐れて『帝都復興の詔書』を出す事で遷都を公式に否定。山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」を創設する事でようやく大きな復興計画が動いた。江戸時代以来の東京の街の大改革を行い、道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進んだ。また震災後日本で初めてラジオ放送が始まった。その一方で、第一次世界大戦終結後の不況下にあった日本経済にとっては、震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが生じた結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化して後の昭和恐慌の遠因となる。
震災復興事業として作られた代表的な建築物には同潤会アパート、聖橋、復興小学校、復興公園、震災復興橋(隅田川)、九段下ビルなどがある。
後藤新平により帝都復興計画が提案され、被災地を全ていったん国が買い取る提案や、自動車時代を見越した100m道路(低速車と高速車を分離する)の建設、ライフラインの共同溝化など、現在から見ても理想的な近代都市計画が出された。しかし当時の政党間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった。これが失策であった事は、東京大空襲時の火災の拡がり方や、戦後の自動車社会になって思い知らされることとなった。例えば道路については首都高速等を建設(防災のために造られた広域避難のための復興公園(隅田公園)の大部分を割り当てたり、かつ広域延焼防止のために造られた道路の中央分離帯(緑地)を潰すなどして建設された)する必要が出てきた。また現在も、一部地域では道路拡張や都市設備施設などの整備が立ち遅れているという結果を生んだ。
9月には台風災害なども多いことから、関東地震のあった9月1日を「防災の日」と1960年に定め、政府が中心となって全国で防災訓練が行われている。ただし、宮城県沖地震を経験している宮城県、桜島を擁する鹿児島県などのように、独自の防災の日をもうけて、その日に防災訓練をおこなっている地域もある。
また、犠牲者の霊を祀る東京都慰霊堂が建てられている。
地震の数日後、東京の様子は避難民たちの口々から伝えられたが、この時東京でのデマがまだ生きており、埼玉県の本庄町(今の本庄市)では、朝鮮人が震災に乗じて東京を焼き払い、日本人を大量に殺害し、この中仙道をやってくるというデマが流れた。まったく事実無根のデマであったが、町では郡役所の幹部などが県庁からの通達といって消防団等になどに事実として伝え、対策に乗り出すよう指示したとされている。
それから数日が経過した9月4日、警察が保護した朝鮮人たちを乗せたトラックが本庄町を通過し、群馬県に入ろうとした。そのトラックが上里町(当時の神保原村)を抜けて群馬県の手前で足止めを受けた。その後トラックは群馬県に入らず本庄に引き返し、夕方本庄署にたどり着いた。この時本庄署では地元住民達のデマを収拾するために警察官が動員されており、警察署はほぼ無人の状態であった。
本庄署に着いたトラックを取り囲むように地元の住民達が集まり、その後一斉にトラックの上の朝鮮人達に襲い掛かり、リンチに発展した。警察も人員不足から十分に阻止することができず、この事件で五十から百人程度の朝鮮人が殺されたとされている。また、このリンチに加わったものの多くは執行猶予付の騒擾罪を受けたとされている。(朴慶植/著 未來社「朝鮮人強制連行の記録」)
尚、本庄事件の裁判記録による殺傷行為の部分では (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)
「当時極度に昂奮せる群衆は同署 (注:本庄警察署) 構内に殺到し来りて約三千人に達し、同夜中(注:9月4日)より翌五日午前中に亘り右鮮人に対して暴行を加え騒擾中
一、被告Aは同日四日同署構内に於て殺意の下に仕込杖を使用し、他の群衆と相協力して犯意継続の上朝鮮人三名を殺害
一、被告Bは同日殺意の下に同署構内にて鮮人を殺して了えと絶叫し長槍を使用し、他の群衆と協力して犯意を継続の上鮮人四、五名を殺害
一、被告Cは同月五目同所に於て殺意の下に金熊手を使用し、他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害
一、被告Dは同月四日同演武場に於て殺意の下に木刀を使用し、他の群衆と相協力して犯意を継続の上鮮人三名を殺害し、尚同署事務所に居りたる鮮人一名を引出し群衆中に放出して殺害せしめ(以下略)と記録されている。
11月発行予定であった「皇太子結婚式記念」の切手4種類のほとんどが、逓信省の倉庫で原版もろとも焼失し、切手や記念絵葉書は発行中止となった。その後、当時日本領だった南洋庁(パラオ)へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は1924年の1月まで延期したうえで挙行された。 又、普通切手やはがき、そして印紙も焼失し、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の郵便局の在庫が逼迫することが予想されたため、糊や目打なしの臨時切手が、民間の印刷会社(精版印刷・大阪、秀英舎・東京)に製造を委託、発行(9種類)された。その他にはがき(2種類)、印紙なども同様にして製造された。
吉村昭によるノンフィクション『関東大震災』(のち文春文庫)は、初めてまとまった形でこの震災を捉えたものとされ、吉村は1973年、菊池寛賞を受賞した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月15日 (土) 17:14。