甘粕事件(あまかすじけん)は、関東大震災の直後の1923年9月16日、アナキストの大杉栄・伊藤野枝とその甥の計3名が憲兵隊に強制連行・殺害された事件。主犯は憲兵大尉・甘粕正彦らとされる。大杉事件ともいう。
関東大震災後、東京や神奈川が混乱に陥り戒厳令が発せられていたさなか、大杉栄は内縁の妻伊藤野枝と、神奈川県橘樹郡鶴見町(現在の横浜市鶴見区)に住む大杉の妹あやめを見舞い、その息子の橘宗一(6歳)をつれて東京に戻る途中、行方不明になった。
彼らが憲兵隊に連れ去られたといううわさが広まり、9月20日、時事新報や読売新聞などにより大杉ら3人の殺害が報じられた。日本を騒がせるアナキストであり恋愛スキャンダル(日蔭茶屋事件)でも世間に有名になった大杉・伊藤の二人に加え、6歳の小児までも殺されたとあって世間は騒然となった。
軍と対立する警視庁は捜査を要求。また、殺された大杉の甥・橘宗一がアメリカの市民権を持っていたため、米国大使館の抗議を受けて政府は狼狽し、9月19日の閣議でも問題になっていたばかりだった。隠し通せなくなった軍は9月20日付で東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長であった甘粕正彦大尉を軍法会議に送致し、福田雅太郎戒厳司令官を更迭、憲兵司令官小泉六一少将らを停職とした。
4日後の9月24日に軍法会議予審があり、事件の概要が明らかにされた。 それによると、甘粕大尉らは、大震災の混乱に乗じてアナキストらが不穏な動きを起こし政府を転覆しようとすると憂慮し、アナキストの主要人物であった大杉と伊藤を殺害することを決めた。9月16日、大杉ら3人が鶴見から帰る途中、自宅付近で甘粕大尉と東京憲兵隊本部付(特高課)の森慶次郎曹長が3人を拉致し、麹町憲兵分隊に連行した。その夜の取り調べの最中、3人は甘粕大尉とその部下達に殺害され、死体は分隊裏の古井戸に投げ込まれた、という。
このスキャンダラスな事件についての軍法会議は連日詳しく報道され、亀戸事件・朴烈事件など、大震災直後に起こった社会主義者・労働運動家らに対する警察や軍による拘束や虐殺ともあいまって多くの国民の怒りが湧き上がる一方、「国賊・大杉を処断した甘粕大尉に減刑を」との署名が数十万名分も集まるなど甘粕大尉を支持する声も強く、世論は二つに割れた。
甘粕大尉は、これは全て一個人の判断によるもので誰から指示された訳でもないと主張したが、当初からこの事件は憲兵隊や軍の上層部の関与が疑われていた。甘粕大尉は審理の中で、「個人の考えで3人全てを殺害した」から「子供は殺していない。菰包みになったのを見て、初めてそれを知った」まで何度も証言を変えており、最終的には部下の供述から「甘粕大尉が子供も殺せと命令した」と断定されている。また共犯の部下からは「憲兵司令官の指示により殺害した」など、軍の関与をうかがわせる供述まで飛び出した。
しかし軍法会議は甘粕の背後関係には立ち入らず、12月に甘粕大尉に懲役10年、森曹長に同3年、その他殺害に関与したとされていた部下3名に無罪の判決を下して結審した。
アナキストらは大杉殺害の報復として、その後1年ほどの間に軍幹部の狙撃事件などを起こしたが、次々と逮捕され、あるものは殺されあるものは転向して満州に渡るなどし、アナキスト運動は急速に衰退の方向に向かった。
甘粕大尉は3年弱、千葉刑務所において刑に服したが、1926年(大正15年)の10月にひっそりと釈放され、その後陸軍の官費で夫婦でフランスに留学し、後に満州に渡って満州事変に関わることになる。
この甘粕事件は、1960年、新東宝が『大虐殺』のタイトルで映画化している。関東大震災のスペクタクルシーンで始まるフィクションだが、亀戸事件の朝鮮人虐殺、大杉らに対する拷問、軍法会議等をドラマに盛り込んでいる。
また、大杉栄・伊藤野枝の恋愛スキャンダルや虐殺事件については、1970年に吉田喜重監督により『エロス+虐殺』のタイトルで映画化されている。
事件の主犯は甘粕大尉ではないとする説は根強く存在している(笠原和夫の麻布第三連隊主犯説、竹中労の陸軍幹部謀略説など)。 その傍証としては、
などが挙げられる。そのため、「甘粕は事件自体に関与していない」「大杉以外の殺害は知らなかった」などのさまざまな説が生まれたが、現在となっては真相の検証は困難である。なお、満州時代の甘粕は、満州映画協会幹部らとの私的な席で「ぼくはやっていない」という発言をしているTemplate:要出典?。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月30日 (木) 02:12。