スバス・チャンドラ・ボース (Subhas Chandra Bose, デーヴァナーガリー文字:सुभाष चन्द्र बोस, ベンガル文字:সুভাষ চন্দ্র বসু, 1897年1月23日 - 1945年8月18日)はインドの急進的独立運動家、インド国民会議派議長、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。ベンガル人。ネタージ(指導者:नेताजी, Netaji)の敬称で呼ばれる。
1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のオリッサ州に生まれ、カルカッタ(現在のコルカタ)の大学を卒業、両親の希望でケンブリッジ大学に留学したが、1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。
1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されビルマのマンダレーに流される。釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出されたが、イギリスの手により免職された。その後も即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍し、1937年と1939年には国民会議派議長を務めた。その後、ガンディーら穏健派と対立し国民会議派を除名される。
第二次世界大戦勃発後、1941年密かにインドを脱出して陸路アフガニスタンを経て、ソ連でスターリンに協力を要請するが、断られたため、ソ連経由でナチス政権下のドイツに亡命した。
ムッソリーニやヒトラーにも協力を要請するが、ヒトラーには「インドの独立にはあと150年はかかる」と言われ協力を拒否された。また、このころドイツ人女性と出会い一女をもうけるが、政治的な問題で結婚はしていない(ボースは社会主義者だった)。ドイツではインド人から成るインド旅団(兵力3個大隊、約2,000人)を結成し、イギリスからの独立のために協力していた。ボースのベルリンからの反英ラジオ放送は有名である。
日本の真珠湾攻撃の知らせを聞いたボースは、日本に協力を願い出ることを望むが、すでに独ソ戦が始まっており、往路と同じルートを取ることは不可能だった。しかし、これを聞いた日本がインドへの影響力を考え、ボースとの協力を承諾。日本からドイツへの要請で、ドイツ海軍の潜水艦U180で密かにフランス大西洋岸のブレストを出航、インド洋でUボートから日本の伊号第二九潜水艦に乗り換えて東京に到着した。
thumb|200px|大東亜会議に参加した各国首脳。左から[[バー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース]] 東京では、以前から日本を拠点に独立運動を行っていたラース・ビハーリー・ボース(「中村屋のボース」)やA・M・ナーイルらと合流、日本の支援により同年10月21日に日本統治下のシンガポールで「自由インド仮政府首班」に就任。同年に行われた大東亜会議にオブザーバーとして参加する。また、英領マラヤや香港で捕虜になったインド兵を中心に結成されていた「インド国民軍」の最高司令官にも就任し、インド国民軍は1944年日本軍とともにインパール作戦に参加した。
なお、ドイツのインド旅団、すなわち自由インド軍団は、チャンドラ・ボース日本脱出後も欧州戦線でドイツ軍側で活動していた。また、当時の日本の首相である東條英機はボースを高く評価し、たびたび会談していた。東條自身、ボースの東亜解放思想を自らが提唱する大東亜共栄圏成立に無くてはならないものだと考えていた。
日本の敗戦により、日本と協力してインド独立を勝ち取ることが不可能となった。ボースは東西冷戦を予想し、イギリスに対抗するためソ連と協力しようとした。しかしソ連へ向かおうとした時、台湾の松山飛行場で搭乗していた九七式重爆撃機の墜落事故により死去した。彼の臨終の言葉は「インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ。」ボースの遺骨は東京都杉並区の日蓮宗連光寺で眠っている。
インドでは、チャンドラ・ボースは生きているという噂が長く語られ、政府が調査団を組織して生存の可能性がないことを確認し、報告書も作成した。しかし、近年実施された3度目の報告書では、台湾での死亡と日本での埋葬に関して「確実とはいえない」という内容となっており、再び議論を呼び起こしている。この件に関してボースの遺族は、報告書の内容に批判的な立場を取っていると伝えられている。
ラース・ビハーリー・ボースと血縁関係はないが、遺骨が安置されている蓮光寺では、ビハーリー・ボースの側近が住んでいた家の近くにあり、密かに行われた葬儀の際はビハーリー・ボースのそれとして行われ、中村屋の菓子が供えられたという。
その後蓮光寺には、インドのプラサード大統領・ネルー首相・ガンジー首相などが訪問しており、その時の言葉も碑文として残されている。
インドの国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボース、右にはガンディー、左にはジャワハルラール・ネルーの肖像画が掲げられている。インドでは現在も人気の高い政治家である。また現在もコルカタにはボースがインドを脱出する直前まで住んでいた邸宅(ネタージ・バワン)があり、記念館となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年9月27日 (土) 16:58。