戊辰戦争


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戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦。慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。この戦争の結果、薩長、薩長協力藩(佐賀藩、土佐藩等)出身者が明治政府の主体となり、うねる時代のなかで日本は近代的な中央集権国家への道を歩んでいった。

概要

戊辰戦争は、徳川慶喜の処分の問題に起因する「鳥羽・伏見の戦い」の段階、松平容保の処分の問題に起因する「東北戦争(北越戦争会津戦争を含む)」の段階、旧幕府勢力が最後の抵抗を試みた「箱館戦争」の段階の3段階に区分できる。

鳥羽・伏見の戦いの段階では、石高や兵力数では旧幕府軍が優勢であり、新政府軍では天皇を連れて京都から撤退することも検討していたと言われる。しかし、旧幕府軍は肝心の徳川慶喜大阪の戦場に将兵を置き去りにしたまま大阪湾から江戸に敵前逃亡するという大失態を演じ、旧幕府軍は敗北した。本物かどうかは疑わしいが、新政府軍に錦の御旗が登場したことも、旧幕府側の戦意に影響した。

徳川慶喜が降伏恭順に徹したため、戦争終結までほぼ一貫して新政府軍の優勢のうちに戦いが進められた。「近代化を進めた新政府軍に対して、遅れた旧幕府側の軍隊が対抗できなかったために敗れた」というのは誤りで、実際は旧幕府軍も早くから軍隊の西洋化に取り組んでおり、新政府軍に対して劣っていたとはいえない(特に海軍は旧幕府軍のみが持っていた強力な戦力であった)。また、開戦時における総戦力差は圧倒的であり、旧幕府軍の稚拙な軍事指揮がなければ新政府軍では太刀打ちできなかったという見方も強い。

新政府軍は主にイギリスから、旧幕府軍は主にフランスから、軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。しかし両陣営とも外国の軍隊の派兵を要請することはなかったため、欧米列強による内政干渉という事態は避けられた。

両陣営の呼称として、新政府側については官軍西軍薩長軍、旧幕府側については東軍、(奥羽越列藩)同盟軍といった呼び方もなされるが、本項目では便宜上新政府軍旧幕府軍に呼称を統一する。ただしこの定義を使用した場合、東北戦争における列藩同盟軍を「旧幕府とは無関係な旧幕府軍」とせざるを得ないなど、その歴史的実態との間に複数の矛盾を抱える事ともなる。

鳥羽・伏見の戦い

Template:main? 王政復古後の新政府は薩摩藩長州藩を中心とする倒幕派と、会津藩・土佐藩越前藩ら旧幕府を含めた諸藩連合を目指す公議政体派とが対立した。両者は微妙な力関係がつづいたが、慶応3年12月9日(グレゴリオ暦1868年1月3日)、倒幕派が中心となって新政府の小御所会議を開き、徳川慶喜の辞官納地を決議した。

これに反発した旧幕府側では、幕府歩兵隊会津藩兵、桑名藩兵などが大坂から京都へ進軍し、薩摩藩・長州藩の軍勢と慶応4年1月3日(1868年1月27日)、京都南郊外の鳥羽と伏見で衝突した。この初戦で薩長軍が圧勝して討幕派が新政府の実権を握り、慶喜を朝敵とした。

しかし、この時点での総戦力では未だに幕府軍が圧倒的に上回っており、巻き返すのも時間の問題かと思われたが、なんと慶喜は軍を捨てて大坂城を脱出(1月6日)、海路で江戸へ逃走した。指揮官を失った旧幕府軍は、抗戦をやめ、各藩へ兵を帰した。

江戸への進軍

甲州勝沼及び野州梁田の戦い

Template:main? 慶喜は上野寛永寺にて謹慎し、天皇に反抗する意志がないことを示そうとした。しかし、新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍を組織し、東海道軍東山道軍北陸道軍に別れ、江戸へ向けて進軍した。

旧幕府軍では、近藤勇らの率いる甲陽鎮撫隊を組織して甲府城を押さえようとした。東山道を進み信州にいた土佐藩士板垣退助・薩摩藩士伊地知正治が率いる新政府の東山道軍は、この動きを封じるために板垣退助が指揮する東山道軍の別働隊を甲州へ向かわせ、旧幕府軍よりも早く甲府城に到着し接収した。甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年3月6日(同3月29日)新政府軍に敗れた。

一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの現足利市梁田宿で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲をかけ、これを撃破した。

江戸開城

駿府に進軍した新政府の東海道軍は、3月6日の軍議において江戸城総攻撃を3月15日と定め、準備を始めた。恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け会談、西郷より降伏条件として、徳川慶喜の備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。

西郷は3月13日、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。翌日勝は

  • 慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること
  • 江戸城は明け渡しの後、即日田安家に預けること

等の旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。結果、4月4日に勅使(先鋒総督橋本実梁・同副総督柳原前光)が江戸城に入り、

  • 慶喜は水戸にて謹慎すること
  • 江戸城は尾張家に預けること

等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。21日には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入ったのである。

船橋の戦い

Template:main? 慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日5月24日)に市川鎌ヶ谷船橋周辺で両軍は衝突した。この戦いは最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。この戦い以後、江戸以東における新政府に対する集団的な抵抗はなくなった。

宇都宮城の戦い

Template:main? 江戸城は開城したものの、徹底抗戦派の幕臣は大量に江戸を脱走し、北関東を転戦した。その道中、小山付近や宇都宮伝習隊などの旧幕府軍と新政府軍が戦った。4月19日、(同5月11日)に旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、奪い返され、今市日光方面に退却した。

上野戦争

Template:main? 徳川慶喜が謹慎していた上野寛永寺には、旧幕府徹底抗戦派の彰義隊が集結して反政府軍の拠点となっており、しばしば新政府軍の兵士と衝突した。

「江戸無血開城」に成功し、事実上幕府を滅亡させた新政府の東海道軍を率いる西郷隆盛は、旧幕府穏健派の勝海舟との関係から、彰義隊への対応の甘さが指摘されていた。大総督府は長州藩士大村益次郎を軍防事務局判事として赴任させた。

大村益次郎は5月1日、旧幕府による江戸府中取締の任を解き、5月15日(同7月4日)、彰義隊を攻撃した。新政府の東海道軍はわずか一日の戦いで彰義隊を壊滅させた。 これにより、新政府は江戸以西を掌握することとなり、7月には江戸が東京と改称された。

東北戦争(東北地方・新潟の戦い)

奥羽越列藩同盟

Template:main? 新撰組を配下に持つ京都守護職の会津藩主松平容保は、禁門の変孝明天皇がいる御所に向かって砲撃した長州藩を撃退した。また、新徴組を配下に持つ江戸警護役庄内藩(鶴岡藩)藩主酒井忠篤は、江戸で火付け・強盗などの乱暴狼藉を働き幕府側を挑発した西郷隆盛に対して、将軍に要請して兵力2,000の諸大名軍の中核部隊となり、「薩摩藩邸焼き討ち」を断行した。

そのため王政復古で幕府側と薩長の立場が逆転すると、15歳の明治天皇を旗頭とした長州藩と薩摩藩はそれぞれの私怨に基づき、長州藩の「朝敵」指定を解除する一方で、逆に会津藩と庄内藩を朝敵として陥れた。そして、会津藩と庄内藩に対して、藩主、松平容保と酒井忠篤の首を差し出すよう要求した。朝敵とされた会津藩庄内藩の征討を命ぜられていた東北諸藩は、罪の無いまま断罪されるべき立場へと追い込まれた両藩に深く同情し、同時に「夷をもって夷を征す」と称して東北勢を同士討ちさせようとする新政府の態度を嫌った。

「江戸無血開城」により幕府が新政府に降伏すると、新政府は公家を奉戴した「奥羽鎮撫総督府」を海路、松島湾から仙台入りさせた。しかし主に薩摩藩士からなる随行の新政府軍は、仙台城下において強盗、殺人、放火、強姦を行っては仲間内でその“戦果”の数を競い合うという“官軍風”を吹かせた。また家紋である「竹に雀」をからかう俗謡を作り、仙台藩そのものを嘲笑する態度を隠さなかった。その様な中、総督府の実権を握る下参謀の薩摩藩士大山綱良は、庄内藩を征討するために仙台から出陣した。

“日本一の兵力”を誇る大国の仙台藩は、しかしこの当時他の東北諸藩と同様、相次ぐ飢饉によってその国力は大幅に低下していた。また統治システムの古さや幼君が続いた事などから伝統的に藩主の統制力が弱く、百出する意見の集約にも時間がとられ、この危急の事態に対してもしばらく明快な態度をとることが出来なかった。しかし会津征伐の論理性の無さが奇しくも“官軍風”によって示された形となった事で、次第に藩内における新政府への不信感は増大し、それを受けて最終的に藩主伊達慶邦は会津藩の救済を決定した。仙台藩は総督府からの攻撃命令に従って藩兵を会津領国境まで出兵させたが、しかしこの軍事行動は、会津藩と戦う意思のない偽装出兵だった。仙台藩は会津藩に対して、藩主・松平容保の命を救うためには開城して降伏するしかないと説得した。しかし、会津藩は開城を拒み、松平容保の城外謹慎による降伏を譲らなかった。仙台藩は会津藩と交渉を重ねたが、会津藩が提示した条件で松平容保を救済するより他ないと諦めた。仙台藩の圧力により会津藩は新政府に対して、開城せずに武装したまま降伏した。しかし新政府は、自らが求める以外の形で会津藩が降伏する事を認めなかった。

こうした状況のなか、伊達慶邦の内意を受けた仙台藩首席家老の但木成行は、東北諸藩(松前藩を含む)の藩主や家老を仙台藩領白石に招集し、閏4月、「白石列藩会議」を開催した。

東北諸藩は会津藩の救済を決議し、伊達慶邦及び米沢藩上杉斉憲が、左大臣九条道孝総督のいる仙台領岩沼まで出陣し、九条総督に「会津藩寛典処分嘆願書」等を直々に手渡した。九条総督は仙台・米沢両藩主に対して、仙台・米沢両藩による「第二の王政復古(のクーデター)」を目指すことを約束した。しかし、総督府の実権を握るもう一人の下参謀の長州藩士世良修三の影響により、九条総督は前言を翻して嘆願書を却下した。

奥羽鎮撫総督府の仙台入り後、かねてより薩長の下参謀大山・世良両名を監視下に置いていた仙台藩は、世良が出羽新庄にいる大山宛に送った『奥羽皆敵』の東北地方への総攻撃を促す密書を入手すると、首席家老但木成行の指令によって世良修三を福島で捕縛して処刑し、さらに岩沼に出兵して九条総督を囲んで仙台へ移し、九条総督を東北諸藩の旗頭として奉戴した。新政府軍への事実上の宣戦布告である。

東北諸藩は、新政府の私怨による会津藩庄内藩の征討を断罪することを宣言し、最大藩の仙台藩を盟主に、穏健派を代表する立場に在った米沢藩を準盟主として、「奥羽列藩同盟」を結成した。さらに、河井継之助の指導する長岡藩ら越後の諸藩も加わって、「奥羽越列藩同盟」が成立した。「奥羽越列藩同盟」には「総督」である仙台藩主伊達慶邦・米沢藩主上杉斉憲の下に、旧幕府の老中である板倉勝静小笠原長行が参謀として加わった。同じく老中の前磐城平藩安藤信正も北部政府側に加わった。「奥羽越列藩同盟」は同盟の政府機関である「奥羽越公議府」を仙台領白石に置いた。ここに、“南日本政権”たる薩長両藩を主体とした新政府に対抗する“北日本政権”、すなわち「北部政府」が誕生した。「戊辰戦争」は、東北地方・新潟・北海道を勢力範囲とする北部政府と、南関東、以南を勢力範囲とする新政府との、日本を二分する「南北戦争」に発展したのである(松前藩は途中で新政府側に鞍替えし、のちに榎本軍の攻撃を受ける)。

しかし列藩同盟に加わった各藩には、様々な事情によりその初期からかなりの意見の差異が見られた。また列藩同盟の目的そのものも、初期の会津、庄内両藩の救済から、新政府軍の武力侵攻に対する共同防衛へ、さらには独自政府の樹立へとめまぐるしく変化し、その足並みの乱れは次第に大きくなっていった。そのような中で北部政府側の秋田藩が薩摩藩の説得によって新政府側に寝返り、九条総督が新政府側に騙し取られる事件が起きる。仙台藩はその対応策として、孝明天皇の弟である輪王寺宮公現法親王を上野寛永寺から仙台城下の仙岳寺へ呼び寄せ、更には「東武天皇」として即位させて伊達慶邦を征夷大将軍に、松平容保を征夷副将軍に就任させるという「北部朝廷」の樹立を目論んだ。しかし、仙台入りした輪王寺宮はこれを辞退して北部政府の「盟主」となるにとどまり、明治天皇に対抗する新朝廷の誕生は実現しなかった。

北越戦争

Template:main? 新政府の北陸道軍は、会津藩征討のため北陸道を東進した。長岡藩上席家老河井継之助は、5月2日に東山道鎮撫総督府軍監岩村精一郎小千谷で会談した(小千谷会談)。河井は岩村に会津説得のための猶予を嘆願したが、度量のない“小者”の岩村に拒否された。これにより長岡藩は奥羽列藩同盟に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いたため、長岡藩を中心とする北部政府軍(列藩同盟軍)と新政府軍の間に戦端が開かれた。

幕閣をも内包する北部政府は、同盟関係にある旧幕府脱走艦隊を率いる榎本武揚に対して、再三にわたって援軍を要請した。しかし、榎本は品川沖で高見の見物を決め込んで北部政府からの要請を無視し、さらに新政府軍の軍船が品川沖から出陣するのを、攻撃しないで傍観した。そうした状況のなか、河井継之助の指揮下、ドイツ(プロシア)から購入したガトリング砲を有する長岡藩の抵抗は頑強を極め、新政府軍は多くの被害を出した。長岡城は一旦落城するも、長岡藩兵により奪還された。しかし、7月29日(同9月15日)、新政府軍は再攻勢をかけて長岡城を占領。同日、米沢藩兵の守る新潟が陥落し、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。武器類の補給を「新潟港」に頼っていた北部政府は、深刻な事態に追い込まれた。なお、河井継之助は「長岡城の戦い」で受けた傷によって命を落とした。

東北戦争(会津戦争を含む)

Template:main? 新政府がイギリスから最新式の銃器を購入したのに対して、北部政府がドイツ(プロシア)から売り渡されたのは、旧式の銃器ばかりだった。この武器の性能の差が勝負を決定づけ、新政府軍を勝利に導いた。

また、江戸幕府が発令した武家諸法度の「大船建造禁止令」のために海軍が存在しない北部政府は、同盟関係にある幕府艦隊を率いて脱走した旧幕府海軍副総裁榎本武揚に対して、再三にわたり援軍の要請を行った。しかし、徳川家の温存にのみ関心をもつ榎本は、北部政府からの要請を無視した。この「榎本艦隊の裏切り」も、新政府を勝利に導いた。同じく、秋田藩・弘前藩三春藩米沢藩と北部政府の諸藩が次々に新政府に寝返ったことも、北部政府の大きな敗因となった。

西郷隆盛が率いる新政府の東海道軍が関東地方の旧幕府領(徳川領)を制圧するなか、土佐藩士板垣退助、薩摩藩士伊地知正治が率いる新政府の東山道軍は、仙台藩、会津藩を倒すべく東北地方を目指して進軍した。新政府軍と北部政府軍(列藩同盟軍)は、東北地方の南部、および庄内・秋田方面で戦った(東北戦争)。

閏4月20日(同6月10日)から開始された白河口の戦いでは、白河城をめぐる攻防戦が3か月余り続いた。「白河城攻防戦」では、北部政府軍と新政府軍が六度、激突した。この「白河口の戦い」こそが、「戊辰戦争」における最大の激戦である。

そして、仙台藩士細谷直英(十太夫)は、須賀川で奥州の大親分を含む東北地方の侠客・博徒・農民などを糾合して衝撃隊を結成し、黒装束に身を包んで長脇差で夜襲攻撃を繰り返し、衝撃隊は新政府軍から「鴉組(からすぐみ)」と呼ばれて恐れられた。

しかし、北部政府軍は「白河城の戦い」で、司令官の会津藩家老西郷頼母の稚拙な作戦によって大敗し、総督府下参謀世良修三を捕縛・処刑した仙台藩士姉歯武之進ら多くが戦死した。さらに「上野戦争」で彰義隊が壊滅すると、新政府軍の戦力が優勢となった。

6月16日から6月20日にかけて、海路、平潟港(茨城県北茨城市)に新政府軍の援軍1,500が上陸した。一方、「庄内戦線」では、仙台から出陣した総督府下参謀大山綱良率いる新政府軍が庄内藩を攻撃したが、庄内藩は新政府軍を圧倒していた。余力があった庄内藩は、「白河城攻防戦」で苦戦していていた“南方戦線”に、援軍を送ろうとしていた。そうした状況の中、7月7日、勤皇思想家平田篤胤の流れを汲む北部政府側の秋田藩が仙台藩から九条総督を騙し取り、さらに仙台藩からの使節11人を殺害し、新政府側に寝返った。仙台藩は“背後の敵”、秋田へも軍兵を投入しなければならなくなり、「白河城攻防戦」における兵力が手薄になってしまった。同じく、庄内藩も秋田藩と戦わなければならなくなり、白河救援作戦を断念せざるを得なくなった。こうして北部政府軍は、戦いの流れを変えるチャンスを失った。

7月13日、新政府軍は北部政府側の磐城平藩の磐城平城(福島県いわき市)を攻撃した(平城の戦い)。このとき、平城を救援するために四ツ倉に在陣していた米沢藩兵(上杉氏)は、「平城の戦い」に参戦しないで傍観し、北部政府を事実上裏切った。新政府軍の攻撃により平城内の仙台藩兵は仙台領国境の駒ヶ嶺まで退却し、前平藩主で旧幕府老中の安藤信正も、居城を捨てて脱出した。

平城を攻め落とした新政府軍は北上し、7月下旬、三春藩(秋田氏)が新政府側に寝返った。新政府軍5,000は二本松(福島県二本松市)に集結し、7月29日(同9月15日)、二本松藩(丹羽氏)の二本松城を攻撃した。二本松少年隊の奮戦むなしく、二本松城は落城した。8月21日(同10月6日)、新政府に寝返った三春領民の手引きによって、新政府軍が母成峠から会津領国境に至り、「母成峠の戦い」で北部政府軍の防衛線が突破された。新政府軍は若松城を包囲し、会津藩兵は篭城して戦った。8月28日、米沢藩が降伏。9月15日、北部政府の盟主である仙台藩が、仙台領の南部国境地帯で行われた「旗巻峠の戦い」で新政府軍に敗れ、新政府軍の領内侵入をまえに降伏した。9月22日(同11月6日)、篭城して徹底抗戦を続けた会津藩も、「白虎隊の悲劇」のあと降伏した。ここに北部政府は、「庄内・秋田戦線」で庄内藩が連戦連勝を続けた以外は、崩壊するに至った。

当初、新政府は、薩摩藩士大久保利通を中心として、日本の首都を京都から大阪へ遷そうと考えていた。しかし、仙台藩が「北部政府(奥羽越列藩同盟)」を樹立して「東北戦争」で戦ったことを重視した新政府は、“東北地方への支配”を徹底させるために、首都を京都から東北地方に近い東京へ遷すことに決めた。

こうして、仙台藩が降伏した2日後、明治天皇は皇室の故郷である京都から、行幸という名目で東京へ移されたため、事実上の遷都となった。

箱館戦争

Template:main? 榎本武揚ら一部の旧幕府軍は、8月19日(同9月16日)、旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出した。榎本は同盟関係にある北部政府(奥羽越列藩同盟)からの援軍要請を無視し、北部政府の崩壊後、ようやく仙台港に寄港した。榎本は仙台で、仙台藩が新政府軍との本土決戦に備えて温存していた最新式精鋭部隊・額兵隊をはじめとする北部政府の残党勢力及び大鳥圭介土方歳三等の旧幕府軍を収容した。こうして“火事場泥棒”を働いた榎本は、蝦夷地北海道)へと向かった。

北部政府が独自の天皇の擁立までを計画したのに対して、榎本は初めから新政府に対して蝦夷地における徳川氏の存続を“懇願”しており、北部政府と榎本軍との性格は、全く次元が異なっていた。

榎本は箱館の五稜郭などの拠点を占領し、地域政権を打ち立てた(蝦夷共和国)。榎本らは北方の防衛開拓を名目として旧幕臣政権による蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。

旧幕府軍は松前、江差などを占領するも、新政府軍に対抗する決め手であった開陽丸を座礁沈没させて失った後は、津軽海峡の制海権を失った。明治2年3月25日1869年5月6日)には宮古湾海戦を挑んだものの敗れ、新政府軍の蝦夷地への上陸を許す。5月18日(同6月27日)、五稜郭で土方歳三は戦死。榎本武揚らは新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終結した。

戦後処理

慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助徳川宗家を相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した。

同年(明治元年)12月7日、東北地方と越後の諸藩に対する処分が発表された。いずれも藩主は死一等を減じられ、一旦封土没収の上、削・転封された。主な諸藩の処分は次の通りである(括弧内は旧領石高)。

  • 仙台藩 - 28万石に削封(62万石)。「東北戦争」の首謀者として、家老6人のうち2人が処刑、さらに2人が切腹させられた(会津藩ですら家老の処刑は1人だけ)。また、石高の面でも、会津藩に次ぐ厳罰に処された(実高100万石から3分の1以下への大減封)。藩の財政は完全に破綻し、藩士の一部は北海道開拓に移住。亘理伊達家の伊達市、岩出山伊達家の石狩郡当別町、片倉家の札幌市(白石区)などは、その遺産である。
  • 会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1人が処刑された。本州最北の不毛の地(青森県下北半島)への、事実上の“藩丸ごとの島流し”である。
  • 盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1人が処刑された。
  • 米沢藩 - 14万石に削封(18万石)。北部政府の穏健派の代表者として、寛大な処分を受けた。
  • 庄内藩 - 12万石に削封(17万石)。無敗のまま停戦し、新政府の重鎮、西郷隆盛によって、寛大な処分がとられた。
  • 二本松藩 - 5万石に減封(10万石)
  • 棚倉藩 - 6万石に減封(10万石)
  • 長岡藩 - 2万8千石に削封(7万4千石)。北部政府の越後における中心勢力として奮戦したため、厳しく処罰された。
  • 請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣は死罪。藩主林忠崇は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い男爵に叙任された。戊辰戦争による除封改易はこの一家のみ。

明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として、仙台藩首席家老但木成行、仙台藩江戸詰め家老坂英力、会津藩家老萱野権兵衛、盛岡藩家老楢山佐渡が、東京で極刑の刎首(ふんしゅ)刑(首を刎ねられてさらし首にされる)に処された。続いて、仙台藩家老玉虫左太夫、同じく仙台藩家老若生文十郎が、切腹させられた。

「北部政府」の盟主である仙台藩は、家老6人のうち4人を殺されて弾圧され、藩内の強硬派はほぼ壊滅した。しかし、仙台藩強硬派の“精神的柱石”であり、殺された4人の家老の師である思想家大槻磐渓は、死を免れた。

「東北戦争」の原因となった会津藩と庄内藩の処分については、新政府内において厳罰論と寛典論に分かれ、対照的な処分が行われた。

厳罰論が多かった長州派が担当した会津藩の処分は、苛烈を極めた。転封先となった斗南は風雪厳しい不毛の土地であり、移住した旧藩士と家族からは、飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。このことと戊辰戦争に至る経緯を併せて、現在でも会津地方の人々には、長州藩に対するわだかまりの念があると言われる(詳細は会津戦争を参照)。

全く罪のない庄内藩に対する処分は、薩摩藩士・西郷隆盛らによって寛大に行われた。西郷隆盛の庄内藩に対する対応は巧妙であり、これに感激した庄内の人々は、西郷に対する尊敬の念を深めた。前庄内藩主酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している(逆に、薩摩藩に恨みを抱く旧会津藩出身者は新政府側として参戦し、「会津抜刀隊」が「田原坂の戦い」で西郷軍を破り、薩摩藩の敗戦を決定づけた)。

任侠・博徒らを集め「衝撃隊」を創設し、その隊長としてゲリラ活動を行い新政府軍に恐れられた仙台藩士細谷直英は、自らも参戦した「旗巻峠の戦い」で仙台藩が新政府軍に敗れて降伏すると、衝撃隊を解散して逃亡・潜伏した。新政府の捕縛を逃れた細谷直英は、戊辰戦争の大赦令がだされると北海道に渡って北海道開拓に尽力し、警視庁小隊長となったのち、仙台龍雲寺の住職として戦没者を弔った。

米沢藩の強硬派である米沢藩士雲井龍雄は、北部政府の降伏後いったん新政府に仕えたが、まもなく辞任し、全国の士族たちを新政府の常備軍へ入れて反乱を起こそうと企てた。新政府は雲井ら七十余人を逮捕し、雲井を含む十一人が処刑された。

北部政府から新政府に寝返った秋田藩津軽藩三春藩は功を労われ、明治2年(1869年)には一応の賞典禄が与えられた。しかし戦火で領土を荒され莫大な借金を抱えてまで戦ったにもかかわらず、これらの藩はいずれも新政府側から「夷をもって夷を征す」方針に従って引き込んだ存在に過ぎないとされ、官軍を構成する他の諸藩と同格とは見なされ無かった。そのため裏切り者の汚名を着てまで戦ったに見合うだけの恩恵は得られず、実質的に「"賊軍に加わった罪"が問われない事を在り難く思うよう」言い渡されたのみに等しい有様だった。当然の事ながら、この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧秋田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では自由民権運動がそれぞれ非常に活発化した。しかしその様な動きに対しても、明治政府は「難治県」と評して遠慮の無い弾圧で臨むのみであった。

「戊辰戦争」に敗れた東北諸藩の城は、新政府側に寝返った佐竹氏の居城・久保田城と津軽氏の居城・弘前城以外は、新政府によって全て取り壊された。特に、北部政府の盟主・仙台藩に対する新政府の仕打ちは極めて陰湿で、仙台城は、仙台藩の降伏後、政務が執り行われていた二の丸が放火されて全焼した。また、政宗の晩年の居城である若林城は、城の破却後に城跡が“日本唯一の死刑執行刑務所”である「宮城刑務所」にされる、という汚辱を受けた。なお、久保田城は後に火災で焼失して現存せず、弘前城のみが現存し、国重要文化財に指定されている。

「箱館戦争」が終結すると、首謀者の榎本武揚大鳥圭介松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、黒田清隆らによる助命運動により、明治5年(1872年)1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。

大正6年(1917年)9月8日、盛岡において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。事実上の祭主としては、盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁原敬が列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、賊軍・朝敵の汚名を雪いでいる。

今日の一般的傾向として、市街戦を行い篭城して奮戦した会津の人々は、「戊辰戦争」へのこだわりを持ち続けている。また、日本人の会津藩に対するイメージとしても、「戊辰戦争の主役」である、というイメージが定着している。これに対して宮城県(仙台)の人々は、地元が直接戦火に会わなかった事もあり当戦争への関心と知識が非常に少く、ほとんどの日本人と同様に“戊辰戦争”を“会津藩だけの戦争”と誤認する傾向が強い。

参考文献

  • 菊地明(他)編, 『戊辰戦争全史』〈上・下〉, 新人物往来社 (1998/04), ISBN 4404025726, ISBN 4404025734
  • 野口武彦(著), 『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』, 中公新書 (2002/11), ISBN 4121016734
  • 星亮一(著), 『会津戦争全史』, 講談社選書メチエ (2005/10), ISBN 4062583429




  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月10日 (木) 07:42。










    
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