国家総動員法(こっかそうどういんほう)は、1938年(昭和13年)に第1次近衛内閣によって制定された法律。総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。1945年の敗戦によって名目を失い、同年12月20日に公布された国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律(昭和20年法律第44号)に基づいて1946年4月1日をもって廃止された。
第一次世界大戦の戦訓より、戦争における勝利は国力の全てを軍需へ注ぎ込み、国家が総力戦体制をとることが必須であるという認識が広まっていた。日中戦争の激化に伴い、当時の日本経済では中国で活動する大軍の需要を平時の経済状態のままで満たすことが出来なくなっていたため、経済の戦時体制化が急務であった。
この法案は当時企画院を中心とした革新官僚と呼ばれたグループによって策定された。概要は、企業に対し、国家が需要を提供し生産に集中させ、それを法律によって強制することで、生産効率を上昇させ、軍需物資の増産を達成し、また、国家が生産の円滑化に責任を持つことで企業の倒産を防ぐことを目的とした。
しかし、この法案は総動員体制の樹立を助けた一方で、社会主義的であり、ソ連の計画経済の影響を受けていた。のちに、この法案を成立させた第一次近衛内閣の後に首相となった平沼騏一郎を中心とした右翼・反共主義者の重鎮により、企画院において秘密裡にマルクス主義の研究がなされていたとして、企画院事件が引き起こされた。
また、戦後の産業政策に見られるように官僚が産業を統制する規制型経済構造を構築した契機となったことから、大政翼賛会の成立した年にちなんだ1940年体制という言葉も存在する。
同法によって国家統制の対象とされたものは、以下の6点に大別できる。
法律上には上記統制の具体的内容は明示されず、すべては国民徴用令をはじめとする勅令に委ねられていた。このことから、同法をナチス・ドイツによる授権法(1933年)の日本版になぞらえる説もある。
大財閥を中心とした経済界はこの法案に対して、法律によらない私権の制限であり社会主義的であるとの批判をもっていた。経済界に近い立場の民政党・政友会など既成政党も、政府に対する広範な授権は大日本帝国憲法において帝国議会に保障された立法協賛権の剥奪につながる恐れがあり憲法違反であるとして反対の空気が強かったが、議会審議においては政府や陸軍に押し切られる形で可決成立をみた。これについて、通説では陸軍の圧力によるところが大きいとされているが、近年ではこの時期の陸軍は「事変」中における議会との全面対決には消極的であり、むしろ有馬頼寧ら近衛文麿首相側近の間で、国民の支持が高い近衛の元に革新派を結集させて「近衛新党」を旗揚げして、解散総選挙に打って出る動きがあったために、既成政党側がこれを恐れて妥協に転じたとする説もある。
なおこの審議中には、既成政党の無力ぶりを示す以下2つのエピソードがあった。
1938年3月3日、陸軍省軍務課新聞班長佐藤賢了中佐は委員会審議中、政府側説明員として長時間にわたり法案の趣旨説明を行った。そのあまりの長広舌に対して議員より「いつまでやるつもりだ」という趣旨の野次が飛んだ際、佐藤は「黙れ!」と恫喝した。議場は騒然とし、事態収拾のため杉山元陸軍大臣が陳謝したものの佐藤本人に懲罰はなかった。
ただし、質問者であった宮脇長吉議員は元陸軍軍人で佐藤の陸軍士官学校時代の教官であったことから、佐藤と宮脇の個人的な確執が発言につながったとする説もある。また、当時陸軍大臣が直ちに謝罪する例は珍しく、法案審議に際しての軍部の低姿勢ぶりが際立っているとする見方もある。
社会大衆党は同法に賛成の立場であり、軍部・革新官僚・近衛の少数与党として立ち働いて飛ぶ鳥を落とす勢いであった。3月16日、同党議員の西尾末広は法案賛成の演説を本会議で行ったが、近衛首相を激励する一節「ヒットラーの如く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に進むべき」の「スターリン」の部分が民政・政友両党により問題化した。西尾は発言を取り消した(このため議事録よりも削除)ものの、懲罰委員会に付せられ、結局議員除名となった(なお、既成政党と政府が全面的に対決していた9日の段階で西尾が全く同一の発言をしているにもかかわらず、その時には問題にすらされていなかった)。
既成政党勢力にとっては、政府・陸軍に押し切られる一方の議院運営の鬱憤を社会大衆党に対して晴らす格好になった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月8日 (月) 09:00。