トラウトマン工作とは、昭和12年(1937年)11月初から昭和13年(1938年)1月16日までの期間にドイツの仲介で行われた、日本と中華民国国民政府間の和平交渉である。当時のオスカー・トラウトマン (Oscar P. Trautmann 1877年5月 - 1950年12月10日) 駐華ドイツ大使の名を取って、こう呼ばれる。工作という言葉の負のイメージを嫌ってトラウトマン和平工作とも呼ばれる事もある。
和平交渉の期間は、日中戦争(支那事変)時の上海陥落直前から南京陥落1箇月後の間にあたる。実際には7月に起こった蘆溝橋事件直後より和平の道は探られていたが、具体的な和平交渉が始まったのは、11月初旬である。
当時、ドイツは中国に軍事顧問を派遣するなど友好関係を築いていた。ただし、中国侵出の意欲は低く、また日本の目が中国に向かって北方のソ連から逸れるのは望まざるところであったので、和平工作の仲介に乗り気であった。
11月初旬に第1次の和平案の提示が日本からなされた。11月のブリュッセル国際会議(九ヶ国条約会議)に期待をかけていた蒋介石国民政府主席も、英米の消極的態度により期待が外れたため12月初旬に領土主権を条件に受諾の意向を伝えていた。しかしながら、中国側が返答を保留している間に、日本は上海を攻略して南京に迫っており、この状況をみて南京攻略後の12月下旬に、戦況を鑑みて賠償等の条件を加重した条件に変更した第2次の和平案を国民党政府に伝えた。蒋介石は第2次和平案には態度を硬化させ、交渉打ち切りを視野に入れながら詳細を日本側に問い合わせたため、第一次近衛内閣は遷延策であると判断して交渉を打ち切ることを決定した。
日本は、1月15日に大本営政府連絡会議の場で交渉打ち切りを決定し、翌16日に、近衛内閣は「帝國政府は爾後国民政府を対手とせす。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更正支那の建設に協力せんとす」と声明を発した。同時に日本はドイツ側に和平交渉への謝意と共に打ち切り伝え、ここに交渉は終了した。
昭和12年(1937年)
昭和13年(1938年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月9日 (土) 08:44。。