牧野伸顕


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{{政治家 |各国語表記 = まきの のぶあき |画像 = Nobuaki Makino in later years.jpg |画像説明 = 牧野 伸顕 |国略称 = Template:JPN? |生年月日 = 1861年11月24日文久元年10月22日) |出生地 = 薩摩国鹿児島城下加治屋町 |没年月日 = Template:死亡年月日と没年齢? |死没地 = |出身校 = 大学校(中途退学) |所属政党 = |称号・勲章 = 従一位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵 |配偶者 = 牧野峰子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第27代外務大臣 |内閣 = 第1次山本内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1913年2月20日 |退任日 = 1914年4月16日 |退任理由 = |元首職 = |元首 =

|国旗2 = 日本 |職名2 = 第24代農商務大臣 |内閣2 = 第2次西園寺内閣 |選挙区2 = |当選回数2 = |就任日2 = 1911年8月30日 |退任日2 = 1912年12月21日 |退任理由2 = |元首職2 = |元首2 = |国旗3 = 日本 |職名3 = 第30代文部大臣 |内閣3 = 第2次西園寺内閣 |選挙区3 = |当選回数3 = |就任日3 = 1912年11月9日 |退任日3 = 1912年12月21日 |退任理由3 = |元首職3 = |元首3 = |国旗4 = 日本 |職名4 = 第27代文部大臣 |内閣4 = 第1次西園寺内閣 |選挙区4 = |当選回数4 = |就任日4 = 1906年3月27日 |退任日4 = 1908年7月14日 |退任理由4 = |元首職4 = |元首4 = |国旗5 = |職名5 = |内閣5 = |選挙区5 = |当選回数5 = |就任日5 = |退任日5 = |退任理由5 = |元首職5 = |元首5 = |国旗6 = 日本 |その他職歴1 = 内大臣 |就任日6 = 1935年 |退任日6 = 1925年 |国旗7 = 日本 |その他職歴2 = 宮内大臣 |就任日7 = 1925年 |退任日7 = 1921年 |国旗8 = 日本 |その他職歴3 = 枢密顧問官 |就任日8 = |退任日8 = |国旗9 = 日本 |その他職歴4 = 茨城県知事 |就任日9 = |退任日9 = |国旗10 = 日本 |その他職歴5 = 福井県知事 |就任日10 = |退任日10 = |国旗11 = |その他職歴6 = |就任日11 = |退任日11 = |国旗12 = |その他職歴7 = |就任日12 = |退任日12 = |国旗13 = |その他職歴8 = |就任日13 = |退任日13 = |国旗14 = |その他職歴9 = |就任日14 = |退任日14 = |国旗15 = |その他職歴10 = |就任日15 = |退任日15 =

}}

牧野 伸顕(まきの のぶあき、文久元年10月22日(1861年11月24日) - 昭和24年(1949年1月25日)は明治から戦中にかけての政治家。位階勲等爵位従一位勲一等伯爵。名はシンケンと通称されることもある(有職読み)。

人物像・経歴

文久元年10月22日(1861年11月24日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬小路に薩摩藩大久保利通と妻・満寿子の二男として生れた(幼名は伸熊)。生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。

明治4年(1871年)、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米し、フィラデルフィアの中学を経て、大学校(後の東京帝国大学)に入学する。明治13年(1880年)、大学校を中退して外務省入省。ロンドン大使館に赴任し、憲法調査のため渡欧していた伊藤博文と知りあう。

その後、福井県知事茨城県知事、文部次官、オーストリア大使、イタリア大使等を経て、第1次西園寺内閣文部大臣第2次西園寺内閣農商務大臣。さらに枢密顧問官に転じた後、第1次山本内閣外務大臣となる。この時期の牧野は、伊藤やその後継者である西園寺公望に近く、初期の政友会と関係の深い官僚政治家となり、対外協調的な外交姿勢と英米型自由主義による政治姿勢を基調とし、一方では薩摩閥により広く政界、外交界、宮中筋と通じるという、独自の地位を築きあげた。大正8年(1919年)、第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。一行の首席は西園寺公望であったが実質的には牧野が采配を振っており、随行員には近衛文麿や女婿吉田茂などがいた。パリ講和会議では日本の次席全権大使として人種的差別撤廃提案を行っている。

大正10年(1921年)、宮内大臣に就任し、大久保侯爵家に連なることから特に子爵を授爵。穏健な英米協調派で自由主義的傾向がつよい牧野を宮内大臣に推したのは、天皇および宮中周辺に狂信的な皇室崇拝者を置くことで皇室が政治的な騒乱に巻きこまれることを嫌った元老の西園寺公望の意向であるという。これ以降、牧野は西園寺の意を体して、宮中における自由主義を陰に陽に守り抜くことをその政治的使命とする。

大正14年(1925年)、内大臣に転じ、昭和10年(1935年)まで在任。退任とともに伯爵に陞爵する。牧野に対する天皇の信頼は厚く、この多難な時期に退任の意向を聞いた昭和天皇が涙を流したという逸話がある。後任の内大臣に湯浅倉平を推薦し、牧野はその後も宮中、外交への影響力を保持し続けようとした。

昭和11年(1936年)、二・二六事件の折には親英米派の代表として湯河原の伊藤屋旅館別荘「光風荘」に宿泊していたところを襲撃されるが、近親者の機転によって窮地を脱した。

第二次世界大戦下にあっても天皇の信頼はおとろえず、数度宮中に招されて意見具申をしたこともある。

戦後はオールド・リベラリストの一人として評価が高まり、一時は鳩山一郎追放後の自由党総裁に押す声さえあったが、老齢のため二度と政治の世界に復帰することはなかった。

昭和24年(1949年)1月25日死去、享年87。死後ほとんど財産らしきものは残っていなかったという。

麻生太郎寬仁親王妃信子は曾孫にあたる。

著作に『松濤閑談』創元社『牧野伸顕回顧録』中公文庫(孫の吉田健一らが筆記)がある。また、『牧野伸顕日記』中央公論新社(伊藤隆・広瀬順皓編)が公刊されている。

日本棋院初代総裁。また、シャーロッキアンの草分け的存在としても有名。

栄典

家族 親族

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外部リンク



  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月10日 (月) 00:23。











    
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