アメリカ本土空襲

アメリカ本土空襲は、第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)中の大日本帝国海軍(以下、日本海軍という)の艦載機や風船爆弾によるアメリカ合衆国本土への空襲のことである。

経緯

空襲計画

1941年12月に行われた日本海軍の航空母艦搭載機による真珠湾攻撃以降、日本海軍は太平洋戦線において、アメリカ軍イギリス軍をはじめとする連合国軍に対して連戦連勝を続けていたものの、その最中の1942年4月に行われたアメリカ海軍の航空母艦搭載機のアメリカ陸軍航空隊のノースアメリカンB-25爆撃機による史上初の日本本土空襲(ドーリットル空襲)を受けて、軍令部は巡潜乙型潜水艦伊号第二五潜水艦」(以下伊25とする)に搭載されている零式小型水上偵察機によるアメリカ本土への空襲を計画した。

なお、アメリカ陸軍機による日本本土空襲に先立つ2月24日に行われた、伊25と同じ乙型大型潜水艦の「伊号第一七潜水艦」(以下「伊17」とする)によるカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃作戦の成功以降、日本海軍からの攻撃、そして日本軍部隊の上陸に対する対応を整えつつある生産施設や都市部を避けるという理由と、少量の爆弾でも延焼効果が期待できるという理由から、空襲の目標をアメリカ西海岸のオレゴン州の森林部と位置づけた。

これは同州を縦断するエミリー山脈の森林に焼夷弾により山火事を発生させ、延焼効果により近隣の都市部に被害をあたえることを目的としていた。零式小型水上偵察機は通常装備は機銃だけで爆弾等を搭載できないが、この計画に合わせて、急遽焼夷弾2発を搭載するように改造された。

他のアメリカ本土攻撃

この空襲計画に先立つアメリカ本土攻撃として、上記の「伊17」によるエルウッド石油製油所への砲撃以外にも、伊25潜水艦が同年の6月21日にオレゴン州アストリア市にあるスティーブンス海軍基地を砲撃し、基地の施設に被害を与え、アメリカ海軍兵士に負傷者を出したという実績があった。この攻撃は、1812年イギリス軍艦がアメリカ軍基地に砲撃を与えて以来のアメリカ本土にある基地への攻撃であった。また、その前日の6月20日には、同じ乙型潜水艦の「伊26」がカナダバンクーバー島、太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃し、同局に被害を出した。

なお、これらの攻撃に先立つ開戦直後の1941年12月末には、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦10隻が一斉にアメリカ西海岸沿岸のサンディエゴモントレー、ユーレカやアストリアなど複数の都市を砲撃するという作戦計画があった。しかし、「クリスマス前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため中止になった。

他にも、これらの太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を10隻以上撃沈し、中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、多くの市民が見ている目前で貨物船を撃沈するなど、開戦以来日本海軍の潜水艦による攻撃行動がアメリカ及びカナダの太平洋岸地域で多数行われていた。

また、2月24日のエルウッド石油製油所への砲撃作戦が実施された翌日には、同じ南カリフォルニアのロサンゼルス近郊において、アメリカ陸軍が同海軍の気象観測用気球を日本軍の航空機と誤認し、多数の対空砲火を行った「Battle of Los Angeles」が発生した。

この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は気を抜いたアメリカ海軍の失態」であるとして、過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであり、開戦以降、サンフランシスコロングビーチサンディエゴ等の西海岸の主要な港湾においては、日本海軍機動部隊の襲来や陸軍部隊の上陸作戦の実行を恐れて、陸海軍の主導で潜水艦の侵入を阻止するネットや機雷の敷設を行った他、その他の都市でも爆撃を恐れ、防空壕を作り、防毒マスクの市民への配布などを行っていたにもかかわらず、この事件の後、世論の沸騰を受けて西海岸における防空体制はさらに強化されることとなった。

攻撃概要

1回目の空襲

アストリア市の海軍基地への攻撃を終えて7月11日に母港である横須賀港へと戻った「伊25」は、1ヶ月あまりの休暇を経て、8月15日に再び横須賀を出港。アリューシャン列島をかすめて9月7日にオレゴン州沖に到着した。

天候の回復を待ち沖合いで2日待機した後、9月9日の深夜に空襲を決意し、田上艦長ら搭乗員が見守る中、藤田信雄飛曹長と奥田兵曹が操縦する零式小型水上偵察機は76キロ焼夷弾2個を積んで太平洋上の「伊25」を飛び立った。目標地点である太平洋沿岸のブランコ岬に到達してから内陸に進み、カリフォルニア州との州境近くのブルッキングス近郊の森林部に2個の焼夷弾を投下し森林部を延焼させた。幸いにも地上からの砲撃も戦闘機の迎撃もなく無事任務を遂行し、沖合いで待つ「伊25」に帰還した。

なお、実は藤田機は空襲を終えて「伊25」に帰還すべく飛行中に、オレゴン州森林警備隊の隊員であるハワード・ガードナーによって発見されアメリカ陸軍に通報された結果、アメリカ陸軍航空隊のP-38戦闘機が迎撃に向かったものの、防空体制の不備により発見されることはなかった。また、突然の空襲を受けて、日本軍の本土上陸におびえていた陸軍や地元警察が沿岸地域を徹底的に捜索した。なお、藤田機の帰還後、「伊25」は沿岸警備行動中のロッキードA-29ハドソン哨戒爆撃機に発見されて攻撃を受けたが、損害は受けなかった。

2回目の空襲

2回の空襲は、20日後の9月29日の真夜中に行われ、藤田機は同じく76キロ爆弾2個を再びオレゴン州オーフォード近郊の森林部に投下森林部を延焼させ、「伊25」へ戻った。なお、2回目の空襲の際も地上からの砲撃も戦闘機の迎撃もなく無事任務を遂行し、無事に沖合いで待つ「伊25」に帰還した。「伊25」には予備の爆弾がまだ残っていたものの、前回の空襲の結果、太平洋沿岸部の警備が厳しくなっていたことから、2回目の空襲を最後に空襲を取りやめ帰還することとなった。

「伊25」はその後10月4日と6日にアメリカのタンカーを1隻ずつ撃沈したのち、太平洋を横断し母港の横須賀へと帰還した。なお、帰還中の10月11日に、ウラジオストクからパナマ運河経由でムルマンスクへ回航中のソ連海軍の潜水艦L-16を「アメリカ海軍の潜水艦」と思い込んで撃沈している(なおこの時点で日本とソビエト連邦の間には日ソ中立条約が締結されており、戦争状態になかった)。

アメリカ側の被害と反応

被害

right|220px|thumb|[[サンフランシスコ市内に張り出されたシェルターへの避難案内と日系アメリカ人に対する強制退去命令]] 2回の空襲とも「アメリカ本土爆撃」というシンボル的効果を狙ったものである上に、森林を爆撃することによる延焼被害を狙ったものであり、直接的に人的被害を出すことを目的とした空襲でなかったこともあり、軍人や民間人に死者は発生しなかった。また、9月初頭と爆撃前日に降り続いた雨により湿気があったためもあり、空襲による森林の延焼は本格的な消火活動が行われる前に自然消火するなど、空襲による直接的な被害は大きなものではなかった。

政府による空襲対策

しかし、アメリカ史上初の敵軍機による本土空襲に驚いたアメリカ政府は、太平洋戦線における日本軍に対する相次ぐアメリカ軍の敗北に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与えないために、軍民に厳重な緘口令を敷きこの空襲があった事実を極秘扱いにした。

しかし、まもなくマスコミに知れ渡ることになり、当時太平洋戦線で負け続きであったアメリカ国民を大いに怯えさせ、この空襲以降、西海岸地域を問わずアメリカの全ての沿岸部における哨戒活動及び防空が厳重なものとなり、併せてサンフランシスコなどの西海岸地域の大都市には、日本軍機による空襲に備えたシェルター防空壕が急遽設置されるようになった。

またこの空襲作戦の過程においては、日本人移民日系アメリカ人の関与、協力などは何もなかったにも拘らず、人種差別的指向を持っていたフランクリン・ルーズベルト大統領の命令により1942年2月からハワイを除くアメリカ全土で行われた、日系人の強制収容を正当化する口実の1つになった。

その後

最初で最後の航空機による本土空襲

この空襲の成功以降、連合国軍によるアメリカ西海岸部及びアラスカ沿岸部の対潜水艦監視が格段に厳しくなったことや、この空襲以降も日本軍が各地で快進撃を続け戦線が延びた為に、実際に与える被害が軽微で、シンボル的な意味合いしか持たない潜水艦搭載偵察機による空襲を行う余裕がなくなってきたことなどから、この時を最後に日本軍の航空機によるアメリカ本土に対する空襲が行われることはなくなった。

なお、この2回の空襲以降もドイツイタリア王国などの第二次世界大戦における対戦国によるアメリカ本土への航空機による空襲は行われておらず、この日本海軍機による2回の空襲は、アメリカ史上初、そして2008年までにおいては唯一の外国軍用機によるアメリカ本土への空襲として記憶されることになった。また、現在の国際情勢、軍事情勢から考えてアメリカ本土が航空機により空襲される可能性は、2008年現在ほぼ皆無である。

その後のアメリカ本土空襲

「富嶽」、「キ74」、「キ71」

Template:Main? その後日本陸海軍共同の計画委員会は、日本からアメリカ本土への長距離爆撃機による空襲を計画し、1943年には、当時多くの軍用機の開発、生産を行なっていた中島飛行機により、日本とアメリカ本土の間の往復飛行が可能な6発エンジンを持つ大型長距離爆撃機「富嶽」の開発をはじめた。

しかしその後徐々に戦況が悪化し、大型長距離爆撃機の開発に必要な技術の開発や、機体を制作する為の原料の調達などに困難をきたした為に、1944年に計画そのものが中止された。なお、他にアメリカ本土を長距離爆撃する計画によって開発された航空機として、陸軍のキ74キ91が存在する。

「伊四〇〇型」

また、大戦末期の1944年に進水した、第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で最大の大きさで、艦内に攻撃機を搭載し、地球を一周半可能という長大な航続距離を誇る潜水空母伊四〇〇型潜水艦」により、当時アメリカが実質的に統治していたパナマパナマ運河を、搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃するという作戦が考案された。

しかし、その後ロングビーチやサンディエゴなどのアメリカ西海岸部の軍港の攻撃に変更され、最終的に実際の攻撃効果を鑑みてウルシー泊地の在泊艦船への攻撃が決定されたものの、1945年8月の終戦のために実施されずに終わった。

「風船爆弾」

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戦況の悪化によりいくつかのアメリカ本土空襲計画が中止に追い込まれる中、1944年から終戦直前の1945年にかけて、日本軍はアメリカ本土に対して風船爆弾による空襲を行い、約9300発の風船爆弾を、当時日本だけがその存在を解明していたジェット気流を利用して、千葉県一ノ宮と茨城県大津、福島県勿来の各海岸からアメリカ本土に向けて送った。なお、風船爆弾は満州事変後の1933年頃から、アメリカとの間の開戦を予測していた関東軍陸軍によって研究されたものであった。

なお、アメリカ軍は風船爆弾のバラスト用の砂から風船爆弾の発射地点は割り出せたものの、当時のアメリカの技術ではジェット気流の存在を知ることができなかったため、どうやって風船爆弾を日本からアメリカまで到達させたのかは終戦後に全貌が明らかになるまでわからなかった。

被害

約9300発の風船爆弾のうちの10%程度に相当する数百個~1000個がアメリカ本土やアラスカ、カナダに到達し、オレゴン州では飛来した風船爆弾の爆発により民間人6名の死者を出した他、プルトニウム製造工場(ワシントン州リッチランドのハンフォード工場)の送電線に引っかかり短い停電を引き起こしたり(このときは予備電源により原爆の完成に大きな影響は無かった)、停電や山火事を起こしたりと、全米各地の軍民の施設に何十件かの損害を与えている。

また、風船爆弾による攻撃を知ったアメリカ陸軍の一部は、風船爆弾に細菌爆弾などの生物兵器を搭載している可能性を考慮し、着地した不発弾を調査するにあたり担当者は防毒マスク防護服を着用している。また、少人数の日本兵や特殊工作員が風船に乗ってアメリカ国内に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった(実際に爆弾の代わりに兵士2-3名を搭乗させる研究も行われていた)。

情報操作

しかしアメリカ陸軍は、この様な可能性を考慮しながらも、自国民の戦意に影響が出ることや、混乱が起こることを恐れて情報操作を行い、自国内における風船爆弾による被害を隠蔽していた。実際、この隠蔽工作によって日本側は風船爆弾の効果を知ることが出来ず、その効果を疑問視して最終的に作戦を中止したため、意図しなかった形でこの情報操作が有効になったという評価もある。

敵軍の英雄

終戦後の1962年に、藤田飛曹長はオレゴン州ブルッキングス市から招待を受けアメリカに渡り、同市市民から「歴史上唯一アメリカ本土を空襲した敵軍の英雄」として大歓迎を受け、同市の名誉市民の称号を贈られた。またその時、同市市民から藤田飛曹長が投下した焼夷弾の破片を贈られた。その破片からはかすかに火薬の臭いがしたという。なお藤田飛曹長は、戦争中、軍刀として用いた愛刀をブルッキングス市に寄贈した。

この招待は外務省を通じて伝えられたが、当の本人には招待の趣旨が知らされていなかったため、現地に到着するまで「戦犯として収監されるのかもしれない」と思っており、寄贈した軍刀は戦後も密かに所持していたものを、収監されそうになった時には自決するため、荷物に忍ばせて持参したものであった。

その後、藤田飛曹長は贖罪の意味を込めて同市に植林を行ったり、同市市民を日本に招待するなど日米友好に残りの半生を費やした。また、そのような貢献を受けて、後にロナルド・レーガン大統領よりホワイトハウスに掲揚されていた星条旗が贈られた。なお、現在爆弾片と星条旗は、茨城県土浦市の「まちかど蔵 野村」に保存公開されている。

このエピソードは1995年12月29日放送の『たけし・さんまの世界超偉人伝説』(日本テレビ)で取り上げられ、藤田飛曹長本人も出演している。しかし日本では余り知られる事がなかった事もあり、ゲストで出演していた元海軍軍人の西村晃も「この話は全く知らなかった」と発言している。

関連項目



  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月22日 (水) 12:37。










    

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最終更新:2008年11月24日 23:58
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