真珠湾攻撃

真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、Attack on Pearl Harbor、日本時間1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は、休日である日曜日を狙ってハワイオアフ島真珠湾"Pearl Harbor"を「真珠湾」と訳すことには異論もある。詳細は真珠湾を参照。にあったアメリカ海軍太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空攻撃である。

当時の日本側呼称はハワイ海戦(布哇海戦)。太平洋戦争大東亜戦争)緒戦の南方作戦の一環として計画された作戦であり、戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を喪失した。世界史的には、この攻撃によって第二次世界大戦ヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。

背景

作戦構想

オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年に設置され、以来日本海軍にとって脅威となっていた。真珠湾の海軍基地はオアフ島要塞と呼ばれた要塞群で守られており、中には戦艦と撃ち合える40センチ砲も設置されていた。上陸可能な死角も存在しなかったため、艦砲射撃や上陸作戦には成功の見込みはなかった。日本軍は工事労働者に変装したスパイを多数送り込み、要塞の詳細を把握していたと言われる。

日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。だが1939年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六は異なる構想を持っていた。1941年1月、山本は第11航空艦隊参謀長であった大西瀧治郎少将に対して「真珠湾を航空攻撃できないか」と航空攻撃計画の作戦立案を依頼した。

当時数少ない海軍将官きっての航空通の1人であった大西は、ある程度骨子を作った後、2月に第1航空戦隊の参謀であった源田実中佐に山本の意向を伝えた。源田は1週間後、オール爆撃案と、雷爆撃併用案の2つの案を作り大西に示した。真珠湾への航空攻撃の成否を左右するのは雷撃が可能かどうかであった。真珠湾の平均水深は12メートルである。当時の航空魚雷は攻撃機が投下し着水した後、平均数10メートル以上沈んでから航走しつつ調停深度まで浮上してくるものであった。これでは投下した魚雷はことごとく真珠湾の海底に突き刺さってしまう。

結局大西と源田は当時海軍が保有していた正規空母4隻と軽空母「龍驤」を主力とした部隊を用いて、雷撃は諦めて攻撃隊は全て爆装とした上で、水平爆撃と急降下爆撃を行うという案を山本に提出した。水平爆撃に関しては当時既に長門型戦艦の主砲弾を改造した800キロ徹甲爆弾が完成しており、命中率は低いものの敵戦艦の撃沈は物理的に可能であったからである。これに対して山本は不満を表して「雷撃ができないのなら真珠湾攻撃は諦める」とまで言ったといわれる。そこで大西は雷撃に関しては攻撃前までに攻撃法を研究開発することにして、雷爆撃併用に案を改めた上で山本の了解を取り、海軍軍令部第一課の福留繁中将に作戦準備を依頼した。

実施許可

1941年9月、アメリカやイギリスとの関係悪化を受け、日本軍は南方作戦を具体化させていった。作戦目標は蘭印(オランダ領東インド)の石油資源の獲得であるが、制海権確保のためにアメリカ太平洋艦隊の戦力を減殺する必要があるとされた。だがこれを実現するための山本の真珠湾航空奇襲案に対して軍令部は大反対した。この案では日本海軍の持つ正規空母の全てをハワイ作戦に投入するため、南方作戦への航空支援が手薄になる上に、万が一作戦が失敗したときには、最悪日本は虎の子の正規空母4隻を全て失い、制空権、制海権を完全に失うこととなりかねないからである。軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに味方正規空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。

あくまで正規空母全艦投入を求める連合艦隊司令部と、軍令部の対立は日を追って激しくなり、終には作戦そのものが中止になりかねない雰囲気になりかけたが、正規空母「翔鶴」、「瑞鶴」が秋口に相次いで竣工した上、雷撃に目処が立ったことで、連合艦隊司令部が最後の賭けに出た。連合艦隊参謀黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長伊藤整一中将に言い放ち、これに驚いた軍令部総長永野修身大将は渋々作戦実施を認めた。

奇襲訓練

真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。技術的な課題は、第1に水深12メートルという浅瀬でどうやって魚雷攻撃を行うか、第2に戦艦の装甲をどうやって貫通させるか、の2点であった。

第1の点に対しては、タラント空襲を参考に着水時の走行安定性を飛躍的に高めた愛甲魚雷を航空技術廠が苦心の末に改良し、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させて沈度を大幅に抑えることに成功したことと、鴨池航空隊による超低空飛行訓練により、最低60メートルの水深が必要だったものを10メートル以下に引き下げることに成功した実際の攻撃では投下された魚雷40本のうち、射点沈下が認められたのは1本のみであった。。第2の点に対しては、戦艦の装甲を貫徹するために水平爆撃で攻撃機の高度により運動量をまかなう実験が鹿屋、笠之原で実施され、模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール社、ドイツのクルップ社、安来などの鋼板を用い、貫通するための運動量の計測などが行われた。

航空攻撃と併用して、5隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。特殊潜航艇による真珠湾侵入は生還を期しがたい決死の作戦となるため、岩佐直治大尉ら10名の特別攻撃隊が選抜された。

鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県佐伯湾に集結し、最終演習の後、11月18日に択捉島の単冠湾へと向かった真珠湾攻撃 - 西日本新聞。

経過

ニイタカヤマノボレ

thumb|240px|米戦艦[[オクラホマ (戦艦)|オクラホマに魚雷命中の瞬間]] Rright|thumb|240px|[[ショー (DD-373)の爆発炎上]] 1941年11月1日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対米英蘭戦争の準備を本格化した。南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は11月22日に択捉島単冠湾に集結、11月26日ハワイへ向けて出港した。12月1日、御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきことが決定された。

12月2日、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信された。ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰、一二〇八とは12月8日のことで、「12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」の意の符丁であったちなみに、戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「ツクバヤマハレ」であった。。

12月7日、伊号潜水艦隊から特殊潜航艇が発進した。12月8日午前1時30分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進。午前2時45分第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機、計171機が発進した。このとき陸軍はマレー半島コタ・バルで奇襲上陸作戦を行っていた。真珠湾とマレーで一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。これにより、真珠湾攻撃はコタバルの2時間遅れとなったトーランド(1970) 2巻 「一部 開戦の聖断は下る 5 敵艦真珠湾ニ在リ」 p.67。

トラ・トラ・トラ

ハワイは現地時間12月7日日曜日の朝だった。7時10分(日本時間午前2時40分)、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃によりこれを撃沈した(ワード号事件)。これは日本軍の特殊潜航艇であった。ワード号は直後に「未識別の潜水艦」を撃沈した旨を太平洋艦隊司令部へ打電したが、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されず、アメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を逸した。

7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した。7時53分(同3時23分)、淵田は旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電した。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する符丁である。7時55分(同3時25分)翔鶴飛行隊長の高橋赫一海軍少佐が指揮する急降下爆撃隊がフォード島への爆撃を開始した。

7時58分(同3時28分)、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と警報を発した。戦艦「アリゾナ」では7時55分頃に空襲警報が発令された。8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800キロ爆弾が四番砲塔側面に命中。次いで8時6分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中した。8時10分、アリゾナの前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は1,177名の将兵と共に大破沈没した。戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。オクラホマは転覆沈没し将兵415名が死亡または行方不明となった。

第二波攻撃

米国東部時間午後2時20分(ハワイ時間午前8時50分)野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命大使が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒を手交した。この文書は攻撃開始前に米国政府へ手交する予定であったのだが、ワシントン駐在日本大使館で準備に手間取り、攻撃開始の後となった。宣戦布告が奇襲攻撃の後となったことで、騙まし討ちとして宣伝材料に利用されることになる。

ハワイ時間午前8時54分(日本時間4時24分)、第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命した。第二波攻撃隊は小型艦艇や港湾設備、航空基地、既に座礁していた戦艦「ネバダ」への攻撃を行った。

5隻の特殊潜航艇による攻撃は、4隻が撃沈され、1隻が座礁・拿捕されたため成功しなかった。日本では、撃沈された4隻の乗組員8名と、拿捕された艇で戦死した1名を加えた9名が「九軍神」として宣伝された。拿捕された艇の艇長で捕虜となった酒巻和男海軍少尉は「軍神」から外され、捕虜となったことは公表されなかった。

帰投

日本時間午前8時30分頃、空中攻撃隊は順次母艦へ帰投した。午前9時頃、日本海軍空母機動部隊は北北西に変針し日本への帰路についた。このとき港湾施設を徹底的に破壊するために第三次攻撃を行う可能性もあったが、三川軍一中将のみが意見具申を行い、山口多聞少将は催促に留まった第三次攻撃を行うべきであったと論じられることがあるが、当時、石油地下備蓄技術が導入されつつあったことから、日本海軍側でも「先進国のアメリカは石油地下備蓄技術を導入しているはずだ、タンクはハリボテだろう」と考えられており、攻撃実施に積極的な意見は少なかった。。12月16日、第二航空戦隊司令山口多聞少将の指揮下、「飛龍」「蒼龍」と護衛の「利根」「筑摩」及び駆逐艦「谷風」「浦風」がウェーク島攻略支援に向かった(ウェーク島の戦い)。12月23日、機動部隊は瀬戸内海に位置する柱島泊地に帰還し、作戦は終了した。

影響

第二次世界大戦の拡大

日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦8隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげた。アメリカ太平洋艦隊の戦力低下により、日本軍は西太平洋海域の制海権を確保し、これにより南方作戦を成功裏に終えた。真珠湾攻撃の前にマレー半島での上陸作戦(マレー作戦)が開始されているが、真珠湾攻撃によって日本とアメリカとの戦争は始まったと言って良い。真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、アメリカ合衆国議会は日本に対して宣戦布告した。

12月10日、アドルフ・ヒトラーは軍部の反対を押し切ってアメリカへ宣戦布告し、第二次世界大戦ヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。当時モンロー主義を色濃く残していたアメリカは、ヨーロッパでの戦争にも日中戦争にも介入には消極的であり、連合国に対する支援はレンドリース法による武器援助に止まっていたが、真珠湾攻撃を受けてアメリカの世論は一気に参戦へと傾いた。さらに、日本による宣戦布告の遅れにより、真珠湾攻撃が「卑劣な騙まし討ち」として宣伝されることとなったことも世論に影響した。イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、真珠湾攻撃のニュースを聞いて戦争の勝利を確信したと回想している。

航空主兵への転換

当時、航空機による戦艦など主力艦の撃沈は不可能であるという考えが主流であったが、空母艦載機の集中使用による大規模空襲はその神話を打ち砕いた。この後12月10日にマレー沖海戦で航行中のイギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」が航空攻撃のみで撃沈されたことにより、それまで海戦において補助的な位置付けにあった航空機が主役として注目されると同時に、いかなる艦船でも航空機によって撃沈されうることが浮き彫りとなった。こうして大艦巨砲主義時代は終焉を迎え、時代は航空主兵時代へと移るのである。

アメリカ本土攻撃の恐怖

真珠湾攻撃以降の日本海軍による開戦当初の進撃と、連合軍の度重なる敗退を受けて、日本軍によるアメリカ本土空襲およびアメリカ本土への侵攻計画は可能性が高いと考えられるようになった。ルーズベルト大統領は日本軍の上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討した。実際に1942年に入り、日本海軍の潜水艦によるカリフォルニア州などへの砲撃や、潜水艦の搭載機によるアメリカ本土空襲が数度に渡り行われた。また戦争開始後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局にたびたび報告された。

アメリカ軍の再建

アメリカ軍の受けた被害は、戦艦などの艦船と飛行場などに集中し、人的被害は小さかった。艦船の乗組員の多くは上陸していたためである。乗艦を失った乗組員の多くは、新たに建造された空母へと配置転換され、むしろアメリカ海軍の航空主兵への転換を手助けしたともいえる。追加的な攻撃もなされなかったため、乾ドックなど港湾施設の損害も少なかった。これは沈んだ戦艦の再生など被害からの復旧の助けとなった。

沈んだ戦艦8隻のうち6隻は後に引き揚げられ復帰しており、最終的にアメリカ軍が失った戦艦は2隻であった。大東亜戦争中この時以外でアメリカ戦艦の喪失はない。主力空母は真珠湾外で輸送などの任務に従事していたため無傷であり、その後の作戦において大きな力を発揮した。当初からアメリカの国力差から、日本軍は短期決戦を想定していたが、攻撃目標に含まれていた主力空母を撃沈できなかった事は、緒戦でアメリカ軍が持ちこたえる原動力となり、日本軍の短期決戦戦略が頓挫する一因となった。

参加兵力

日本海軍

アメリカ海軍

損害

日本海軍

  • 空襲部隊:未帰還機29機、損傷74機、戦死55
  • 特別攻撃隊:甲標的 未帰還5隻、戦死9(岩佐直治大尉階級は作戦時のものであり特進前。など)、捕虜1(酒巻和男少尉)

アメリカ海軍

  • 戦艦
    • ネバダ:被雷1、被弾5、至近弾2。擱座。1942年4月22日サルベージ作業終了。1942年12月修理改造終了。
    • オクラホマ:被雷5。転覆、沈没。1943年浮揚、1944年除籍。1947年サンフランシスコへ移送中沈没。
    • ペンシルベニア:ドック内で被弾1。修理の際にオクラホマとアリゾナから取り外した主砲を搭載し、1942年3月艦隊に復帰。
    • アリゾナ:被雷1、被弾8。800kg爆弾の命中による弾薬庫(火薬庫)の爆発で艦体切断・沈没。サルベージ中止。引き上げ可能な装備を引き上げの後、除籍。その後1962年以来記念艦として在籍し現在に至る。
    • テネシー:被弾2(不発弾1)。損害は軽微だったが、修理と同時に大改装を施して艦隊復帰。
    • カリフォルニア:被雷2、被弾1、至近弾1。着底。1942年3月浮揚、1944年5月修理・大改装終了。
    • メリーランド:被弾2。1941年12月21日、応急修理終了。本格修理の後1942年2月艦隊に復帰。
    • ウエストバージニア:被雷7、被弾2(不発弾)。着底。1942年5月サルベージ作業終了。修理・大改装を実施し1944年7月に艦隊復帰。
  • 駆逐艦
    • カッシン
    • ダウンズ
  • 標的艦

宣戦布告遅延問題

真珠湾攻撃が宣戦布告を伴わない奇襲攻撃という認識が現在でも一般的であるが、外務省パープル暗号で送った命令書(当時すでにアメリカ側に解読され大統領国務長官は内容を把握していた)では当初は攻撃開始30分前の宣戦布告を予定していた。しかし、東京から宣戦布告を告げる内容の電文が送信された際、日本大使館員全員が宿直も置かず、大使館を空にして同僚の送別会を行っていた事(現在の歴史書ではこの部分が強調されることが多い)、新庄健吉の葬儀へ来栖三郎特命全権大使野村吉三郎大使が参列した事など、諸事情によりワシントンの日本大使館一等書記官奥村勝蔵の英訳親書のタイプが大幅に遅れ、攻撃開始時刻に宣戦布告が間に合わなかった。

この件については、誰も処分されておらず、外務省はこの遅延に対し調査委員会を設立し調査を行ったが、調査結果は長らく公表されなかった。1994年11月20日、外務省は当時の調査委員会による調査記録「昭和16年12月7日対米覚書伝達遅延事情に関する記録」を公開し、公式見解として、大使館書記官の不手際により、宣戦布告が遅れたことを認めた。現在、この資料は外交史料館報 第8号で閲覧可能である。

また、調査委員会設置以来、奥村の上司である館務総括参事官の井口貞夫の責任を問う説が存在するが、これに対して井口は生前「自分の管掌事務ではなく承知していなかった」と主張し、息子にあたる井口武夫ニュージーランド大使も外務省本省が負うべき落度を現地大使館に責任転嫁しているとして奥村書記官を含めて大使館側に失態はなかったと主張している。

ただし留意しなければならないのは、宣戦布告が攻撃直前に行われた場合は同じように国際条約の違反になることである。

陰謀論

詳細は[[::en:Pearl Harbor advance-knowledge debate]]、真珠湾攻撃陰謀説を参照。

「アメリカは事前に察知していた」との主張

「アメリカは真珠湾攻撃を事前に察知していた」という噂は既に戦時中からあった。主張によれば、アメリカ合衆国政府ないしはルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に察知したのだが、暗号を解読している事実を日本に知らせないためには、事前に真珠湾に警戒態勢をとらせることはできなかったのだという。

さらには、そのまま攻撃させたほうが政治的に有利であるため、あえて見過ごしたのだとする主張もある。こうした陰謀論でよく語られる「根拠」として、当時日本の外交暗号はほぼ解読されていたこと、民主党のルーズベルトが対独開戦を指向していたにもかかわらず共和党を中心とした反戦世論により妨げられていたが、真珠湾攻撃を受けたことにより実現したことなどがある。

否定説

現時点で傍受を証明する資料は存在しない。当時の軍事的常識からすれば、日本の戦争目的は石油・ゴムなどの南方資源を確保することにあり、アメリカ軍は日本軍がフィリピンに攻め寄せると考えており、ハワイが攻撃対象となるとは考えていなかった。日本海軍は囮の艦船を派遣して偽装通信を頻繁に行い、艦隊が南方に向かっているように装っていた。また、艦隊決戦が主流であった時代であって、航空機による海戦はあまり考慮されていなかった。真珠湾内での魚雷攻撃は、浅瀬のため技術上きわめて困難であるとも考えられていた。また日本の用いていた暗号のうち海軍暗号は1941年12月の段階では解読されていなかった。

また、真珠湾攻撃は海軍により徹底的に秘匿が図られ、日本の外務省すら内容を知らされておらず、解読済みの外務省暗号では開戦日時や攻撃場所はそれを察知できなかった。しかも真珠湾攻撃に向かう艦船はすべて厳密な無電封止(無線通信の禁止)を行っており、モールス打鍵器にロックが掛けられていたとの証言もある。更に呉・柱島泊地からは機動艦隊発に見せかけた偽のモールス信号が大量に発信されていたため実際に機動部隊に乗務していた電信員が引き抜かれ、打鍵時の癖まで機動部隊のそれと同じであった。、11月25日時点でアメリカ海軍情報部は、艦隊は呉~鹿児島南部のあたりにいると予想していた佐藤大輔 『真珠湾の暁』、徳間書店、徳間文庫、2002年11月15日、ISBN 4-19-891792-0 --参考文献。。 さらに、仮に無線を傍受していたとしても、作戦概要は本土から空母「赤城」の金庫に保管されており、出撃命令も1941年11月20日に軍令部第一部長、福留繁少将から手交によって行われているので『戦史叢書 10 ハワイ作戦』--参考文献、無線の内容で攻撃目標が真珠湾である事や、作戦概要を知る事は不可能であった。

肯定説
  • 当時のアメリカ国務長官ハルの回顧には、1941年1月27日に東京のグルー大使から、「日本の軍部は日米間に事が起こった場合には真珠湾を奇襲する準備をしている」という情報を受けたため、陸、海両省に報告したという記述があるコーデル・ハル 『ハル回顧録』、中央公論新社、2001年10月15日、ISBN 4-12-203920-7 --参考文献。グルー自身も信憑性が高い情報とは思っていなかったようだが、米政府が、事前に、真珠湾攻撃の可能性ありという報告を駐日大使から受けていたのは事実である但し、1941年1月の段階では真珠湾攻撃は山本五十六大将の私案であった。グルー自身は、1941年1月27日の日記において「対米開戦時には、日本は真珠湾に集中的に奇襲攻撃をかけるという計画が進行中であると噂になっていたので、政府に報告した」Joseph C. Grew 『Ten Years In Japan』P318, Hesperides 2006年11月12日 --参考文献。と記述している。
  • 情報の自由法により公開された米軍機密資料および公文書館資料を活用して詳細な調査を行ったロバート・スティネットは次のような主張をしているTemplate:cite book?原著Day of Decent,Robert B. Stinnett,Chandler Crawford Agency Inc.(2000)。
    • FBIの記録によると、「五数字暗号」とアメリカ側で呼ばれていた日本海軍暗号について、1940年10月には解読に成功していた。これは暗号解読方法説明資料「RIP73」、「RIP80」としてまとめられた。(但し、添付資料の傍受日付は1941年11月18日だが、解読日付は戦後の1946年4月26日である事が、左近允尚敏により指摘されており秦郁彦 『検証・真珠湾の謎と真実』、PHP研究所、2001年8月1日、ISBN 4-569-61586-4 --参考文献。、解読が成功したかについては疑問がある。)
    • 「RIP73」、「RIP80」は、アメリカ軍の諜報無線局であるハワイのHYPO、フィリピンのCASTおよびイギリスに提供され、日本海軍無線の暗号解読が可能な状態であった。(上記の理由により、1941年10月時点での海軍暗号解読には疑問がある。)
    • 国防総省は上記暗号解読方法説明資料の配達記録の開示を拒んでいるが、配達の事実を公文書から確認できた。(国立第二公文書館資料)
    • シアトルの諜報無線局SAILが東京-ワシントン間の無線通信を集中的に傍受したところ、ほとんどがパープル暗号を用いたものであり、ワシントンの陸海軍暗号解読班により、数時間で解読翻訳されていた。<解読させる事には意図が働く場合がある。>
    • フィリピンのCASTの暗号分析班は、1941年11月30日に日本軍が実施した呼出符号変更を解析して、ハワイに向かう日本機動部隊のほとんどの艦船を特定していた。(ハワイに向う指令は、無線では行われておらず、呼出符号変更の解析でハワイに向かう日本機動部隊の艦船の特定は不可能である事が、秦郁彦らに指摘されている秦郁彦 『検証・真珠湾の謎と真実』、PHP研究所、2001年8月1日、ISBN 4-569-61586-4 --参考文献。。)
    • 無線方位測定機による日本機動部隊に関する位置情報は、すべて大統領にも提供されていた。(国立第二公文書館資料)(軍令部が船橋から発信した「A情報」を、機動部隊発信の無線と誤認した可能性を、今野勉により指摘されている秦郁彦 『検証・真珠湾の謎と真実』、PHP研究所、2001年8月1日、ISBN 4-569-61586-4 --参考文献。。)
    • サンフランシスコ第12海軍区は1941年11月30日から12月3日の間、日本の艦隊がハワイ北方海域を北緯43度から38度まで航行するのを補足していた。(コールサインから、商船「竜田丸」の交信を誤認した可能性を今野勉により指摘されている秦郁彦 『検証・真珠湾の謎と真実』、PHP研究所、2001年8月1日、ISBN 4-569-61586-4 --参考文献。。)
    • 真珠湾攻撃前に日本機動部隊は無線封鎖を実施したとアメリカ側日本側ともに主張するが、アメリカ軍の傍受記録からは、日本機動部隊が無線封鎖を無視して頻繁に通信していたことを立証できる。(その時期、日本海軍は大規模な偽電工作を行っており、それに引っ掛かった可能性を、秦郁彦らに指摘されている秦郁彦 『検証・真珠湾の謎と真実』、PHP研究所、2001年8月1日、ISBN 4-569-61586-4 --参考文献。。)
    • (マッカラム覚書の)アーサー・マッカラム少佐は、「ハワイで傍受された報告は断片的であった」と主張しているが、ハワイの無線通信解析主任は、当時「毎日1000通以上の日本海軍無線を傍受しており、我々の報告は断片的ではなかった」と反論している。(上記同様に、偽電工作による偽電文を傍受した可能性が高い秦郁彦 『検証・真珠湾の謎と真実』、PHP研究所、2001年8月1日、ISBN 4-569-61586-4 --参考文献。。)
    • 海軍作戦部次長ロイヤル・インガソル少将の決定により、ハワイのキンメル提督は、解読電報の報告先から除外されていた。
    • 1979年のカーター政権下で公開された傍受電報に関する文章は全体のごく一部に過ぎず、国家安全保障局により、出所がすべて伏せられている。
    • 国家安全保障局が情報開示を拒んできたことについて、その職員は「それは公共の利益のためである。この問題は公に討論すべきことではない。政府の立場を弁明すること自体が、政府が守らねばならない秘密の一部となっている場合、政府の立場を明らかにすることはできない」と語った。
    • 日本無線傍受電報の原本記録はすべて機密暗号グループに分類され、現在でもほとんど公開されていない。

誘い出したとの主張

アメリカ合衆国政府ないしはルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に察知していたと論ずる者の中には、さらに一歩論を進めて、アメリカが、わざと日本の攻撃を誘い出したという説を唱える論者もいる。また軍事的政治的な理由として、日本が先制攻撃を行う事以外に、アメリカが対日戦争を引き起こす手立てがない。

否定説

アメリカが日本を誘い出したという説を唱える者の中には、時代遅れになった戦艦を生け贄としてあえて真珠湾に停泊させ、空母を出港させて温存したのがその証拠だと主張するものもある。しかし戦艦が時代遅れになり、空母が主役になったのは、この真珠湾攻撃がきっかけになったのであり、原因と結果を取り違えた主張であると言わざるを得ない。真珠湾奇襲は大艦巨砲主義時代を終焉させ、航空主兵時代へ移行するという、軍的な一大転換をもたらした大事件であり、陰謀論が正しかったとすれば、アメリカはこの軍事的な一大転換すら事前察知していた事になる。また、出港した空母が南雲機動艦隊と遭遇しなかった事は偶然の結果であり、常識的に考えれば出港した艦のほうが湾内に停泊した艦よりも状態としては危険だったはずである。なお、これはロバート・スティネットの主張したマッカラム覚書とは矛盾する。(後述F 項)

ロバート・スティネットの著書『真珠湾の真実』で参照される資料数は膨大で全容は掴みづらく、秦郁彦ら歴史研究者が日本側の資料と照合した結果では、事実関係の誤りや日付の誤認、牽強付会の解釈が多数あると指摘されている(『検証・真珠湾の謎と真実』 秦郁彦他著)。

肯定説

軍事的政治的な理由として、日本が先制攻撃を行う事以外に、アメリカが対日戦争を引き起こす手立てがない。 当初、本営の対米作戦にはマレー沖で米艦隊を迎え撃つ作戦が用意されていたが、国内である海軍将官により 熱烈な真珠湾攻撃への押しが数年続き、アメリカに絶対に勝てないという意図の下、戦火が開かれた。 また日本は、対アメリカへの国力差を当然常識的に認識しており戦争反対論と対話外交が主流派だった。


誘い出したという説の根拠として、チャールズ・ビアードらは陸軍長官スティムソンの日記を挙げている。日記では11月25日のホワイトハウスでのルーズベルトの発言として、「攻撃を受けるかもしれない」、「いかにして彼らに最初の一発を撃たせるかが問題なのである。これはむずかしい話だ。」とある。『大日本帝国の興亡』の著者ジョン・トーランドはこれに対して、日記やスティムソンの後の発言からはこの説が正しいように見える。しかし、11月下旬に行われた大統領と顧問による討議録から、攻撃の可能性を信じていたのはアメリカ領以外のシンガポール・タイ・他の東南アジア地域であることがわかるとしている。また、ルーズベルトが「むずかしい話」と言ったのは、アメリカ以外への攻撃をアメリカへの攻撃だと強弁するのがむずかしいからであるとしている。日本に警告を送るなどの方法で、これが可能になることをトーランドは指摘している。後に、トーランドは新事実を基にして事前察知説に転向し、『真珠湾攻撃』(文藝春秋刊)を著している。主張の一つとして、南雲艦隊の無線封止は真珠湾攻撃を英雄視する日本人による美化であるというものがある。トーランド(1970) 巻数、頁番号はハヤカワ文庫版による
スティムソンの日記は 1巻 「五部 運命のハルノート 3 アメリカの暫定協定」 275頁
ビアードらの仮説、トーランドの仮説(ビアードらへの反論)は 1巻 現注5部の5 350頁 トーランドはこの反論が証拠のない仮説であると認めつつも、ルーズベルトが誤ったとするよりは論理的・公平であると判断している
トーランドによる事前察知説は 5巻 徳岡孝夫による「解説」 349頁。

ロバート・スティネットの著書は『真珠湾の真実』として日本語訳が出版されている。『真珠湾の真実』で語られたマッカラム覚書(英語)を参照されたい。マッカラム覚書は日本帝国の強みと弱み、アメリカ合衆国の第二次世界大戦における立場国民には孤立主義が念頭していた時候であった。そのため、当時は欧州戦線とは距離をおいていた。また、戦況としてはドイツがイギリスより優位であり、イギリスはアメリカの支援を望んだが、国民は干渉を望まなかった。詳しくは第二次世界大戦の1940頃の項目を参照。と今後の展望を述べたもので、最後にA-H項からなる日本を追いつめるであろう項目が進言されている。マッカラムの人物像としては日本語に堪能かつ日本で育った人物であり、軍のなかではとりわけ日本の情勢と国民に詳しかったという。同書論調の最たる根拠としてはこれが真珠湾攻撃以前に用意された文書であること、この書簡が大統領側近に回されたこと、公開された資料からは大統領自身の指紋を著者が確認したことなど。またその項目は後に実行された現実の合衆国政策と符合ないし類似したことなど。また、同項はABCD包囲網とほぼ同義である。

マッカラム覚書F項は、当時、米艦隊の主力兵力は本土に配備されていたことを見ると、ハワイを増強して日本を挑発しようとする意図によるものであり、1940年の年次演習により米艦隊の主力兵力がはじめてハワイに集結したが、当初、演習終了後、艦隊主力をアメリカ西海岸に帰投させる計画であったものをサムナー・ウェルズ国務長官が計画修正して駐留させるよう圧力をかけたとロバート・スティネットは言う。



マッカラム覚書(Page4抜粋:一部邦訳)

9. It is not believed that in the present state of political opinion the United States government is capable of declaring war against Japan without more ado; and it is barely possible that vigorous action on our part might lead the Japanese to modify their attitude. Therefore, the following course of action is suggested:

  • A. Make an arrangement with Britain for the use of British bases in the Pacific, particularly Singapore.
A. 英領シンガポール太平洋基地の間借りのための英国政府への手配。
  • B. Make an arrangement with Holland for the use of base facilities and acquisition of supplies in the Dutch East Indies.
B. 蘭領東インド諸島基地の間借りのためのオランダ政府への手配。
  • C. Give all possible aid to the Chinese government of Chiang-Kai-Shek.
C. 中国政府蒋介石への援助(日中戦争の真っただ中である)
  • D. Send a division of long range heavy cruisers to the Orient, Philippines, or Singapore.
D. 極東フィリピン・シンガポールへ、重巡洋艦で編成される分艦隊の長期的な派遣。
  • E. Send two divisions of submarines to the Orient.
E. 極東への潜水艦で編成される二つの分艦隊の派遣。
  • F. Keep the main strength of the U.S. fleet now in the Pacific in the vicinity of the Hawaiian Islands.
F. ハワイ諸島周辺の太平洋における合衆国主力艦隊の維持。
  • G. Insist that the Dutch refuse to grant Japanese demands for undue economic concessions, particularly oil.
G. 日本が不当に要求する、経済的な権利・採掘権(特に原油)などの拒絶をオランダへ要請。
  • H. Completely embargo all U.S. trade with Japan, in collaboration with a similar embargo imposed by the British Empire.
H. 日米間全ての通商における徹底した船舶抑留と、同様の船舶抑留を共同でイギリス帝国に要請する。

10. If by these means Japan could be led to commit an overt act of war, so much the better. At all events we must be fully prepared to accept the threat of war.

真珠湾攻撃を題材とした作品

脚注

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参考文献

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  • 戦史叢書 10 ハワイ作戦』, 防衛研修所戦史室, 朝雲新聞社, 1967年
  • 斎藤充功 『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか 』新潮新書 新潮社 ISBN 4106100762
  • トーランド, ジョン 『大日本帝国の興亡』1巻 暁のZ作戦、毎日新聞社訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1984年(原著1970年)。ISBN 4150501017。
  • トーランド, ジョン 『大日本帝国の興亡』2巻 昇る太陽、毎日新聞社訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1984年(原著1970年)。ISBN 4150501025。
  • トーランド, ジョン 『大日本帝国の興亡』5巻 平和への道、毎日新聞社訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1984年(原著1970年)。ISBN 415050105X。

関連項目

外部リンク

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  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月8日 (水) 01:36。










    

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最終更新:2008年10月25日 23:32
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