太平洋戦争


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{{Battlebox |battle_name=太平洋戦争 |partof=

|image=

|conflict=第二次世界大戦 |caption=真珠湾攻撃で炎上中の米戦艦 |date=1941年12月8日 – 1945年9月2日(または8月15日)国際的・法的な戦争終結日は、ミズーリ号上で降伏文書署名が行われた9月2日である。一方、天皇による玉音放送が行われた8月15日は、精神的・心理的な戦争終結日として日本国民やその占領下にあった国の人々に記憶されている。ただ、実際には、満州・沖縄・千島列島などにおける連合軍との戦闘状況や、本土に引き上げようとする日本国民への攻撃は、8月15日以降も続いていた。8月15日で戦争は終わったとする考え方は、そうした状況下にあった日本国民の苦難を忘れてしまいがちなことに注意がいる。[1] |place=太平洋東アジア全域 |casus= |territory= |result=日本のポツダム宣言受託

|combatant1=

アメリカ合衆国</br>

イギリス

中華民国</br>

オーストラリア</br>

ニュージーランド</br>

カナダ</br> </br>

オランダ</br>

フランス(1945)</br>

ソビエト連邦 (1945)</br>他 |combatant2=

大日本帝国</br>

タイ王国(1942)</br>

満州国||commander1=Template:flagicon? フランクリン・D・ルーズベルト
Template:flagicon?ハリー・トルーマン(1945)

ウィンストン・チャーチル</br>

クレメント・アトリー(1945)</br>

蒋介石</br>

ジョン・カーティン </br>

ヨシフ・スターリン |commander2=

近衛文麿 (1937~)</br>

東条英機 (1941~)</br>

小磯国昭 (1944)</br>

鈴木貫太郎 (1945) </br> Template:Flagicon? ピブン

張景恵

|strength1= |strength2= |casualties1= |casualties2= }}

太平洋戦争(たいへいようせんそう、:Pacific War)は、第二次世界大戦の局面の一つで、1941年12月8日大本営発表日)から1945年8月15日玉音放送(ポツダム宣言受諾)を経て、9月2日に降伏調印の期間における、日本と、主にアメリカイギリスオランダなど連合国との戦争である。

なお、「太平洋戦争」という呼称に関しても議論がある。呼称に関する議論については大東亜戦争を参照のこと。

戦争への経緯

1937年に勃発した日中戦争において、日本軍は、北京上海などの主要都市を占領し、中国国民党の蒋介石総統率いる中華民国政府の首府である南京をも陥落させたが、アメリカやイギリス、ソ連からの軍需物資や人的援助を受けた蒋介石は首府を重慶に移し、国共合作により中国共産党とも連携して徹底した反日抵抗戦を展開した。日本軍は、豊富な軍需物資の援助を受け、地の利もある国民党軍の組織的な攻撃に足止めを受けた他、また中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦争を駆使し、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、各地で寸断され泥沼の消耗戦を余儀なくされた。

アメリカイギリスは日本に対して中国からの撤兵を求めた。アメリカは戦争継続に必要な石油鉄鋼の輸出制限などの措置をとり、イギリスも仏印進駐をきっかけに経済制裁をはじめた。これらを自国に対する挑戦であると反発した日本はドイツイタリア日独伊三国軍事同盟を締結し、発言力を強めようとしたが、かえって日独伊と英米などとの対立に拍車をかける結果となった。

1941年4月から日本の近衛文麿内閣は関係改善を目指してワシントンでアメリカと交渉を開始したが、7月に日本軍が南部仏印へ侵出すると、アメリカは在米日本資産の凍結、日本への石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発動した。

9月3日、日本では、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。だが10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職する。後を継いだ東条英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。

11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。

11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使にハル国務長官に対し交付し以後の最終交渉に当たったが、蒋介石イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けた<ref name=A>実際は輸送船でアメリカ海軍が故意に過大な報告をした。こともあり、ルーズベルトは両案とも拒否し、中華民国・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。これを日本に対する最後通牒と受け取った東条英機内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。

最後通牒は日本時間で12月8日月曜日午前3時、ワシントン時間で12月7日午後1時に手交する予定であった。

12月6日午前6時30分の「第901号電」パイロット・メッセージから7日午前2時までに14部ある最後通牒と7日午前3時30分の「第907号電」(12月7日午後1時に手交の指令)はアメリカにある日本大使館に分割電送、指令により電信課の書記官2名が暗号解読タイプすることになった。

書記官室の寺崎英成書記官(終戦後に外務次官)転勤の送別会が終了した後(タイプの奥村勝蔵一等書記官は友人とトランプをした)、井口貞夫参事官の指示で当直もなく、午前10時に出勤した電信課により最後通牒が作成され、日本時間で12月8日月曜日午前4時20分、ワシントン時間12月7日午後2時20分に来栖三郎特命全権大使野村吉三郎大使が米国務省コーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交した。<ref name=B>平成6年(1994年)11月20日公開された1946年調査の外務省の公文書『「対米覚書」伝達遅延事情に関する記録』による。。すなわち、日本は真珠湾を奇襲した後で対米最後通牒を手交したのである。このことは「日本によるだまし討ち」として米国民に広範な憤激を引き起こし、卑劣な国家としての日本のイメージを定着させる原因となるが、公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していた。対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが現在いわれる真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略であったという一部でいわれる説の根拠となっている。

戦争の経過

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日本軍の攻勢(1941年 - 1942年前半)

200px|right|thumb|日本海軍機の攻撃を受け炎上するアメリカ海軍戦艦・[[ウエスト・ヴァージニア (戦艦)|ウエスト・ヴァージニア(BB-48)]]

1941年12月8日日本時間午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前6時)、日本陸軍はアジアにおけるイギリスの拠点であるシンガポール攻略のために、当時イギリスの植民地であったマレー半島の、タイ王国国境に近いコタ・バル上陸作戦を仕掛け、戦争が開始された。

ハワイ時間12月7日午前7時10分(日本時間12月8日午前2時40分)、アメリカ海軍駆逐艦ワードが、ハワイオアフ島真珠湾周辺のアメリカ領海内の航行制限区域に侵入していた日本海軍特殊潜航艇を、砲撃および爆雷攻撃、撃沈した(ワード号事件)。

ハワイ時間12月7日午前7時49分(日本時間12月8日午前3時19分)、日本海軍第1航空艦隊は、アメリカ太平洋艦隊の基地であるハワイオアフ島真珠湾に対し攻撃を行った(真珠湾攻撃)。山本五十六連合艦隊司令長官が考案した、後に一般的となった航空母艦を主力とした機動部隊による攻撃戦術であった。

攻撃によりアメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊をほぼ壊滅させたものの、アメリカ空母機動部隊は出払っていたため損傷を免れ、これが原因でこの後の戦況に大きな影響を与えることになる。完全に撃沈したと思われた艦艇も後に引き上げられて戦線に投入された。また、2回行った航空攻撃では港湾施設と重油タンクへの攻撃はほとんど皆無で、3回目の航空攻撃を進言した部下の意見を南雲忠一第1航空艦隊司令長官は主攻撃目標であったはずのアメリカ空母機動部隊の所在が掴めなかったことと、燃料不足が理由で了承しなかった。

日本海軍の攻撃を知ったルーズヴェルト大統領は、攻撃を受けた翌日に議会において大日本帝国に対する宣戦布告決議を行い、宗教的理由で反対票を投じた議員1名を除く全会一致で可決した。さらに、12月11日に日本の同盟国のドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、これまでヨーロッパ戦線においても虎視眈々と参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦し、これにより第二次世界大戦は名実ともに世界規模の大戦争となった。

12月10日、マレー沖海戦で日本海軍はイギリス海軍の最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ巡洋戦艦レパルスを撃沈した。航空機が戦闘航行中の戦艦を撃沈するのは史上初めてであり、この成功はその後の世界各国の戦争戦術に大きな影響を与えることとなる。後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、このことが「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語っている。

前年12月の開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国は中立を吹聴していたが、12月21日大日本帝国の圧力などによりに日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。

日本陸軍は真珠湾攻撃と同時にマレー半島へ上陸。当初の計画を上回る驚異的な山下奉文陸軍大将率いる日本陸軍は2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールを陥落させた。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも日本海軍は連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊は大損害を受け、印蘭方面の制海権は潜水艦による連合軍の通商破壊が本格化する大戦末期まで日本海軍が保持することとなった。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した。印蘭方面の制圧により、日本軍は南方作戦の最大目標であった戦争遂行に必要な資源獲得に成功した。

アメリカの植民地であったフィリピン占領は対米戦を勝ち抜く上では必須事項であった。日本海軍は零戦一式陸攻の長大な航続力を武器に、台湾から直接フィリピンに航空攻撃をかけた。戦争準備が出来ていなかった在比米空軍は壊滅し、日本陸軍は容易にフィリピン侵攻を遂行することができた。バターン半島攻略に手こずり本来の予定よりは時間がかかったものの、5月には全土の占領に成功した。アメリカ軍の総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに脱出した。

マレー半島を制圧した日本陸軍は、援蒋ルートを遮断するためにビルマへ侵攻。終戦まで日本陸軍とイギリス軍の間で激戦が繰り広げられたビルマ戦役がここに幕を開けた。日本陸軍は破竹の勢いを維持したまま3月にイギリス領ビルマの首都であるラングーンを占領した。こうして、日本陸軍の南方作戦は先制攻撃であることを含めても当初の予想を大きく下回る損害で大成功に終わった。日本軍は開戦から僅か半年の間に、東南アジアから南太平洋一体にかけての広大な地域を占領下に置いた。国内では、相次ぐ勝利の報道により国民は歓喜した。

しかし、強固な装甲を持つ米軍のM3軽戦車への苦戦は、後にM4中戦車を主力とする大火力の米軍に圧倒される日本軍を予言していたし、広大な占領地域への兵站能力を持ち合わせていなかった日本軍は後に補給に苦しむこととなる。

4月、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアキリンディニまで撤退することになる。この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ(正式にはドイツ占領下のフランス)へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。

この頃イギリス軍は、友邦フランスの植民地であったものの敵対するヴィシー政権側に付いたため、日本海軍の基地になる危険性のあったアフリカ東岸のマダガスカル島を南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。

また2月に、日本海軍の伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたもののTemplate:要出典?、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本海軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。Template:要出典?

日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合軍と停戦に持ち込むことを画策していたが、ハワイ諸島に対する上陸作戦は兵站上難しいことから実行には移されなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。Template:要出典?

しかし、それに対してフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していただけでなく、本土西海岸へ上陸された際の中西部近辺への撤退計画とその後の反撃計画の策定まで行っていた。Template:要出典?

戦局の変化(1942年後半 - 1943年)

第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦いニューギニアの戦いが開始され、この地域で日本は戦争資源を消耗してゆくことになる。

1942年5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は空母レキシントンを失ったが、日本軍も空母祥鳳を失い、翔鶴も損傷した。この結果、日本軍は海路からのポートモレスビー攻略作戦を中止した。日本軍は陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、山脈越えの作戦は補給が途絶え失敗する。 4月、空母ホーネットから発進したB-25によるドーリットル空襲に衝撃を受けた海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するためミッドウェー島攻略を決定する。その後6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は作戦ミスと油断により主力正規空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)を一挙に失う大敗を喫する(米機動部隊は正規空母1隻ヨークタウン)を損失)。艦船の喪失だけではなく、多くの艦載機と熟練パイロットを失ったこの敗北は太平洋戦争のターニングポイントとなった。ミッドウェー海戦後、日本海軍の保有する正規空母は瑞鶴翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画されるが、終戦までに完成した正規空母は3隻(大鳳天城雲龍)の3隻のみであった。対するアメリカは終戦までにエセックス級空母を14隻戦力化させている。この敗北によって、日本海軍機動部隊の命運は決していたといえよう。なお、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするために、この海戦における事実をひた隠しにする。

また、アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦潜水艦搭載偵察機である零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲し、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。なお、アメリカ政府は、国民に対する精神的ダメージを与えないために、この爆撃があった事実をひた隠しにする。これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。

ミッドウェー海戦により、日本軍の圧倒的優位にあった空母戦力は拮抗し、アメリカ海軍は日本海軍の予想より早く反攻作戦を開始することとなる。8月にアメリカ海軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸し、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦ではアメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍は日本海軍による攻撃で重巡4隻を失う敗北を喫する。しかし、日本軍が輸送船を攻撃しなかったため、ガダルカナル島での戦況に大きな影響はなかった。その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北し、島を巡る戦況は泥沼化する。10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊が意地を見せ、アメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的にではあるが太平洋戦線における稼動可能空母が0という危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗してしまったことと補給戦が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出ることができなかった。それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による輸送艦攻撃を行い、徹底して兵糧攻め作戦を実行。日本軍の物資や資源輸送を封じ込めた。ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。長引く消耗戦により、国力に劣る日本は次第に守勢に回ることとなる。

1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は最早絶望的となっていた。2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米両軍に大きな損害が生じたが、国力に限界がある日本にとっては取り返しのつかない損害であった。これ以降、ソロモン諸島での戦闘はまだ続いたものの、日本軍は物量に勝る連合軍によって次第に圧迫されていく。 4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将(戦死後海軍元帥となる)が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1ヶ月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。

その後、7月にソロモン諸島で行われたコロンバンガラ島沖海戦で、日本海軍艦艇は巧みな雷撃により米艦隊に勝利するが、その頃になるとソロモン諸島での体勢は決していたため、戦況にはほとんど影響を与えなかった。また、ニューギニア島では日本軍とアメリカ、オーストラリア中心とした連合軍との激しい戦いが続いていたが、8月頃より少しずつ日本軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきた。この年の暮れごろには、日本軍にとって同方面最大のラバウル基地は孤立化し始める。戦力を整えた米軍はこの年の後半からいよいと反攻作戦を本格化させ、南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始する。11月には南太平洋のマキン島とタラワ島における戦いで日本軍守備隊が玉砕し、同島がアメリカ軍に占領されることになる。

同月に日本の東条英機首相は、満州国やタイ王国、フィリピン、ビルマ自由インド仮政府南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示しようとするが、実態は東条首相の独擅場に過ぎなかった。この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北から完全に態勢を立て直し、圧倒的な戦力を持つに至ったアメリカ軍に加え、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく1国で戦う上、開戦当初の相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍の力関係は一気に連合国有利へと変わっていった。


これ以降は太平洋戦争-2参照



  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月22日 (火) 00:28。










    
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