無鄰菴(むりんあん)は山縣有朋の別邸。
「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つある。最初の無鄰菴は山縣の郷里、長州・下関の草庵である。名前の由来はこの草菴に隣家がない事による。
第二の無鄰庵は、京都の木屋町二条に購入した別邸、そして第三の無鄰菴が京都・南禅寺前に造営した別邸で、「無鄰菴会議」の舞台ともなった場所である。
第二の無鄰菴は、京都市木屋町二条、鴨川近くにあった。明治24年。
山縣有朋の別邸、第三の無鄰菴は京都府京都市左京区、南禅寺のすぐ西側、琵琶湖疏水のほとりにある。その庭園で名高く、国の名勝に指定されている。現在は遺族から寄贈されて京都市が管理している。
数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵写しの茶室、煉瓦造り二階建て洋館、および広い日本庭園からなる。山縣は1894年(明治27年)に造営に着手、明治29年完成http://www.city.kyoto.jp/bunshi/bunka/murin_an/about_murin_an.html 。洋館の設計は新家孝正で明治31年に竣工。
広い庭園は山縣が七代目小川治兵衛に作らせたもので、山縣三名園に数えられる。東山を借景とし明るい芝生に琵琶湖疏水を引き込み浅い流れを配した池泉廻遊式庭園で、近代的日本庭園の嚆矢とも言えるものであった。
この洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられた。日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」が行われた。その時の顔ぶれは、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎である。
当時、ロシアは強硬な南下政策をとっており、満州のみならず北朝鮮でも勢力の拡大をすすめていた。 桂は、ロシアの満州における権利は認めても、朝鮮における日本の権利はロシアの認めさせる、これを貫くためには対露戦争も辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意を伊藤と山縣から取り付けようとしたのである。
徳富蘇峰は『公爵山縣有朋傳』で桂の意図を以下のように著述している:
この時桂は、ロシアの満州への勢力拡大を認めることを代償に、朝鮮における日本の優位はなんとしても認めさせる、そのためには対ロシア戦争も辞さないという強い態度で交渉するという対露方針についてを伊藤と山縣から同意を得た。以下はその時の「対露方針四個條」である: Template:quotation?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月25日 (水) 23:04。