蒋介石


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{{大統領 | 人名=蔣介石 | 各国語表記= | 画像=Chiang Kai-shek Colour.jpg | 画像サイズ=175px | キャプション=蔣介石(1945年5月) | 代数=初 | 職名=総統 | 国名=中華民国 | 就任日=1948年5月20日 | 退任日=1975年4月5日 | 出生日=1887年10月31日 | 生地=Template:QIN1890?浙江省奉化県 | 死亡日=1975年4月5日 | 没地=Template:Flagicon?中華民国台北市 | 配偶者=宋美齢

| 政党=

中国国民党

| サイン= }}

Template:Chinese? thumb|220px|[[張学良とともに]] 220px|thumb|[[宋美齢、アメリカ軍の准将スティルウェルとともに]] 220px|thumb|カイロ会談で[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルトチャーチルとともに(1943年)]] thumb|right|220px|[[北伐#国民党による北伐|北伐における蒋介石(1926年)]]

蒋 介石(しょう かいせき、簡体字Template:lang?繁体字Template:lang?ピンインTemplate:lang?1887年10月31日1975年4月5日)は、中華民国政治家軍人国民政府主席、初代総統で5回当選し、あわせて1943年から死去するまで中華民国元首の地位にあった。

名は中正では介石、譜名(族譜上の名)は周泰、原名(幼名)は瑞元、学名は志清。現在の中華民国では蒋中正(チアン・チョンチェン)の名称が一般的。欧米のメディアからは大元帥を意味する "Generalissimo" とも呼ばれていた第二次世界大戦の時代、他に大元帥と呼ばれていたのは昭和天皇ヨシフ・スターリンである。。英語表記では "Chiang Kai-shek"(チアン・カイシェック)。

年譜

 また同年9月に満州問題を主題とし田中義一首相と会談。ただし物別れに終わる。

  • 1928年、政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交。
  • 1936年西安事件で軟禁される。この事件により対日・反共政策の見直しを迫られる。
  • 1937年(民国26年)、盧溝橋事件を契機に、抗日を推し進める。日本軍による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省重慶へ遷都。
  • 1943年カイロ会談に参加する。
  • 1945年、抗日戦争(日中戦争)に勝利。毛沢東との交渉により双十協定を締結する。
  • 1946年国共内戦に突入する。反共産主義を掲げるアメリカから全面的な軍事支援を受ける。
  • 1948年、中華民国の初代総統に就任(ただし反発を受け翌年辞任)
  • 1949年、国共内戦で敗北。首都南京を脱出し、重慶などを経て12月に台湾へ到着。事実上台北への遷都を強いられる
  • 1950年3月、再び総統に就任(第五任(第5期)まで務め任期中に死去)
  • 1969年、交通事故に遭って体調を崩し、この年を境に表舞台には出なくなる。
  • 1975年4月5日、死去。死因は心臓病とも言われる。Template:没年齢?。任期中死亡のため副総統の厳家淦が後任総統に昇格。

生涯

蒋介石の生涯については、多くの書物が出版されているが、虚偽の記述も多数散見され、2008年現在でも各国の蒋介石研究は混乱している。

蒋介石は、1887年に清国の奉化で塩商人の蒋肇聰と王采玉の間に生まれた。成人後は日本東京振武学校へ留学した(当時は中村という日本名を名乗っていた)。その後辛亥革命に関わったことで孫文からの信頼を得たという話があるが、孫文はそれほど積極的に蒋介石を信頼してはいなかったとも言われている(黄文雄著『蒋介石神話の嘘』明成社ほか)。

蒋介石は、ソ連の支援で設立された黄埔軍官学校校長となり、1925年の孫文死後は後継者争いがあったが、1926年中山艦事件以降に国民党軍を掌握し、北伐を完成させ、1928年に中華民国の主席となる。

中国共産党とは、いわゆる「上海クーデター」以降敵対関係にあったが、西安事件により第二次国共合作を強いられ、アメリカソ連の協力を得て日中戦争を戦い抜いた。日本が敗戦した1945年以降に再び中国共産党との間で国共内戦が勃発。1949年に共産党に敗北し台北に遷都(台北は臨時首都)。その後1950年に中華民国総統に就任。1975年に死去するまで総統の地位にあった。

第一次国共合作の頃は、「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米の圧力や浙江財閥との関係により、「上海クーデター」以降は反共主義者となり、日中戦争勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した。しかし、スターリンは、毛沢東よりも蒋介石を高く評価していた(黄文雄著『蒋介石神話の嘘』、倉前盛道著『悪の論理』ほか)と言われ、毛と中国共産党を犠牲にしても蒋介石を通じて、中華民国を赤化させるつもりであったという説もある。実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。蒋介石の息子の蒋経国は(実質的な人質として)モスクワへ留学している。

辛亥革命前後に青幇に加入し杜月笙とは義兄弟の関係であり(蒋の方が位は下)、上海クーデターの際には青幇の協力を得て共産党員の大量殺害をおこなった。その後も青幇の麻薬資金が蒋介石の経済的基盤となる。杜月笙の墓地には蒋介石揮毫による「義節聿昭」の牌がある。

孫文の継承

孫文は1925年3月12日に亡くなり、国民党には権力の空白が生まれた。権力闘争は国民党右派側にいた蒋介石と孫文の親しい戦友であり、党の左派側にいた汪兆銘との間で起きる。蒋介石は党内部での地位は比較的低く、汪兆銘が孫文の国民政府議長を継いだが、蒋介石は軍事力と中山艦事件からの政治工作によって勝利した。蒋介石は1925年国民革命軍の最高司令官に就任し、1926年7月27日には中国北部を支配する軍閥を駆逐して国民党の下に国家統一をなすための北伐と呼ばれる軍事行動を開始した。

北京に対して進攻をかける前に国民革命軍は三つに分けられ、西側は汪兆銘が一団を率いて武漢を、東側は白崇禧が一団を率いて上海を、蒋介石は一団を率いて中央で南京の支配が割り当てられた。しかし、1927年1月に、汪兆銘と彼の国民党左派同志は中国共産党及びソビエト工作員ミハイル・ボロディンと組んで大衆動員と歓呼の中、武漢を手中にし、国民政府は武漢に移ったと宣言した。3月に南京を攻略し(南京事件参照)、上海が親密な白崇禧の支配下になってからは、蒋介石は彼の軍事行動を停止することを強いられ、国民党の浄化及び左派との対決を決意した。

4月12日、蒋介石は何千に及ぶ共産主義者の容疑を持つ者たちへの迅速な攻撃を開始(上海クーデター)。彼は胡漢民を含む保守の同志の支持を受けて国民政府を南京に設立した。国民党から共産主義者は排除、ソビエトからの顧問は追放され、このことが国共内戦開始につながる。汪兆銘の国民政府は大衆に支持されず、軍事的にも弱体であり、まもなく蒋介石と地元広西の軍閥李宗仁に取って代わられ、結局汪兆銘と彼の左派グループは蒋介石に降伏し、南京政府に参加した。ついに軍閥拠点であった北京は1928年6月に支配下とされ、さらに12月には満州軍閥張学良が蒋介石政府に忠誠を誓約した。

蒋介石は、孫文の後継者としての彼自身の立場を確立するために演出を行った。1927年12月1日、蒋介石は政治的にかなり重要な相手である宋美齢(孫文の妻・宋慶齢の妹)と上海で結婚し、孫文の義理の兄弟となった。彼女の姉は孫文の未亡人である宋慶齢であり、蒋介石は前には宋慶齢に求婚したが即座に断られている(宋美齢の両親を喜ばせるために、蒋介石はまず彼の最初の妻及び愛人たちと別れ、結局キリスト教に改宗することを約束しなくてはならなかった。1929年に、蒋介石はメソジストの教会で洗礼を受けている)北京に到達すると蒋介石は孫文に敬意を表し、孫文の遺体を首都南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山陵)で祭った。

蒋介石の歴史的評価

220px|thumb|宋美齢とともに[[台湾を訪問する蔣介石]] 蔣介石の歴史的な評価については、日中戦争を戦い抜き、台湾に移ってからも強力な指導力で中国共産党と対峙した中華民国の指導者として賞される面と、白色テロで台湾を支配した独裁者であり、自身の息子に権力を世襲し、事実上の君主として振舞ったとして非難される面の両面を持っている。

蒋介石と毛沢東に会ったアメリカの外交官は、座り方に注目して両者の違いを見極めようとした。背筋を伸ばし、気品を備えた蒋介石に対しゆったりと温和であった毛沢東を比べている。

中華民国

戒厳令時代には、中華民国の指導者、中国4000年の道徳の体現者として尊敬の対象とされ、蒋介石の銅像が中華民国のあちこちにあった。さらに中華民国の学校には孫文と蒋介石の肖像画が必ず飾られていた。切手等には蒋介石にかかわるものが必ずある。さらに蒋介石は台湾の高雄に澄清湖(チョンチンフー)という観光スポットを作った。これは中国大陸にある西湖をまねたものだといわれている。そこには中興塔をはじめ八つの見所がある。実務的な貢献としては大陸から撤退するにあたって大量の美術品(膨大な故宮博物院の所蔵品もこの際に潜水艦で運ばれた)、巨額の金銀や優秀な人材(料理人までも)を運び込んだ。このことが後のインフラ整備や経済発展の原動力となったという説もある。

また、戦後の台湾は、蒋介石が統治したから、共産主義者の手に落ちなかったと主張する人もいる。

しかし一方では、二・二八事件における数々の虐殺行為や、戒厳令を敷き、白色テロによる支配を行ったため、「アメリカは、日本には原爆を落としたが、台湾には蒋介石を落とした」として、(特に本省人の間には)根強い拒否反応を持つ人が多い。また、蒋介石が本省人知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止(当時の台湾人は日本語の文献を通じて世界の最先端知識を学んでいた)したために、台湾経済の発展は大きく後退したとの説もある(台北二二八紀念館の資料等)。また、蒋介石が「反攻大陸」のことを第一に考えたためアメリカや日本などの説得を無視して、国際連合を脱退してしまった。そのため、台湾は現在の様な国際的に国家としては承認されない状況に陥ってしまったと考える者は少なくない。そのため息子の蔣経国などと比べると、本省人の間では評価が低い。

蒋介石は、息子の蒋経国への中華民国の支配権の世襲を準備した。世襲は、共和国の権力委譲としては不適切であったが、蒋経国は、最後まで「反攻大陸」を望んでいた父親とは全く別の道を歩んだ。経国は、いくつもの特務機関や秘密警察を使って台湾人への過酷な支配を続ける一方で、「私も台湾人だ」と発言、台湾の経済復興政策・民主化政策・本省人登用政策などの台湾本土化政策を推進したのである。

戴国煇は「(蒋介石は)政治的にも軍事的にも戦術家としては一流であったが、戦略家の器ではなかった。」と評し、後継者を息子の経国に指名したことを「毛沢東は周恩来を信じられたが蒋介石は息子以外誰も信じることができなかった。陽明学の信徒としての限界ではないか」としている。

日本

thumb|right|220px|蒋介石を日本亡命中に庇護していた[[犬養毅頭山満とともに(1929年)]] 蔣介石は日本の高田の砲兵学校で軍事教育を受け、日本に亡命した際には日本政財界による支援で清朝打倒に奔走するなど日本との関係が深かった。

南京事件1927年、蒋介石率いる中国国民革命軍(革命というのは、共産革命ではなく三民主義に基づく革命)が南京に入城すると、革命軍の一部が日・英・米などの領事館を襲撃するという事件が起きた。英米の軍隊がこの行為に対して徹底的に反撃を加えたのに対し、日本は死者を出しながらも無抵抗を貫いた(幣原平和協調外交)。しかしこの政策は裏目に出て、むしろ中国側が日本を侮るようになってしまった。この事件は主に中国軍兵士によるものであるが、日本においては「蒋介石の侮日政策」として知られるようになる(後にソ連公館から張学良軍が押収した文書等から判断すると中国共産党の扇動の可能性が強い)。

蒋介石は日本軍との戦いには消極的で、むしろ中国共産党を警戒していた。しかし張学良による西安事件が起こり、共産党と協力して、日中戦争から1945年までは日本軍と戦う事となった。その当時の自身の日記では日本を「倭」と表記し終始蔑んでいた。

日本の敗戦後は、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と称して日本兵の中国大陸からの復員に最大限の便を図った。これは当時中国に駐留する日本軍が強力で、戦争中の国民政府軍(兵力は日本軍を上回っていた)が連戦連敗であったため、なるべく刺激せずに穏便に撤退させたかったというのが真相のようである。但し、この撤退については後述するように蒋介石を好意的に評価する日本人もいる。

日本に関するエピソードにはほかに以下のようなものがある。

  • 日本を連合軍が分割占領することや天皇制廃止には消極的だった。日本のことを熟知していた蒋介石は、ルーズベルト大統領からしばしば意見を求められている。「日本の起こした戦争の主犯者は、日本軍閥であるから、日本の国体問題に対しては戦後の日本国民自身が解決すべきであると考える」と述べている。(日本の占領政策に関するルーズベルトとの手紙のやりとり)
  • 終戦時に中国にいた日本人の数は、軍人120万人、民間人80~90万人で、復員・引揚には数年を要すると言われていたが、蒋介石の便宜により10ヶ月で復員・引揚を完了させている。しかし、BC級戦犯として、多くの罪もない日本軍人を処刑したのも蒋介石の政府であった。
  • カイロ会談では、中華民国は日本に進駐する考えのないことを表し連合国側の占領政策を変えさせた結果、ソ連の北海道進駐を阻止する重大な起点になった(カイロ会談において、日本の分割統治計画があった)。もっとも、蒋介石は、戦後の国共内戦の勃発を予想しており、兵力を日本占領に割くことをためらっていたという説もある。兵力の不足は、台湾の占領が漸く10月になってからであったことや、陳儀長官と共に台湾へ渡った中国軍のレベルが低かったことなどからも十分想像できる。
  • 文化や習俗の面で、非常に日本を尊敬していた。寒い冬の朝でも冷たい水で顔を洗う(中国人にはこのような習慣はない)日本人の話を聞いて、感心したという。また、明治天皇を尊敬しており、戦後も総統代理として蒋経国を明治神宮へ公式参拝させている(許國雄著『台湾と日本がアジアを救うー光は東方より』明成社ほか)。
  • 第二次大戦中に、日本軍が拉孟・騰越で連合軍の大軍(拉孟では32倍・騰越では25倍)を相手に戦い、それぞれ味方の6倍の損害を与えて玉砕したことを讃え、「東洋道徳の範とせよ」と中国軍に訓令を発している(相良俊輔著『菊と龍』光人社ほか)。
  • 戦後、台湾へ移ってからは、富田直亮中将を団長とする旧日本軍の将校団(白団)を招き、国府(中華民国国民政府)軍を秘密裏に訓練させた。米国政府はこれを厳しく非難し、国府軍内にも反対の声が挙がったが、蒋介石は白団による教育訓練を断固推進した。1949年10月、中国人民解放軍が金門島等へ大挙侵攻をはかった際は、旧日本軍の根本博中将(終戦時に張家口でソ連の大軍を迎撃撃破し、在留邦人を無事避難させたことで有名)らが国府軍を作戦指導し、人民解放軍を完膚なきまでに撃破している(中村祐悦著『白団ー台湾軍を作った日本軍将校たち』芙蓉書房ほか)。

中華人民共和国

蒋介石とは大陸で内戦を戦い、中華民国が台湾へ移った後も海峡を挟んで長らく対立していたため、その評判はすこぶる悪かった。しかし、国民党の台湾化が進み、民主進歩党などの野党が結成され、台湾独立運動が盛んになってくると、蒋介石の役割が再評価され始めた。これは、生前の蒋介石が「反攻大陸」を国是とし、共産党とは別の立場から「一つの中国」を主張していたため、蒋介石の評価を高めることによって「台湾独立」を牽制する狙いがあると見られている。

人物

  • 陽明学の信奉者である。戦後にGHQが安岡正篤を戦犯に指定しようとした際に、蒋介石が反対したとも言われている。遺されている小物や衣服、写真を見てわかるとおり、公式の場で特注の軍服などを着用していたものの、プライベートでは派手好きな妻と反対に非常に質素な生活を好み、静養地でも読書に耽っていたり、妻と茶などを楽しむ程度だった。現在中正紀念堂に展示されている物の殆どは外国から贈られた勲章や孫文から与えられた掛け軸がほとんどである。

蒋介石にちなんだ事物

台湾

thumb|220px|right|[[中正紀念堂]]

  • 中正国際空港 - 桃園県にある台湾省最大の国際空港で、英語では蒋介石の英語表記の略をとりC.K.S airport と呼ばれた。2006年、台湾桃園国際空港に改称された。
  • 中正紀念堂 - 蒋介石を記念し、彼の没後に台北市中心部に作られた記念館。
  • 慈湖紀念雕塑公園 - 台湾の民主化に伴い、次々と撤去され始めた蒋介石像を収集して展示している公園。蒋介石の遺体が安置された慈湖にある。現在も台湾全土から集められ、その数は200体近くに上ると言われている。
  • 中正路 - 中華民国の一般的な道路の名前。おおむね都市の中核的な路線にその名が振られる。
  • 紙幣 - 没後の1980年から、台湾元の高額紙幣に蔣介石の肖像が使われてきた。
    • 李登輝政権末期から準備され、政権交代後の2000年以降発行された現行設計の紙幣でも、高額紙幣では科学技術・教育・スポーツを象徴する絵柄に取って代わられたものの、5券種中4番目にあたる200元紙幣に描かれている。ただし、日本の2000円札同様、市中での流通量は極めて少ない。なお、10元、5元、1元硬貨にも蒋介石が描かれている。

日本国内

  • 箱根彫刻の森美術館中正堂 - 箱根 彫刻の森美術館内にある。蒋介石からの恩義を日本の青年が未来永劫忘れないことを目的としてフジサンケイグループによって建てられた。
  • 中正神社 - 蒋介石が、日本が敗戦した際に寛大な処置を取り、復員に便宜を図ったことなどを讃えるため建立。(愛知県幸田町
  • 蒋介石頌徳碑- 横浜市内の伊勢山皇大神宮内生誕100年記念に建立、傍に 統一教会幹部の助野健太郎による由緒書きがある。
  • 中正堂会館- 日華文化協会が入居している。(港区南麻布 1968年竣工)

台湾における脱蒋介石化

民進党政権は、台湾正名運動の一環として、台湾各地に残る蒋介石色の排除を進めている。しかし、民進党政権主導による脱蒋介石化には、最大野党中国国民党とこれの分派である親民等、新党など泛藍連盟の支持者からは批判的である。

最近では、これに基づいて行政院2007年に蒋介石を記念する中正紀念堂を台湾民主紀念館と改名したが、立法院が改名に関する法律である台湾民主紀念館組織規程を否決したため、1ヶ月あまりで中正紀念堂に戻されることとなった。しかし、以後も館内の蒋介石像は228と書かれた横断幕や多数の凧によって覆い隠され、館内館外看板も民主紀念館のままであり、それまで行われていた中華民国軍の儀杖兵の配備も廃止されたままである。

また、高雄の文化中心(文化センター)の蔣介石像も撤去された。

「蒋介石」という呼び方

日本における、(少なくとも)中国近代の歴史の記述では、中国人の名前の呼び方は、通常、「姓+」ではなく、「姓+」を用いる。例えば、袁世凱、毛沢東、周恩来、張作霖、孫文、黄興宋教仁段祺瑞などである。汪兆銘(「姓+名」に加えて、「姓+号」である「汪精衛」がしばしば用いられる)という例外があるが、日本との深い関係がその理由だとも推測される。これらと対比して、蒋介石の場合、「姓+字」が一般的に用いられているということのみならず、「姓+名」である「蒋中正」という呼び名が、専門家や一部の中国近代史に詳しい者以外には、日本においてはほとんど知られていない、かつ、使われていないという、奇妙な状態になっている。この理由は、(蒋介石による)自己使用説、日本マスコミ説(日本の新聞説)、日本政府公式文書説、歴史家説などがありうるが、現在までのところ不明である。なお、英語でも「Chiang Kai-shek」で、「蒋介石」を訳した呼び方となっている。

日本の保守派の蒋介石観の変遷

戦後、日本の歴代政権は台湾を反共陣営の一員として、また国連常任理事国として修好につとめていたが、日中国交回復の機運が高まると中国国民党の宣伝機関は危機感を強め、日本の保守メディアに急接近し様々な宣伝活動を行うようになった。代表例としてサンケイ新聞による蒋介石秘録の連載、國民新聞 (1972年-)による反中国共産党パンフレットの発行、マスコミ総合研究所の雑誌アジア・レポートの発行。そのような中で「以徳報怨」は多くの自民党政治家、保守言論人や右翼団体がこの言葉を引用し蒋介石礼賛を行った。

しかし1990年代半ば、中華民国の民主化が進み、台湾独立派の政党が誕生すると、蒋介石の後継である「ひとつの中国」を標榜する国民党は、むしろ親中共派的な位置に立つ事となった。日本国内において活動する台湾独立運動家たちが、敵の敵は味方、反中国の観点から日本の保守派に接近した。金美齢がコーディネートしたとされる小林よしのりの「台湾論」が成功を収め、日本の若者に対しても蒋介石=悪玉論が広まった。

日中戦争を肯定する立場の言論人も、中華民国側に非がある理由として、蒋介石の「侮日政策」をあげつらうようになった。蒋介石を高く評価する理由のひとつである「以徳報怨」も、日本軍に対抗出来ない状況による窮余の策である事が指摘されるようになった。それに引き摺られる形でかつて蒋介石を礼賛していた産経新聞や保守言論人も蒋介石に否定的な意見を述べるようになっている。

このような現況に対し、平沼赳夫は2008年1月28日にマスコミ総合研究所の会合で、蒋介石が日本の天皇制を守ってくれたと擁護し、日本と中華民国の国交が断絶した後も、日本の保守系政治家が中華民国を訪れた時は蒋介石の墓に参るのが礼儀であったが近年は行われなくなったとの批判を行った。また、小林よしのりの著作にも、蒋介石を「単純な悪玉」としてあげつらうことには否定的と見られる記述がある。

参考文献

  • 蔣介石秘録取材班 『蔣介石秘録』全十五巻(産経新聞社)1975~77年
  • 蔣介石秘録取材班 『蔣介石秘録-日中関係八十年の証言-』上下(産経新聞社)1985年
  • 保坂正康 『蔣介石』(文春新書)1999年
  • 池口恵観 『蒋介石:その偉大なる生涯』(論稿社)1976年
  • 黄文雄 『蒋介石神話の嘘ー中国と台湾を支配した独裁者の虚像と実像』(明成社)2008年  

注釈

関連事項

外部リンク

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月30日 (木) 18:56。










    
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