thumb|250px|石川欽一郎作・台湾総督府([[1916年)]]
台湾総督府(たいわんそうとくふ、旧字体:臺灣總督府)は、清国から日本へ割譲され、日本領となった台湾を統治するために設置された当時の日本の官庁名である。
台北市に設置された台湾総督府本庁舎は、現在も中華民国の総統府として使用されている。また昨今の国際情勢の影響により、近隣にはミサイルを多数配備し、憲兵が小銃を装備し護衛にあたっている。
1895年の下関条約の締結から1945年の日本の敗戦まで台湾を支配・統治した。台湾総督は台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持ったため「土皇帝」と呼ばれた程である(後に軍事権が台湾軍司令官に移譲されたことにより、文官の総督就任が可能になる)。但し台湾総督は内閣総理大臣、内務大臣、拓務大臣の指揮監督を受けることになっており、天皇直属の朝鮮総督より地位が低かった。初代総督は樺山資紀で当初は陸海軍の将官が総督を務めた。兒玉源太郎総督の下で1898年に民政長官に就任した後藤新平は、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進し、一方で植民地統治に対する反逆者には取り締まりをするという『飴と鞭』の政策を有効に用いることで植民地支配の体制を確立した。
代 | 氏名 | 身分 | 在職期間 |
---|---|---|---|
1 | 樺山資紀 かばやま すけのり | 武官 | 1895年5月10日 - 1896年6月2日 |
2 | 桂太郎 かつら たろう | 1896年6月2日 - 1896年10月14日 | |
3 | 乃木希典 のぎ まれすけ | 1896年10月14日 - 1898年2月26日 | |
4 | 兒玉源太郞 こだま げんたろう | 1898年2月26日 - 1906年4月11日 | |
5 | 佐久間左馬太 さくま さまた | 1906年4月11日 - 1915年5月1日 | |
6 | 安東貞美 あんどう ていび | 1915年5月1日 - 1918年6月6日 | |
7 | 明石元二郎 あかし もとじろう | 1918年6月6日 - 1919年10月29日 | |
8 | 田健治郎 でん けんじろう | 文官 | 1919年10月29日 - 1923年9月6日 |
9 | 内田嘉吉 うちだ かきち | 1923年9月6日 - 1924年9月1日 | |
10 | 伊沢多喜男 いざわ たきお | 1924年9月1日 - 1926年7月16日 | |
11 | 上山満之進 かみやま みつのしん | 1926年7月16日 - 1928年6月16日 | |
12 | 川村竹治 かわむら たけじ | 1928年6月16日 - 1929年7月30日 | |
13 | 石塚英蔵 いしづか えいぞう | 1929年7月30日 - 1931年1月16日 | |
14 | 太田政弘 おおた まさひろ | 1931年1月16日 - 1932年3月3日 | |
15 | 南弘 みなみ ひろし | 1932年3月3日 - 1932年5月17日 | |
16 | 中川健蔵 なかがわ けんぞう | 1932年5月17日 - 1936年9月2日 | |
17 | 小林躋造 こばやし せいぞう | 武官 | 1936年9月2日 - 1940年11月27日 |
18 | 長谷川清 はせがわ きよし | 1940年11月27日 - 1944年12月30日 | |
19 | 安藤利吉 あんどう りきち | 1944年12月30日 - 1945年10月25日 |
(昭和15年末現在)
台湾人の職員も多く採用されたが、徹底した差別により高位高官への昇進の機会は閉ざされていた。州知事・庁長、市尹(内地の市長に相当)は全て日本人であり、総督府に属する高等官1,444人(1943年時点)のうち、台湾人は30人以下にすぎず台湾人の警察人員は全て巡査以下だった。公立中学校の校長に任命された台湾人はなく、国民学校も分教場を入れて4人のみだった。
なお、以下の中国語版は、台湾において現在も入手可能である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月8日 (月) 12:24。