鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい, 慶応4年1月3日-6日(1868年1月27日-30日))は、戊辰戦争の緒戦となった戦闘である。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。
慶応3年末、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの働きで発せられた王政復古の大号令により、前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地が命ぜられた。徳川家親族の新政府議定の松平春嶽と徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶喜に通告した。慶喜は謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能という返答をおこなった。実際この通告を受けて旧幕府旗本や会津藩の過激勢力が暴走しそうになったため、慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じつつ、12月13日には政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て大坂城へ退去している。春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地の返納を実行するだろうという見通しを総裁(首相)の有栖川宮熾仁親王に報告する。しかし大坂城に入ったあと慶喜からの連絡が途絶えた。
12月23日と24日にかけて政府においてこの件について会議が行われた。参与の大久保利通は慶喜の裏切りと主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、春嶽は旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。
再度松平春嶽と徳川慶勝が使者にたてられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れたが、薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行う(庄内藩の江戸薩摩藩邸焼き討ち事件)と、慶喜の周囲ではさらに「討薩」を望む声が高まり、慶喜は薩摩征伐を名目に事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始した。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。
慶喜出兵の報告を受けて政府に緊張が走り、慶応4年正月3日(1868年1月27日)から緊急会議が招集された。政府参与の大久保利通は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、政府議定の松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾したが、政府議定岩倉具視が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。
3日夕方には、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽での銃声が聞こえると伏見でも衝突、戦端が開かれた。このときの京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた。しかし旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれた。鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、伏見では奉行所付近で佐久間近江守信久や窪田備前守鎮章ら幕将の率いる幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍(薩摩小銃隊)の大隊規模(約800名)に敗れた。
翌4日は一進一退の戦闘が続いたが、5日になると明治天皇が仁和寺宮嘉彰親王に錦旗を与え(岩倉具視が偽造したという説もある)、新政府軍が官軍となる。旧幕府軍は慶喜の側近の一人で現職の老中でもあった淀藩主稲葉正邦を頼って、淀城に入り建て直しをはかろうとした。しかし淀藩は新政府と戦う意思がなく、城門を固く閉じ旧幕府軍の入城を拒んだ。入城を拒絶された旧幕府軍は淀千両松に布陣し新政府軍を迎撃したが惨敗する。この戦闘の最中、新選組結成時からの主要幹部隊士の一人であった井上源三郎が戦死する。
幕府軍は後退を重ね、石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方歳三率いる新撰組の主力などを擁する幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。
しかし、対岸の大山崎を守備していた津藩が新政府軍側へ寝返り、旧幕府軍へ砲撃を加えた。思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷(のち死亡)、新撰組諸士調役兼監察山崎烝が重傷(後紀州湾沖にて死亡)、同吉村貫一郎が行方不明となった。
8日、開戦に積極的で無かったとされる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍の敗戦が決定的となり、7日には慶喜に対して追討令が出た報を聞くと、その夜僅かな側近及び老中・板倉勝静、同・酒井忠惇、会津藩主・松平容保・桑名藩主・松平定敬と共に密かに城を脱し、大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に退却した。
旧幕府軍の総大将の徳川慶喜の撤退と、新政府軍の砲兵力、新政府軍の優勢により多くの藩が旧幕府軍を見限ったことで、旧幕府軍の全面敗北となった。旧幕府方は15,000人の兵力を擁しながら緒戦にして5,000人の新政府軍に敗れた。両軍の損害は不明とされている。以後、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続く。
「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない それが日本人同族の争いでもあり 幕軍・官軍のいずれもが正しいと信じたるままそれぞれの道へと己等の誠を尽した 然るに流れ行く一瞬の時差により或るは官軍となり又或るは幕軍となって士道に殉じたので有ります ここに百年の歳月を閉じ 其の縁り有る此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対し今慰霊碑の建つるを見る 在天の魂依って瞑すべし 昭和四十四年 中村勝五郎識す」
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