{{政治家
|各国語表記 = あおき しゅうぞう
|画像 = Aoki Shuzo.jpg
|画像説明 =
|国略称 = Template:JPN?
|生年月日 = 1844年3月3日
(天保15年1月15日)
|出生地 = 萩藩厚狭郡生田村
|没年月日 = Template:死亡年月日と没年齢?
|死没地 =
|出身校 = 明倫館出身
|前職 = 外務省次官
|現職 =
|所属政党 =
|称号・勲章 = 勲一等旭日桐花大綬章
子爵
|世襲の有無 =
|親族(政治家) =
|配偶者 =
|サイン =
|ウェブサイト =
|サイトタイトル =
|国旗 = JPN
|職名 = 第15代外務大臣
|内閣 = 第2次山縣内閣
|選挙区 =
|当選回数 =
|就任日 = 1898年11月8日
|退任日 = 1900年10月19日
|退任理由 =
|所属委員会 =
|議員会館 =
|元首職 =
|元首 =
|国旗2 = JPN |職名2 = 第6代外務大臣 |内閣2 = 第1次松方内閣 |選挙区2 = |当選回数2 = |就任日2 = 1891年5月6日 |退任日2 = 1891年5月29日 |退任理由2 = |元首職2 = |元首2 = |国旗3 = JPN |職名3 = 第5代外務大臣 |内閣3 = 第1次山縣内閣 |選挙区3 = |当選回数3 = |就任日3 = 1889年12月24日 |退任日3 = 1891年5月6日 |退任理由3 = |元首職3 = |元首3 = |国旗4 = |職名4 = |内閣4 = |選挙区4 = |当選回数4 = |就任日4 = |退任日4 = |退任理由4 = |元首職4 = |元首4 = |国旗5 = |職名5 = |内閣5 = |選挙区5 = |当選回数5 = |就任日5 = |退任日5 = |退任理由5 = |元首職5 = |元首5 = |国旗6 = |その他職歴1 = |就任日6 = |退任日6 = |国旗7 = |その他職歴2 = |就任日7 = |退任日7 = |国旗8 = |その他職歴3 = |就任日8 = |退任日8 = |国旗9 = |その他職歴4 = |就任日9 = |退任日9 = |国旗10 = |その他職歴5 = |就任日10 = |退任日10 = |国旗11 = |その他職歴6 = |就任日11 = |退任日11 = |国旗12 = |その他職歴7 = |就任日12 = |退任日12 = |国旗13 = |その他職歴8 = |就任日13 = |退任日13 = |国旗14 = |その他職歴9 = |就任日14 = |退任日14 = |国旗15 = |その他職歴10 = |就任日15 = |退任日15 =
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青木 周藏(あおき しゅうぞう、1844年3月3日(天保15年1月15日) - 1914年2月16日)は明治、大正期の外交官、政治家。勲等は勲一等。爵位は子爵。
山口県厚狭郡生田村(現山陽小野田市)出身。幼名は三浦團七。長州藩の村医三浦玄明の長男として生まれ、22歳の時毛利敬親の侍医で日本で初めて種痘を行った蘭学者青木周弼(1803-1863)の弟、明倫館好生堂(医学所)館長で後の宮廷大典医となる青木研藏(1815-1870)の養子となって士族となり、この際に2人の名を取り周藏と改名した。
明倫館で学んだ後、長崎での医学修行を経て、1868年藩留学生としてドイツ留学。渡独後、医学から政治、経済学に無断転科し問題となったが来独中の山縣有朋に談判して解決させた。1872年、北ドイツ留学生総代となり在独留学生の専攻科目決定に介入し物議をかもす。当時の留学生の専攻は軍事、医学に集中しており、青木の真意は日本近代化には、専攻を分散することの必要を説くことだった。青木の推奨もあって、林業、製紙、ビール、製絨(羅紗絨毯)などの分野へ特化して成功した人物も出た。
1873年外務省入省。外務省1等書記官を経て翌年駐独公使。のち駐オーストリア、オランダ各公使を兼任。1886年第1次伊藤内閣の外務次官。
第1次山縣内閣・第1次松方内閣の外務大臣を務め対英条約改正交渉を行い駐英公使として領事裁判権撤廃の条約改正に奮闘した。青木の条約改正案は従来のものと異なり治外法権に関して「対等合意」(外国人裁判官の大審院への不採用、外国人不動産は領事裁判権を撤廃しない限り認めないことを明記)を目指した。
帝政ロシアが東アジアに進出することに不安を抱くイギリスが日本に好意を持つなど時勢にも恵まれ交渉は成功しかけたが、新条約調印寸前で大津事件が発生し引責辞任、交渉は中断される。なお、この際ロシア公使に対して犯人津田三蔵の死刑を確約しながら、判決が無期懲役となり公使が抗議に訪れるとこれを伊藤博文と井上馨の指示だと述べたことによって両名の恨みを買う事になった(相手国公使に対する通告内容に関する最終決定権は大臣である青木にある)。
1894年駐英公使として陸奥宗光外務大臣と条約改正に尽力、日英通商航海条約改正に成功。また第2次山縣内閣外務大臣として北清事変に対処、列強の動きを敏感に察知し積極的な介入を試みた。枢密顧問官を経て叙勲され子爵。1906年には駐米大使として移民問題の解決につとめる。
外交官としての青木の半生は条約改正交渉に長く深く関わり、外交政略としては早くから強硬な討露主義と朝鮮半島進出を主張し、日露戦争後は大陸への進出を推進した。
留学生、公使として滞独生活は25年に及び、日本におけるドイツ通の第一人者としてドイツの政治体制、文化の導入をはかった。
甲武鉄道会社社長三浦泰輔は実弟。養子の青木梅三郎は杉孫七郎(皇太后宮大夫等を歴任)の息子。ペルー日本大使公邸占拠事件時の駐箚ペルー特命全権大使青木盛久は曾孫。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月3日 (月) 09:51。