木戸孝允-2


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前半は木戸孝允を参照

人物

木戸孝允の苦悩の原因

木戸自身は、文明開化を自ら実践し、自ら世間に開明諸施策を率先して推進し続けた大胆かつ繊細な開明派である。ところが同時に、安政の大獄新選組長州征伐戊辰戦争など数々の修羅場の経験に裏打ちされた用心深い漸進(ぜんしん)派でもある。

このため、木戸は、開明思想乏しくして明治政府に参加してしまった守旧派からも、また、現実や経験を踏まえず輸入物の知識による理念だけで権力闘争したがる急進派からも、上策ないし是とは判断し得ない下策をいちいち訴えられ続けた。つまり真反対の両方向から全く相異なる苦悩を同時に抱え込まされ続けるという非常に割に合わない難業に木戸は耐え続けていたことになる。

そのため、病気が再発・悪化した明治6年以降は、明治政府とはしばしば明確に距離を置き始める。

そして、一方ではその当時としては余りにも先見的な提言を残したまま、他方では木戸自身にとって余りにも時代錯誤な西南戦争の最中に、この世に見切りを付けたかの如く象徴的に去って行ってしまうのである。

木戸孝允と板垣退助

土佐の板垣は、木戸が早くから、土佐を倒幕に動かし得る重要人物として龍馬に対しても特に念を押して推奨したほど大いに買っていた人物である。事実、龍馬亡き後も、その通り土佐を討幕に動かした開明的で統率力のある人物である。

しかし、板垣は、木戸の大胆にして細心な漸進路線を理解することが出来ず、着実かつ大胆に明治政府内で実行していくよりも、薩摩と組んでの「不平士族」的な路線闘争に走ったり、下野して薩長政府を急進的に攻撃する「民権」闘争に走ってしまったりなどしたため、木戸の大胆にして着実な開明路線を最も継承しやすい立場にありながら、また、一度は木戸と手を組んで明治政府に復帰していながら、木戸とすら離反してしまい、結局のところ、最も政権運営から遠ざかってしまった。

木戸孝允と大隈重信

肥前の大隈は、余りにも急進的な開明派であったため明治政府内で守旧派から総攻撃され窮地に陥っていたのであるが、開明派のボスである木戸は、出身藩の別を超えて大隈を擁護し、引き立て、何かと面倒を見続けようとした。事実、木戸は、西郷が大隈を「俗吏」と呼んで嫌っていたことを承知で大隈を西郷と同じ参議にまで積極的に引き立てている。

ところが、薩長の人間と比較すれば、不当なまでに優越した立場を与えられたことを自己の能力と過信したためか、やはり大隈も権力闘争に走ってしまう。権力闘争に血が騒ぐ大隈は、開明派のボスである木戸が病気がちになると、木戸や大隈ほど開明的ではないが故に海外視察で出会ったビスマルクに大いに感化され「鉄血宰相」然とし初めていた大久保に近づき、自己の権力の更なる安定を図る。その大久保が暗殺されると、今度は伊藤と権力闘争のデッドヒートを展開し、結局、明治14年(1881)の政変によって、明治政府から追放されることとなる。大隈もまた、木戸の大胆にして着実な開明路線を最も継承しやすい立場にありながら、それを理解出来ず、権力闘争にうつつを抜かしていることを木戸からあっさり見抜かれ、「将来を自分で潰してしまうことになるぞ」と“鬼怒”されてしまい、結局のところ、木戸が予見した通り大隈も政権運営から大きく遠ざかることとなってしまった。

木戸孝允の眼力

木戸の人物を見出す眼力には一定の評価がある。土佐の坂本竜馬と親しく交際し薩長同盟に結びつけ、また幕府打倒の軍事行動を最終的に全て指揮する事になった大村益次郎の後ろ盾となり、一介の平民の彼に周囲の反発を押し切って大役を任せ得るのは全て木戸の進言あってのものであった。 また明治後、木戸同様、木戸に見込まれるほどに開明的で権力闘争に向いている板垣や大隈が下野したからこそ、(皮肉にも)薩長政府は常に近代化へ向けての手痛い批判に晒され続けることになり、日本の政党運動が軌道に乗り、国民意識もそれなりに発展し得たと言える。

木戸自身、幕末においては絶えず命を危険にさらし続けながら、徳川幕府に対して倒幕運動を推進し続けて来た第一人者であった。

そういうことを考え併せると、やはり木戸の目に狂いはなかったということになる。木戸が開明的な板垣や大隈を(出身藩の別を超えて)熱心に引き上げ、調和的に明治政府の参議にまで登り詰めさせておいたからこそ、薩長政府も日本の政党活動も、それなりに機能し得たということになる。

木戸孝允と伊藤博文

木戸孝允の内弟子的存在として伊藤がいる。木戸と同様、武士の生まれではなかった軽輩者の伊藤自身は、単に木戸の愛弟子であるだけでなく、木戸と同様に至誠の実践者である松陰の愛弟子でもあり、初代奇兵隊総督高杉晋作の弟分でもあり、都落ち七卿の一人で誠実な三条実美の弟子でもあり、明治政府に入ってからは大久保や岩倉の弟子にもなっている。自分で師匠を見つけては積極的に弟子入りし、積極的に下働きし、積極的に何ものかを吸収して行くのが上手いと言える(その分、下手な思想性はない)。

木戸が1873年(明治6年)以降、病気がちで参議内閣に出席できなくなると、その代役、つまり長州を代表する参議として抜擢されたのが、伊藤である。既に木戸の執事的存在であり、かつ有能な官僚でもあった。また、木戸没後の話であるが、木戸が病気を押して熱心に推進していた地方官会議の第二回目が開催されることになると、その議長という難職を自ら買って出、律儀に務め上げたのも、伊藤である。

これ以降、衆議院議長立法府の長)と各委員会の委員長と全国知事会の会長と全国都道府県議会議長会の会長と首相行政府の長)の五つを一人で兼任しているような地方長官会議議長という過渡期的な難職は、日本の政治から消える。木戸が率先して提言し続け、木戸が作成しなかった明治憲法の下での帝国議会が地方長官会議に取って代わる。

木戸と伊藤と開国と破約攘夷

木戸と伊藤との関係は、当然のことながら古く、極めて密接な関係である。

伊藤が、松陰の推薦で木戸の義理の弟に当たる来原良蔵の御手付役(侍従・使い走り)として士雇(さむらいやとい)であったところを、来原が亡くなる前後から、木戸が自分の御手付役として伊藤を引き受け、育て上げ、長州藩士として独り立ちさせ、多くの松陰門下生同様、松陰や桂(木戸)の“飛耳鳥目”として積極的に活躍させ続けていた(江戸、水戸、京都、英国、長崎、欧米諸国など)。

もともと木戸は、安政2年(1854年)、義弟・来原良蔵と共に、自分たちが吉田松陰に次いで留学希望者である旨を藩に公然と願い出るほど開国的であった。それが幕府の鎖国政策に恐れおののく藩から当然の如く拒絶されたため、文久3年(1863年)春、代わりに井上馨・伊藤たち5人を藩の公費で英国ロンドン大学へ秘密留学させることを快諾した。先進的な木戸・周布政之助・村田蔵六(大村益次郎)たち長州正義派政権の上層部がこの秘密留学を平然と推進したのには極めて重大な事情がある。

彼らは既に前年(1862年)、長井雅楽の幕府擁護策である『航海遠略策』を、久坂を中心に否定して行く過程で、幕府の見せかけだけの開国路線、すなわち実態的には幕府直轄領の開港場が増えて幕府関係者だけが得をするに過ぎない幕府の自己保身的な“鎖国・屈服開港”路線を否定し、『日本は全国的に“開国・破約攘夷”路線で進まねばならない。自ら積極的に開国して海外の文化文明を知り、自ら積極的に文化文明を吸収して行かなければならない。そうしない限り、破約攘夷はとてもおぼつかない。と幕府とは微妙かつ本質的に異なる“開国・破約攘夷”路線で決していたのである。

薩長土はじめ幕末の多くの勤皇志士たちが本能的に日本国の破滅の危機を感じ、訴え続けた“破約攘夷(不平等条約の撤廃)”は、長井雅楽の『航海遠略策』(1862年)を長州正義派政権が分析し、否定してから49年後、すなわち日露戦争勝利の余韻さめやらぬ1911年(明治44年)に、薩長政府の下でようやく完全に実現する。

家族親族

  • 妻松子は木戸の死後、翆香院と名乗って出家生活に入り、十年後、この世を去った。
  • 木戸家は木戸孝允の実妹治子と来原良蔵との間の次男正次郎が継いでいる。
  • 木戸正次郎はインド洋航海中に病死しているが、木戸孝正が木戸家を継いだ。孝正は孝允の実妹治子と来原の子で正次郎の兄、東宮侍従長を務めた。その長男の木戸幸一は内大臣を務め、昭和戦前の重要歴史資料である木戸幸一日記を残している。
  • 木戸幸一の二男の木戸孝彦は弁護士。東京裁判では父の弁護人を務めた。
  • 木戸幸一の弟は和田家に入って和田小六となった。小六は航空工学者で東京大学教授東京工業大学学長。その息子は元東京大学教授で理化学研究所ゲノム科学総合研究センター所長の和田昭允である。
  • 木戸幸一、和田小六の従妹は、内閣総理大臣池田勇人の最初の妻の直子。
  • 経済学者都留重人の妻の正子は和田の娘。

系譜

  • 木戸氏

系譜

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四賢堂

伊藤博文は、自分が大いなる薫陶を受け、賢いと感嘆し、尊敬し続けた4人の人物(三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通)を讃え、肝に銘じ、恥じることのないようにするため、大磯の自宅の庭先に四賢堂を建立した。

この四賢堂は、現在、更に伊藤、西園寺公望吉田茂の三人を加えて七賢堂とされ、同じく大磯の旧吉田茂邸に転座されている。 大磯歴史ツアー報告


映画・ドラマ・漫画・舞台

映画
ドラマ
漫画
舞台

参考文献

  • 『松菊木戸公伝 上下』
  • 『木戸孝允文書 全8巻』
  • 『木戸孝允遺文集』
  • 『木戸孝允日記 全3巻』
  • 『大久保利通伝 全3巻』
  • 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 新人物往来社 2003年 248-249頁

関連項目

外部リンク




  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月30日 (日) 15:32。











    
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