疎開

疎開(そかい)とは、軍事作戦において、集団行動している兵を散らし、攻撃目標となり難い状況を作りながら作戦行動を行なう事を言うのが原義である。日本語では第二次世界大戦中に日本政府が非戦闘員・産業を戦禍から免れさせる政策も含めて言う様になり、現在では一般に戦禍を避けて移動させる政策を指す。

概要

かつては軍事用語であったが、第二次世界大戦末期に、攻撃目標となりやすい都市に住む学童老人女性、又は直接攻撃目標となるような産業などを分散させ、田舎に避難させるという政策を指す言葉として一般化した。都市計画学者の越沢明北海道大学教授は著書において、この言葉は元来防空都市計画用語で、当時の内務技師北村徳太郎ドイツ語Auflockerungを訳したものとしている<ref name="No1">越沢明『東京の都市計画』岩波書店 1991年

「避難」や「退避」という言葉を使用しなかった理由は、当時の新聞紙上等において、外国で行なわれた(外国政府による、外国人の)疎開の事を単に「避難」「撤去」「疎散」などと表現している事で撤退・退却を「転進」と表現したのと同様、「軍事作戦の1つであり決して逃げるのではない」と糊塗する意図があったとされる。疎開の定義は命令による人および産業の移動を指し、個人的な避難は含まれない。

なお、第二次世界大戦中において本土が大きな被害を受けた日本ドイツイギリスなど多くの国で疎開が行われたほか、本土が戦場より遠く、殆ど被害を受けなくて済んだアメリカにおいても疎開が本格的に計画された。

疎開の種類

学童疎開

「疎開」と単独で使用される場合のほとんどが、この学童疎開を指す。政府は「縁故者への疎開」を奨励したが、学校毎の集団疎開学校疎開)も多く行なわれた。

労働力の中心となるべき成人男性が戦地に赴いている間、子供は重要な労働力として家計の助けとなっている世帯も多く、疎開させたくても出来ない家庭があった。集団疎開に際しては保護者から疎開免除の嘆願書が提出された例も存在している。

東京における学童疎開は、1944年8月4日に始まった。

学童疎開を経験した著名人

建物疎開

一般的に当時の人の多くは家屋疎開とも呼んでおり、それは空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、密集した建物群一部除去し、防火地帯(防空緑地・防空空地)を作る事である。移動させるのではなく、破壊してしまう事が人の疎開と異なる。破壊により生まれた空き地は、人々の避難先や復旧時のゴミ・資材置き場として役に立ったが、目的であった防火地帯としての役割は、焼夷弾の雨の中であまり功を成さなかったと言われている。

又、一部の地域では、「爆弾が天井に引っ掛かるので、天井板は無くした方が良い」などというデマが流れた為、建物疎開の対象にならなかった住宅の天井板だけを撤去する事があった。ただし当時投下された爆弾の重量は平均500kg~1tであり、薄い木製の天井板の有無で影響を受けるとは考えられない。

建物疎開にあたっては、行政機関がその候補を選定し、ほぼ強制的に破壊が行なわれた。疎開対象の選定に当たっては地域の有力者などからの「政治的助言」が大きく影響し、被差別部落に対する偏見や、個人感情から対象に含められたと考えられるものも存在する。

建物疎開は終戦直前まで行われており、本土決戦に備えて人口2万人以上の小都市でも実施され、全国で約61万戸の建物が除却された<ref name="No1" />。建物の除却には移転補償の給付がなされたが、敷地に関しては買収形態のものと借地形態のものの両方が存在した<ref name="No1" />。建物の取り壊し作業は軍が破壊作業を行った後に付近住民などが撤去作業を行うという手順が一般的であった。瓦礫の撤去に携わったのは主に国民学校高等科(12歳~14歳)の生徒(授業の一環として取り入れられていた)や、女性を中心とした「勤労奉仕隊」、病気などで徴兵対象から除外されていた男性などであった。広島へ原爆が投下された当時、広島市内では既に数千人の学童を含む人々が屋外で建物疎開の作業に従事しており、彼らは直接原爆の熱線を浴びることとなった。

皇室の疎開

(現代の天皇論ではなく当時の論として)「現人神である天皇の万世一系の血脈を守る事」は当時の国策として当然であり、皇室の疎開も行なわれた。ただし統帥者である天皇が本拠を離れるわけにもいかない為、明仁皇太子(当時学習院初等科5年生)が栃木県日光市にあった田母澤御用邸に疎開するなどした。

また、皇居の他に政府機関や大本営NHKなども同時に移動するため疎開とはいえないが、空襲を避けるため、また、本土決戦の可能性に備えて、長野県長野市にある松代に、遷都のための地下坑道が建設されていた(松代大本営跡)。

駐日外国人の疎開

太平洋戦争の勃発以降、日本に滞在している各国の外交官宣教師、一般外国人達は、日本政府が強制疎開地として指定した長野県の軽井沢山梨県山中湖周辺に疎開させられる事となった。特に、約300人の駐日外交官と2000人以上の一般外国人の疎開地となった軽井沢では、三笠ホテルに外務省軽井沢出張所が設置され、1943年には万平ホテルソ連トルコ大使館が疎開しソ連大使館は、後に箱根町強羅ホテルに移転した。、1944年8月には民間の貸別荘だった深山荘スイスの公使館が置かれる事となった。

1945年8月10日に日本がポツダム宣言を受諾する事を決定した際は、軽井沢に置かれた中立国であるスイス公使館からアメリカ中国へ、スウェーデン公使館からイギリス・ソ連へ受諾決定の電報が打電された。この事から、日本人を含めた軽井沢の住民達の間では、玉音放送よりも5日早く日本の降伏が伝わる事となり、フランスチェコスロバキアオーストラリアの公使館では、盛大なパーティーが催されていたという。

脚注

文献

  • Ben Wicks(著)、都留信夫 / 都留敬子(訳)、『ぼくたちの戦争:イギリスの学童疎開』、1992年、ISBN 4-900535-04-4
  • イリスの会(編)、『切り取られた時:イギリスとドイツ 第二次世界大戦下の学童疎開』、阿吽社、1993年
  • Frank Baer(著)、『マクセの唄:ドイツの学童疎開の残照』、国際書院、1995年

関連項目

外部リンク



  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月5日 (金) 03:39。












   

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最終更新:2009年02月04日 22:20
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