大韓民国臨時政府(だいかんみんこくりんじせいふ)は、1919年に朝鮮の独立運動を進めていた人々によって中国の上海(シャンハイ)に設立された亡命政府。 李承晩(イ・スンマン)、呂運亨(ヨ・ウニョン)、金九(キム・グ)といった人々によって設立され、日中戦争勃発後、重慶に移った。当時の日本人は「上海仮政府」と呼んでいた。
三・一独立運動後、独立運動の継続と拡大のため、内外各地で政府樹立の計画が進められていた。当時、上海には多くの朝鮮人独立運動家が集結していたが、彼らは臨時議政院を設立し、李承晩を首班とする閣僚を選出、臨時憲章を制定し、1919年4月、大韓民国臨時政府の樹立を宣言した。同じころ、京城(ソウル)とシベリアでも臨時政府が樹立されたが、やがて上海の臨時政府に統合されていく。
実効性は皆無。をする。アメリカ戦略事務局(OSS)と協約を結んで光復軍の特務工作訓練を受ける。しかし米軍潜水艦と飛行機での本国進撃準備途中、日本の降伏を迎えた。
1919年9月に統合された臨時政府は国務総理に李東輝を選出し、1920年に李東輝が臨時政府を去ると李東寧・申圭植・盧伯麟が国務総理代理を引き受けた。国務総理代理体制は1922年9月、李承晩の大統領制に改編され、1925年には朴殷植を大統領に選出した。1926年末に構成された金九内閣は1927年、集団指導体制である国務委員制に改編した。
大韓民国臨時政府の地方組職は朝鮮国内の連通府と交通局があり,海外には居留民団組職があった。 連通府と交通局は朝鮮北西地方に結成され、江原道と忠清道の一部には大韓独立愛国団、中部以南では大韓民国青年外交団が代行した。この時大同団、ソウルの大韓民国愛国婦人会、平壌の大韓愛国婦人会・大韓赤十字会も大韓民国臨時政府との関係の上で活動した。また居留民団組職は上海などの中国本土にだけあり、アメリカとメキシコ・フランスでは大韓人国民会の組職が代理し、満州では大韓民国臨時政府傘下に結成されていた西間島の西路軍政署と北間島の北路軍政署の組職が代理した。しかし戦争終結直前の地方組職は重慶の居留民団と米州の大韓人国民会、中国本土に散在する光復軍となっていた。
中央組職は1940年9月光復軍司令部を設置し、国務委員会は主席・金九、内務・趙碗九、外務・趙素昂、軍務・趙成煥、法務・朴賛翊、財務・李始栄、秘書長・車利錫で構成され、顧問制度を採択して宋秉祚・洪震が推戴された。1944年には国務委員会と行政各部の二重構造に改編された。政府職員は1945年3月に109人であり、重慶在留の韓国人は600人位だった。
財政的には初期には朝鮮各地からの献金が主(資金調達のために春画や裸体写真を販売していた説も有り)であったが、1932年以降、蒋介石の国民政府が金九個人に対する支援金を支給し、重慶時代には中国政府から臨時政府に公然と支給された支援金が主な財源であった。アジア歴史資料センターのレファレンスコード: B03041572500 『8 旬報第四号 2(関東庁警務局 大正10年(1921年)11月12日)』によれば強引というよりも、恐喝強盗という犯罪に近い資金収集を行なっている資料もある。(上記資料の48画像目) なお、実際当時独立運動資金をかこつけた強盗犯罪がよく起き、犯罪者たちが自分の所属組織として、もっとも多く主張する所が臨時政府だったという指摘もある。
大韓民国臨時政府指導理念の基調は自由主義理念である。初期にはロシア革命や社会主義の影響も受けたが、1931年に三均主義を提唱した。三均とは人類平等(人均)・民族平等(族均)・国際平等(国均)の意味で、経済・教育の均等を内容にした政治・経済・社会的民主主義原理だった。この三均主義は1944年には臨時政府の新憲法に反映されて光復韓国の基礎理念として強化された。また他の理念的側面は大韓民国臨時政府は完全独立を追求するという点である。1936年に安益泰がウィーンで作曲した愛国歌を国歌として採用した。この愛国歌は大韓民国の国歌として継承される(異説有)。
大韓民国臨時政府大統領 | |||
1 | 李承晩 | 1919年 - 1925年 | 1925年に弾劾 |
2 | 朴殷植 | 1925年 | 1925年に病死 |
3 | 李相龍 | 1925年 - 1926年 | |
4 | 李東寧 | 1926年 | |
5 | 洪震 | 1926年 | |
6 | 金九 | 1926年 - 1927年 | |
7 | 李東寧 | 1927年 - 1930年 | |
8 | 李東寧 | 1930年 - 1933年 | |
9 | 梁起鐸 | 1933年 - 1935年 | |
10 | 李東寧 | 1935年 - 1939年 | |
11 | 李東寧 | 1939年 - 1940年 | 1940年に病死 |
12 | 金九 | 1940年 - 1944年 | |
13 | 金九 | 1944年 - 1945年 |
thumb|250px|神戸又新日報(大正13年7月28日) 戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索に当時の大韓民国臨時政府の活動が掲載されているので列挙する。
朝鮮半島南部に進駐した米軍は、臨時政府を事実上解体し、独立までの約3年間、直接軍政を敷いた。
現在の韓国政府は、大韓民国臨時政府の正統性を主張しており、たとえば、憲法の前文で「大韓民国は3.1運動により建てられた大韓民国臨時政府の法統を受け継ぐ」と規定している。もっとも、韓国の主張は国際的には認められていない。連合国からも枢軸国からも第二次世界大戦の参戦国として認められることなく、戦後米軍により解体された。当然ながら、サンフランシスコ講和条約への署名も認められなかった。
連合国によって独立を与えられたという事実に対して、韓国では矛盾する二つの姿勢が見られる。ひとつは、韓国は自ら独立を勝ち取ったという神話の創造である。これは、たとえば国定教科書に見られ、対日宣戦布告等を過度に強調する傾向にある。もうひとつは、自らの手で独立する機会を永久に失ったという見方である。こうしたルサンチマンが、韓国の反日主義の原動力の一つとなっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月14日 (土) 06:36。