近衛師団(このえしだん)とは、日本陸軍に置かれた師団の一つ。
なお、イギリス陸軍等でも禁闕守護を任務とする師団を「近衛師団」と呼称する。日本以外の近衛師団については近衛兵を参照のこと。
時代により変遷があるが、近衛歩兵第一、第二、第三旅団が基幹となりその他騎兵、砲兵、工兵等各種兵科による部隊が置かれていた。
Template:日本陸軍? 江戸幕府を倒し、明治新政府が樹立された当初、明治政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的に薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。
そのため1871年(明治4年)、明治政府は「天皇の警護」を名目に薩摩、長州、土佐の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設した。この軍事力を背景に廃藩置県を断行した。
この御親兵は、1872年(明治5年)に近衛都督西郷隆盛を中心とした「近衛兵」として改組され、「天皇および皇居の守護」という任務が課せられた(この当時の近衛兵については近衛参照)。
1873年(明治6年)に徴兵令が制定され鎮台兵として配備されると、近衛兵は鎮台兵の軍事訓練も担うこととなった。
1891年(明治24年)、鎮台が廃止され、代って師団が編成されることとなり、山縣有朋によって近衛兵は近衛師団へ改称され、陸軍大臣管轄の下、平時は天皇や皇居の警護などに当たり、戦時には戦線に参加することとなった。
師団編成となった近衛師団は、数個近衛歩兵連隊を基幹として、それに騎兵・砲兵・工兵・輜重兵部隊などが統合されていた。その後、近衛師団は第二次世界大戦終結による陸軍の解散まで、天皇及び皇居の警護に当たりながら各地の戦いに参戦していった。
1943年(昭和18年)6月1日に、スマトラ方面で作戦中の近衛師団は近衛第2師団に改称され、東京にあった留守近衛師団を基幹として近衛第1師団が編成される。更に、1944年(昭和19年)7月18日に近衛第3師団が編成される。終戦時の近衛第3師団は千葉県成東にあって連合軍の関東上陸作戦に備えていた。また、近衛第2師団は第7方面軍第25軍隷下でスマトラ島メダンにあった。近衛第3師団と第2師団がそれぞれ作戦地に赴いていたため、本来の近衛兵としての任務は近衛第1師団が担当した。
1945年(昭和20年)8月10日未明にポツダム宣言受諾が決まり、それを天皇自ら国民にラジオ放送を通じて知らせることが決まった。8月15日未明に陸軍省軍務局軍務課課員らが森近衛師団長へ決起を促すが、あくまで昭和天皇の思し召しに従い終戦を受け入れる決意の固い森赳師団長はこれを拒絶する。拒否された将校らは、森師団長及び第2総軍参謀白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令を出して上番中の守衛隊を欺いて玉音盤を奪おうとするが、東部軍や近衛連隊長の同調を得られず失敗する。間もなく東部軍司令官田中静壱大将がこの反乱を知り、反乱将校を制止するとともに憲兵隊に逮捕を命じる(宮城事件)。のちにこの事件は半藤一利(初発表時は諸事情により名義上大宅壮一の名で出版)により『日本のいちばん長い日』として小説化され、映画化も行われた。
ポツダム宣言受諾後、近衛連隊でも軍旗奉焼、復員が行われた。一部の将兵は禁衛府皇宮衛士総隊に移ったが、禁衛府解体に伴い完全に消滅した。
また、近衛師団司令部庁舎は現在、東京国立近代美術館工芸館となっている。 300px|right|thumb|旧近衛師団司令部(現[[東京国立近代美術館工芸館)]]
代数 | 補職日 | 師団長名 | 備考 |
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1 | 明治24年12月14日 | 小松宮彰仁親王 | |
2 | 明治28年1月28日 | 北白川宮能久親王 | 台湾征討を指揮する。戦病死。 |
3 | 明治28年11月9日 | 野津道貫 | |
4 | 明治29年5月10日 | 佐久間左馬太 | |
5 | 明治29年10月14日 | 黒木為楨 | |
6 | 明治30年10月27日 | 奥保鞏 | |
7 | 明治31年1月14日 | 長谷川好道 | |
8 | 明治37年9月8日 | 浅田信興 | |
9 | 明治39年7月6日 | 大島久直 | |
10 | 明治41年12月21日 | 上田有沢 | |
11 | 明治44年9月6日 | 閑院宮載仁親王 | |
12 | 大正元年11月27日 | 山根武亮 | |
13 | 大正4年2月15日 | 秋山好古 | |
14 | 大正5年8月18日 | 仁田原重行 | |
15 | 大正6年8月6日 | 由比光衛 | |
16 | 大正7年8月9日 | 久邇宮邦彦王 | |
17 | 大正8年11月25日 | 藤井幸槌 | |
18 | 大正11年2月8日 | 中島正武 | |
19 | 大正12年8月6日 | 森岡守成 | |
20 | 大正14年5月1日 | 田中国重 | |
21 | 大正15年7月28日 | 津野一輔 | |
22 | 昭和3年2月28日 | 長谷川直敏 | |
23 | 昭和4年8月1日 | 林銑十郎 | |
24 | 昭和5年12月22日 | 岡本連一郎 | |
25 | 昭和7年2月29日 | 鎌田弥彦 | |
26 | 昭和8年8月1日 | 朝香宮鳩彦王 | |
27 | 昭和10年12月2日 | 橋本虎之助 | 二・二六事件では宮城警備を指揮する。 |
28 | 昭和11年3月23日 | 香月清司 | |
29 | 昭和12年3月1日 | 西尾寿造 | |
30 | 昭和12年8月26日 | 飯田貞固 | |
31 | 昭和14年9月12日 | 飯田祥二郎 | |
32 | 昭和16年6月28日 | 西村琢磨 | シンガポールの戦いを指揮する。 |
33 | 昭和17年4月20日 | 武藤章 | 昭和18年6月1日近衛第2師団に改称 |
代数 | 補職日 | 師団長名 | 備考 |
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1 | 昭和18年6月10日 | 豊島房太郎 | 留守近衛師団長から転じる。 |
2 | 昭和18年10月29日 | 赤柴八重蔵 | |
3 | 昭和20年4月7日 | 森赳 | 玉音放送盤を奪う反乱計画に反対して殺害される。 |
4 | 昭和20年8月15日 | 後藤光蔵 | 師団の復員を指揮した後に初代禁衛府長官に転じる。 |
代数 | 補職日 | 師団長名 | 備考 |
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1 | 昭和18年6月1日 | 武藤章 | |
2 | 昭和19年10月5日 | 久野村桃代 |
代数 | 補職日 | 師団長名 | 備考 |
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1 | 昭和19年7月18日 | 林芳太郎 | |
2 | 昭和20年5月23日 | 山崎清次 |
日露戦争中の明治37年(1904年)6月15日には、輸送されていた後備近衛歩兵第1連隊が玄界灘で太平洋艦隊の装甲巡洋艦3 隻の攻撃を受け、軍旗を奉焼し連隊長以下千余名が戦死する事件があった(常陸丸事件)。
太平洋戦争中は南方戦線で活躍し、昭和16年(1941年)12月8日から昭和17年(1942年)1月31日のマレー作戦には第25軍に属し、近衛歩兵第3連隊、同第4連隊、同第5連隊及び近衛捜索連隊等が加わった。また、同年のシンガポールの戦いでも活躍した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月11日 (土) 04:16。