前半は、昭和天皇参照
エピソード
皇太子時代
- 幼少時、養育係の足立たか(後の鈴木貫太郎夫人)を敬慕し、多大な影響を受けた。学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か?」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」を挙げたのに対し、裕仁親王一人だけ「源義経」を挙げた。教師が理由を聞くと、「おじじ様(明治天皇)の事はよく知らないが、義経公の事はたかがよく教えてくれたから」と答えたという。
- 初等科時代の学習院院長・乃木希典を「院長閣下」と呼び尊敬していた。ある人が「乃木大将」と乃木を呼び捨てたのに対し、「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したという。1912年(大正元年)の乃木殉死の日、乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、裕仁親王は「院長閣下はどこに行かれるのですか?」と質問した。乃木の殉死に薄々感づいていたのかもしれないTemplate:要出典?。
- 司馬遼太郎の「殉死」によれば、この際乃木は山鹿素行の『中朝事実』の講義を行なったという。これを読んだ中曽根康弘が約55年の後、その事実について尋ねたところ「あったのかもしれない」とのみ述懐した。乃木の朱が入ったその稿本は、宮内庁書陵部に長く保存されていたという。
- 学習院時代、学友たちがお互いを名字で「呼び捨て」で呼び合うことを羨ましがり、御印から「竹山」という名字を作り、呼び捨てにしてもらおうとした(実際、この皇太子の提案に学友が従ったかどうかは不明)。
- 皇太子時代にイギリスを訪問したときロンドンの地下鉄に初めて乗った。このとき改札で切符を駅員に渡すことを知らず、切符を取り上げようとした駅員ともみ合いになり(駅員は、この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった)、とうとう切符を渡さず改札を出た。この切符は後々まで記念品として保存されたという。
- この外遊に際して理髪師大場秀吉が随行。大場は裕仁親王の即位後も専属理髪師として仕え続け、日本史上初の「天皇の理髪師」となった。天皇の専属の理髪師は戦前だけで五人交代している。この大場を始め、昭和天皇に仕えた近従は「天皇の○○」と呼ばれることが多い。
- 皇太子時代から「英明な皇太子」として喧伝され、即位への期待が高かった。北海道、沖縄はじめ各地への行啓も行なっている。北海道行啓では先住民族が丸木舟に乗って出迎えた。
天皇時代
戦前
- 大正天皇が先鞭をつけた一夫一婦制を推し進めて、「側室候補」として「未婚で住み込み勤務」とされていた女官の制度を改め「既婚で、自宅通勤」を認めた。
- 父・大正天皇について、激務に身をすり減らした消耗振りを想起して「父は天皇になるべきではなかった」と語ったことがある。長弟・秩父宮も同様の発言をしている。
- 晩餐時、御前で東條英機・杉山元の両大将が「酒は神に捧げるが、煙草は神には捧げない」などと酒と煙草の優劣について論争したことがあるが、自身は飲酒も喫煙もしなかった。酒は一度試して悪酔いし、以後だめになったとも伝わる。
- 「天皇の料理番」秋山徳蔵が晩餐会のメインディッシュであった肉料理に、天皇の皿だけ肉をくくっていたたこ糸を抜き忘れて供し、これに気付いて辞表を提出した際には、招待客の皿について同じミスがなかったかを訊ね、秋山がなかったと答えると「以後気をつけるように」と言って許したという。孫の紀宮清子内親王にも同様のエピソードが伝わっている。
- 学習院在学中に古式泳法の小堀流を学んだ。即位後、皇族でもできる軍事訓練として寒中古式泳法大会を考案した。御所には屋外プールが存在した。
- アドルフ・ヒトラーから当時ダイムラー・ベンツ社の最高ランクだったメルセデス・ベンツの770K(通称:グロッサー・メルセデス)を贈呈され乗っていたが、非常に乗り心地が悪かったため好まなかったと伝わる。ちなみにこのグロッサーの車体はドイツ製ではなく、日本で作られたもので骨組みは竹製、外装は樹脂製であったという。このほか、菊紋をあしらったモーゼルなども贈られたと言われる。
戦時中
- 南太平洋海戦の勝利を「小成」と評し、ガダルカナル島奪回にいっそう努力するよう海軍に命じている。歴戦のパイロットたちを失ったことにも言及している。
- ミッドウェイ海戦の敗北にも泰然自若たる態度を崩すことはなかったが、ガタルカナル以降は言動に余裕がなくなったという。戦時中の最も過酷な状況の折、宮中の執務室で「この懸案に対し大臣はどう思うか…」などの独り言がよく聞こえたという。
- 原爆や細菌を搭載した風船爆弾の製造を中止させたと伝わるなど、一般的には平和主義者と考えられているが、戦争開始時には国家元首として勝てるか否かを判断材料としている。戦時中は「どうやったら敵を撃滅できるのか」と質問することがあり、太平洋戦争開戦後は海軍の軍事行動を中心に多くの意見を表明し、積極的に戦争指導を行っている。陸軍の杉山参謀総長に対し戦略ミスを指弾する発言、航空攻撃を督促する発言なども知られる。
- ガダルカナル島の戦いでの飛行場砲撃成功の際、「初瀬・八島の例がある。待ち伏せ攻撃に気をつけろ」と日露戦争の戦訓を引いて軍令部に警告を発したが、参謀の妨害にあって(事故とも伝わる)伝わらず、結果お召し艦であった比叡を失った。
- 天皇として自分の意を貫いたのは二・二六事件と終戦の時だけであったと語っている。このことを戦後徳富蘇峰は「イギリス流の立憲君主にこだわりすぎた」などと批判している。
- 1945年(昭和20年)8月15日には事前に録音された玉音放送が流され、天皇自身の声が国民に終戦を告げた。この放送における「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び」の一節は終戦を扱った報道特番などで度々紹介されており、非常に知名度が高い(しかし、その発言はさほど重要ではない。詳しくは玉音放送を参照のこと)。
- 戦争を指導した側近や将官たちに対してどのような感情を抱いていたのかを示す史料は少ない。『昭和天皇独白録』によれば、東條英機に対して「元来、東條という人物は話せばよく判る」、「東條は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」と評していた。もっとも、追い詰められた東條の苦しい言い訳には顔をしかめることもあったと伝わる。しかしながら、のち、東條の葬儀には勅使を遣わしている。また、『昭和天皇独白録』などにより松岡洋右や宇垣一成などには好感情を持っていなかったと推察されている。また、二・二六事件で決起将校たちに同情的な態度を取った山下奉文には、その人柄や国民的な人気、優れた将器にもかかわらずこの一件を理由として良い感情を持たなかったとも伝わる。マレー作戦の成功後も、天皇は山下に拝謁の機会を与えていない(もっとも、拝謁の機会を与えなかったのは東條英機の差し金によるものとも言われる)。なお晩年、『猪木正道著作集4』を読み「特に近衛文麿と広田弘毅については正確だ」と首相・中曽根康弘に伝えたという。この本では両者とも批判的に書かれており、天皇の人物観の一端が窺えるTemplate:要出典?。
戦後
GHQ占領期
- 1946年初春、巡幸が開始された当時は「神ではない、ただの猫背の中年男」、「石のひとつも投げられればいい」と天皇の存在感を軽視していたGHQは、これを見て大いに驚いた。当時の英国紙は「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地への巡幸において、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」と書き、驚嘆を表した。
- 天皇の余りの影響力に、1946年12月の中国地方巡幸の兵庫県における民衆の国旗を振っての出迎えが指令違反であるとしてGHQ民生局は巡幸を中止させたが、国民からの嘆願や巡幸を求める地方議会決議が相次いだため、1948年からの巡幸再開を許可した。
- 巡幸開始の直前、1946年1月18日には名古屋で洋品店を経営していた熊沢天皇(寛道)がマッカーサーに陳情を行ない、天皇の巡幸の後を追いかける格好で全国遊説を開始し対面を要求した。当初GHQは熊沢に利用価値を認め、外電や雑誌『ライフ』に報道、遊説には護衛の将校をつけると篤く遇していたが、天皇への国民の敬意が深いことが知れると、GHQの熊沢への処遇はどんどん薄くなっていった。同時に19人もが存在した自称天皇も姿を消していった。
- 初の日本社会党政権の片山哲に対しては「誠に良い人物」と好感を持ちながらも、急激な改革に走ることを恐れ、側近を通じて自分の意向を伝えるなど、戦後においても政治関与を行なっていたことが記録に残っている。
- 1949年5月22日の佐賀県基山町の因通寺への行幸では天皇暗殺を目的として洗脳されたシベリア抑留帰還者が天皇から直接言葉をかけられ、一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。
- 同地ではまた満州入植者の遺児を紹介され「お淋しい」と言い落涙した。別の遺児には再会を約する言葉を残している。
- 行幸に際しては、食事についてなど、迎える国民に多くの生活に密着した質問をした。行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の反対を押し切り「東北の農業は夏にかかっている」と農繁期である夏を選ぶなど、民情を心得た選択をし国民は敬意を新たにした。
- 行幸先で労働者から握手を求められたことがある。この時にはこれを断り、お互いにお辞儀をするという提案をして実行した。
独立回復後
- アメリカからの使節が皇居新宮殿について感想を述べたとき、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。皇居新宮殿以前に起居していた御常御殿は戦災で焼失しており、吹上御所が完成する1961年まで、天皇は戦時中防空壕として使用した御文庫を引き続いて住まいとしていた。
- 戦後の全国行幸で多くの説明を受けた際、「あ、そう」という無味乾燥な受け答えが話題になった。もっともこの受け答えは後の園遊会などでもよく使われており、説明に無関心だったというよりは単なる癖であったと思われる。本人も気にして「ああ、そうかい」と言い直すこともあった。寛仁親王も、「陛下は『あ、そう』ばかりで、けっして会話が上手な方ではなかった」と語っている。もっとも謁見の機会を得た細川隆元は、その「あ、そう」一つとっても、
- 「ああ、そう、そう」
- 「あ、そう」
- 「ああ、そーう」
- 「ああ、そう、そうか」
- 「あ、そう、ふーん」
- 「ああ、そう、うん」 などのバリエーションがあったと書いている。細川曰く「同感の時には、体を乗り出すか、『そう』のところが『そーう』と長くなる」(『天皇陛下と語る』)とのこと。
- 一方で表情は非常に豊かで、満面の笑みを浮かべる天皇の表情のアップなども写真に残っている。ちなみにこの、『あ、そう』と独特の手の上げ方は非常に印象的で、昭和天皇の癖として小中学生果ては幼稚園児にいたるまで、国民に広く知られており、似た挨拶の仕方をする者に「陛下」との通称がつくほど親しまれていた。この所作を物真似する者も多かった。過去には、タモリが声真似をレパートリーとしていた。
- 1969年(昭和44年)1月2日に、皇居新宮殿が完成してから初の(1963年以来の)皇居一般参賀で長和殿のバルコニーに立った際、パチンコ玉で狙われた(負傷せず)。これを機に長和殿のバルコニーに防弾ガラスが張られることになった。犯人は映画ゆきゆきて、神軍の主人公奥崎謙三で暴行の現行犯で逮捕された。
- 皇居の畑で芋掘りをしていたときヤツガシラが一羽飛来したのを発見。侍従に急ぎ双眼鏡を持ってくるように命じた。事情のわからない侍従は「芋を掘るのに双眼鏡がなぜいるのですか」と聞き返した。このときのヤツガシラは香淳皇后が日本画に描いている。
- イギリスなど王政を執る国に対しては、新興国のイランなども含めて好感と関心を抱いていたという。逆に共産主義陣営には不信感をぬぐえず、ペレストロイカが進んだ晩年においても懐疑的な発言がしばしばあったとされる。
- 第二次世界大戦を戦った経験もあってか、各国の戦争問題については特に関心が深く、時にはかなり踏み込んだ発言も行なっていたという。そうした言葉が表に出ることはないが、天皇の戦争についての考察は常に「命令権者」、即ち往年の大元帥としての視線だったと指摘する声がある。フォークランド紛争においては、英国は軍事行使に出ないと外務省も踏んでいた中、その帰結を一人正しく予期していた節があり、北方四島問題についての進講の際も、ふと「北方四島と北海道の間にある海峡は、潜水艦は通れるのか」と官僚に尋ねるなどしている。
- 生真面目な性格もあり、政争絡みで政治が停滞することを好まなかったことが窺える。「入江相政日記」には、いわゆる「四十日抗争」の際、参内した大平正芳に一言も返さないという強い態度で非難の意を示したことが記録されている。
- 同じ時期、政治家たちの会食中「皇居の堤防からは都内が良く見えますが、陛下はどこをご覧になりますか」との質問が飛んだ。天皇は「言うまでもないではないか、国会議事堂だよ」と言って笑ったという。政局に明け暮れる政治家たちへのきつい皮肉に、一同は「恐れ入りました」と思わず平伏したと言う。
- 1945年(8月20日及び11月臨時大招魂祭、昭和天皇行幸)、1952年(4月10日、昭和天皇、香淳皇后行幸)、1954年(10月19日、創立八十五周年、昭和天皇、香淳皇后行幸)、1957年(4月23日、昭和天皇、香淳皇后行幸)、1959年(4月8日、創立九十周年、昭和天皇、香淳皇后行幸)、1965年(10月19日、臨時大祭、昭和天皇行幸)、1969年(6月10日、御創立百年記念大祭、昭和天皇、香淳皇后行幸)、1975年(11月21日、大東亜戦争終結三十周年、昭和天皇、香淳皇后行幸)と靖国神社に参拝している。(靖国神社公式サイト内神社年表、『靖国神社 正しく理解するために』監修:三浦朱門、海竜社などを参照のこと)
- 1964年8月15日には靖国神社で行われた全国戦没者追悼式に参加した。1965年からの日本武道館での全国戦没者追悼式にも崩御直前の1988年まで欠かさず出席していた。
- 歴史教科書問題の持ち上がった1982年には「わが庭のそぞろありきの楽しからず わざわひ多き今の世を思へば」、自身最後となる戦没者慰霊式典に参加した1988年8月15日にも「やすらけき世を祈れどもいまだならず くやしくもあるかきざしみゆれど」との御製もある。御製に関しては、昭和天皇の大御歌も参照のこと。
1975年
在位五十周年
その他
- 歌番組も楽しみにしており、祭祀を行うため最後まで見られなかった紅白歌合戦の結果を近習に訊ねたり、昭和天皇時代の内廷皇族(明仁親王一家、特に当時の三皇孫)が揃って歌謡曲通であったという雑誌記事が伝わっている。
- 1982年(昭和57年)の園遊会で黒柳徹子と歓談。その際、黒柳が当時出版した自著・「窓ぎわのトットちゃん」の説明をし、「国内で700万部出版し、世界35ヶ国でも翻訳されました」との言葉に対して、「大そうお売れになって」と答えた。この天皇の答えにより、黒柳がまるで天皇に自著の自慢をしてるように周囲の目に映ってしまった。周囲は大爆笑し、黒柳は照れ笑いを浮かべるほかなかった。
- このほか、柔道の山下泰裕選手が天皇の質問の中にあった「骨を折る」という語の意味を「骨折」と取り違え、しかもそのことに気づかず朗らかに返答するといったハプニングも記録されている。
- 晩年、足元のおぼつかない天皇を思いやって「国会の開会式には無理に出席しなくとも……」の声が上がった。ところが天皇は逆に、「むしろ楽しみにしているのだから、楽しみを奪うようなことを言わないでくれ」と訴えたという。
- 1988年8月には、歩行も思うに任せぬ状態になっており静養先から都内までの移動には従来のお召列車ではなく陸上自衛隊のヘリコプターを使用したが、全国戦没者追悼式会場での文書の朗読の声は従前と変わらぬ朗々たるものであった。
- 崩御に際しては元軍人を中心に殉死者が出た。確認されているだけで3件の殉死事件が発生し、未遂1人を含むと11人が殉死(自刃、飛び降りなど)を遂げている。このうち一人についてはニュースで取り上げられ、方法が切腹であったこと、殉死した場所である公園と「すめらぎの…臣殉ず」の辞世が報道された。
- 大膳を務めた谷部金次郎(秋山徳蔵の後任の主厨長)は、崩御を機に退官している。ある意味、天皇に殉じたと言える。神道界の重鎮小泉太志命も、天皇と運命を共にすると公言していた。
人物像に関するもの
- 3人の弟宮との関係は良好で、特に性格のほぼ正反対と言ってよい長弟秩父宮雍仁親王とは忌憚の無い議論をよく交わしていたという。秩父宮が肺結核で療養することになると、「感染を避けるため」見舞いに行くことが許されなかったことを悔やんでいた。その為、次弟高松宮宣仁親王が病気で療養するとたびたび見舞いに訪れ、臨終まで立ち会おうとした。臨終の当日も見舞いに訪れている。高松宮と末弟三笠宮崇仁親王は天皇の参拝が途絶えた後も靖国神社参拝を継続している(2006年7月21日東京新聞朝刊)。皇太子明仁親王の結婚問題においては、三笠宮が皇族を代表して賛意を表明することで一件落着を助けるなど、天皇と連携しこれを補完する形で行動した。いわゆる富田メモとされる文書にも、昭和天皇が高松宮の人物評をしたとされる箇所があるが、「自分にはない軽妙に外国人と付き合い戦後一時期はこの国にも役に立った面があり評価している」などと、長所短所を述べ公平に評した記録が残っており(「富田メモ抜粋」日本経済新聞2007年5月1日・同2日)、忌憚なく意見を交わす仲であったことがうかがえる。また天皇と三人の弟はその妃たち同士も仲が良く、これも関係を良好に保つ大きな助けとなった。前述した皇太子明仁親王の結婚問題では香淳皇后が秩父宮妃、高松宮妃と共に天皇に反対を唱えるといった一件も起こっている。
- 香淳皇后のことは良宮(ながみや)と呼んでいた(良子皇后は皇族の久邇宮家出身である)。
- 香淳皇后との夫婦仲は円満であった。はじめ皇女が4人続けて誕生したときには側近が側室を勧めたほどだが、これに対し「良宮でよい」と答えたという。また、行幸先では必ず「良宮のために」と土産を購入した。訪欧時にも、皇后を気遣ったエピソードがある。
- ひげを蓄えたのは、成婚後からで「成婚の記念に蓄えている」とも「男子、唯一つの特権だから」と、理由を説明している。他方、1986年以降文仁親王が口ひげをたくわえはじめたときには「礼宮のひげはなんとかならんのか」と苦言を呈した。ちなみにこのときは両親である明仁親王夫妻が取り成して結局許されている。
- 第1子照宮成子内親王が誕生した際、「女の子は優しくていいね」と喜んだ。
- スポーツに関しては「幼いときから色々やらされたが、何一つ身に付くものはなかった。皇太子(明仁)がテニスが上手いのは良宮(香淳皇后)に似たのだろう」と発言している。自身は乗馬が好き(軍人として必要とされたという側面もある)で、障害飛越などの馬術を習得しており、戦前は良く行っていた。戦後でも記念写真撮影に際して騎乗することがあった。また水泳(古式泳法)も得意で、水球を楽しむ写真も残っている。青年期にはゴルフに熱中したが、自ら言うようにあまり上達はしなかったようだ。
- 独立回復後はキリスト教を好まず、独立前の常陸宮正仁親王が美智子皇太子妃とキリスト教について語らい、喜んでいたことを知った際には激怒し皇太子妃がひれ伏して許しを乞うてもなかなか怒りが解けなかったと伝わる。もっとも敗戦直後にはキリスト教に対し容認的な姿勢をとっていた(現に皇太子の家庭教師は宣教師のヴァイニング夫人である)。
- 知的好奇心が旺盛で、天皇の質問に対しては、一切のごまかしも通用しなかったほどあらゆる出来事に精通していたといい、質問を受けた者は常に緊張していたという。その質問は予想もしないようなところから飛んでくるものも多く、しばしば相手に冷や汗をかかせた。もっとも相手を追い詰めるような質問はすることがなかったという。
- 進講などを受けるときには、両手を膝の上に置き、足をそろえてじっと相手の話に聞き入った。話が一通り終わると、メモも取っていないにも拘らず要点を適切に捉えた質問を向けたと言い、多くの人が天皇の記憶力の確かさに驚いたことを述べている。
- 学問に関しては、後述の生物学研究や御製の「おおらか」さなどから理科系人間である。秦郁彦は「さきの大戦のとき政府の要人で理科系の人物は昭和天皇だけであった(文藝春秋)」と評している。ちなみに敗戦後、皇太子明仁親王に送った手紙には「精神を重んじ科学を軽んじた」「米英を侮った」ことなどが敗退を重ねた原因であると記している。
- 一方で歴史、特に西欧の中世から近世にかけての国家の興亡史に造詣が深く、箕作元八の『仏蘭西大革命史』や『西洋史講話』はボロボロになるまで読んでいた。皇太子時代の訪欧では「わが国の歴史に十分な理解を持っている」との現地での評が残っている。独特の歴史観と言うべきものを有しており、発達した西洋文明をローマ帝国になぞらえ、その未来を憂うことがあったという。
- 1983年5月行田市の埼玉県立さきたま史跡の博物館を行幸したとき、ガラスケースの中の金錯銘鉄剣を見ようとしたとき、記者団が一斉にフラッシュをたきその様子を撮影しようとしたところ、「君たち、ライトをやめよ!」と記者団を叱った。フラッシュがガラスに反射して見えなかったのを怒ったものである。昭和天皇が公式の場で怒りをあらわにした唯一の例とされる。
- 男はつらいよシリーズの大ファンで、ビデオは全て持っていたと言われる。
- 独特の魅力を持っており、アメリカのフォード大統領も訪日の際、昭和天皇に謁見したが、そのカリスマに終始手を震わせたと帰国後に告白している。鄧小平も1978年の訪日の際、懸案となるであろうと予想された両国の過去の問題について開口一番率直な謝罪を述べた天皇に「電気にかけられたようになって震えていた」と入江相政が語っている。国内では河野一郎が「俺には『この人には敵わない』という人が地上に二人いる、フルシチョフと天皇陛下だ」と述懐したと伝えられる。崩御の際には人種・地域を問わず、世界各国から代表者が顔を揃えた事からも、彼が世界に与えた影響を窺い知る事が出来る。
- 特に海外の要人に対する心遣いが深く、1984年のブルネイ国王ハサナル・ボルキア一家の来日においては、挨拶の際に王女たち一人ひとりに対してまで、彼女たちの趣味などを話題にしながら会話を交わしたという。こうした真摯な態度が、多くの人々を魅了した一因でもあろう。
- 猫背、猫舌で、蕎麦と鰻茶漬が好物であった。月一回の蕎麦が大変な楽しみで、配膳されたときには御飯を残して蕎麦だけを食べたという。猫舌については、浜名湖で焼きたての鰻の蒲焼を食べて火傷をした逸話が伝わる。このほか、鴨のすき焼きも好んだと伝わる。このほか、食に関する逸話は非常に多い。
- 朝食にハムエッグを食べることを好んだという。 戦後はオートミールとドレッシング抜きのコールスローにトースト二枚の朝食を晩年まで定番とした。
- 晩年には体調が悪化したため好物の肉料理が食事に出なくなったことを残念がっていた。
- 魚が好きであり、臣下との会話で魚の話題が出ると喜んだという。趣味として釣りも楽しんだ。沼津において、常陸宮正仁親王を伴って磯釣りに興じたことがある。釣った魚は研究のため、全て食べる主義であった。終戦直後には「ナマコが食べられるのだから、ウミウシも食べられるはずだ」と、葉山御用邸で料理長にウミウシを調理させ食したという。
- 1959年の伊勢湾台風の直後、被害状況を説明する農林大臣の福田赳夫に突然「時に農林大臣、桑名のシジミはどうなったか」と尋ねた。桑名と言えばハマグリなのになぜシジミ? と福田は疑問に思いつつ退出したが、後で調べると当時桑名ではハマグリはほとんど採れず、シジミが名産品となっていた。福田は天皇の魚介類に関する知識の豊富さに舌を巻くとともに「要するにからかわれたのだ」と気付いて苦笑したという。
- 1962年の若狭行幸ではフグの蓄養を見、ハマチ釣りをして大変に喜んだという。若狭にはこの時のほかにも数回行幸しており、馴染みの宿も現存している。
- 1964年に下関に行幸した際には中毒の恐れがあるからとフグを食べられないことに真剣に憤慨し、自分たちだけフグを食べた侍従たちに「フグには毒があるのだぞ」と恨めしそうに言ったという逸話もある。その一方で同所ではイワシなど季節の魚に舌鼓を打ったという。
- 宮中にフグが献上された場合も同じ理由で食すことを止められ、時には「資格を持った調理人が捌いたフグを食べるのになんの問題があるのか」「献上した人が逆臣だとでも言うのか」と侍医を問い詰めることもあった。ついに生涯、食べることができなかった。
- シーラカンスの解剖に立ち会ったことがある。これを食したかどうかについては語られていない。
- 相撲好きであり、蔵間を贔屓にしていた。蔵間が大関昇進を果たせないことを大変残念がり、「蔵間、大関にならないねえ」とこぼしたこともある。このほか、「突貫おじさん」こと富士桜の取り組みも大変楽しんだとされる。なお前述のぼやきは当時の春日野理事長を恐縮させ、蔵間は日本相撲協会理事長室に呼びつけられて叱責されたという。もっとも「一視同仁」、というわけで天皇自身がこうした力士の好みを口にすることはなく、天覧相撲の際にも極力抑えた態度で観戦していた。しかしプライベートでは別で、テレビ観戦時には身を乗り出してひいきの力士の取り組みを見守る天皇の姿があったという。
- 徳仁親王、文仁親王の留学に随行する侍従・警護官の人選など、東宮家の諸事に関して最終決定を行っていた。
- 太平洋戦争史上最大の激戦と言われたペリリュー島の戦いの折には「ペリリューはまだ頑張っているのか」と部隊長の中川州男大佐以下の兵士を気遣う発言をした。中川部隊への嘉賞は11度に及び、感状も三度も与えている。
- 特攻には批判的であったとされる。特攻第一号の報告がもたらされた際には「馬鹿なことを…だが、よくやった」と言ったとされ、特攻した兵士の覇気を讃えた。
- 南方熊楠のことは後々まで忘れることはなく、その名を御製に詠んでいる。南方および弟子からは都合四回にわたって粘菌の標本の献呈を受けている。
- 喫煙せず、煙草は喫煙者の臣下に下賜していたが、その際に「僕は煙草はのまないから煙草呑みにやろう」と言い、近臣が「陛下、朕と仰って下さい」と慌てる場面などもあったという。
- 見学した新幹線の運転台が気に入り、侍従に時間を告げられてもしばらくそこから離れなかったこともある。訪欧時にもフランスで鯉の餌やりに熱中し、時間になってもその場を離れなかったエピソードがある。
- 武蔵野の自然を愛し、ゴルフ場に整備されていた吹上御苑使用を1937年に停止し、一切手を加えないようにした。その結果、現在のような森が復元された。また「雑草という植物はない」(ただしくは「雑草と言う言葉には不快感がある」)といったことでも有名。
- 「テツギョ」というキンギョとフナの雑種とされる魚を飼育していた。後にDNA鑑定でキンブナとリュウキンの雑種と判明。
- 天皇の日常生活をいくらか近代的なものにした。宮城内に通常の半分の9ホールからなるゴルフコースを作ってゴルフをプレイしたり、天皇として初めてレコードを聴いたという。
- 運動神経の良い香淳皇后には自分が教えたゴルフで負け通しだったが、それでも笑っていたという。
- 海洋生物学を研究する関係からか、英語よりフランス語を得意としたと伝わる。訪欧時フランスのバルビゾンのレストラン「バ・ブレオー」でエスカルゴを食べる際、その個数について日本語とフランス語をかけて近臣をからかったこともある。
- 富士産業と三菱からスクーターを献上された。ラビットスクーターSー12型に乗ったことがあり、東宮御所においてこれに乗っている写真が現存する。乗っているのは三菱シルバービジョンc-11型であるとも言われる。
- 後述とも関連するが、学者としても一級であった。天皇の書いた論文を読んだイスラエルの学者が「この論文を書いた学者に会いたい」と言い、署名を見て論文の作者を知り非常に驚いたというエピソードがある。
現人神としての天皇に関するもの
- 戦前「天皇は神である」ということが喧伝されており世界的にも知られていたため、戦後日本に進駐したある米兵は日本人が進化論を知らないと思い込み、日本人相手に大真面目で講義を行った。相手の日本人は「中学で習ったことをいまさら教わるとは思わなかった」との感想を述べている。
- 昭和後期、欧米のテーブルトークRPGに天皇が登場したことがあり、1980年代末になって日本の富士見ドラゴンブックから発行されたTRPG関連書籍で紹介された。このときのゲーム上での設定は極めてよく研究されたものであり、「レッサー・ゴッド級の魔法を使う」など現人神としての性格が強調されていた。
- 政治学者の太田一男は「子供のとき学校でどう教えられたかというと、天皇陛下をまともに見たら目が腐るというのですね。それだから見てはいけない、そういうことを学校の先生がまじめに教えたんですよ」(1999年07月16日、衆議院内閣委員会)と証言している。
- 1997年8月29日、民放のドキュメンタリー番組驚きももの木20世紀で昭和天皇誤導事件が取り上げられたことがある。このとき再現ドラマにおいて、道を間違えた先導車の運転手である警察官はハンドルを握ったまま硬直し、泣きそうな顔、上ずった声で「ま、間違えました~!!」と、道を間違えたことを激しく狼狽する様子を演じていた(番組CMでもこのシーンは流された)。当時、神である天皇の先導という大任を任せられながらミスをしでかしてしまった者の心情、また天皇がいかなる存在として見られていたかがよく分かる内容となっている。この運転手の上官である警部は責任をとるために自殺を図ったが、一命を取り留め天寿を全うした。
- 現人神、最高指導者としてのイメージおよび残影は戦後も長く残り続け、黒豹シリーズにおいてはさすがに名は伏せられていたものの、天皇が主人公・黒木豹介に事件の解決を文字通り「泣いて頼む」シーンも描かれている。崩御後には仮想戦記シリーズにも登場している。
- A級戦犯の容疑をかけられた徳富蘇峰(内務省勅任参事官などを歴任)の日記の『頑蘇夢物語』(講談社、2006~2007年、全4巻)では昭和天皇が敗戦の最大の責任者として批判され、また明治天皇と比較して「天皇としての御修養については頗る貧弱」、「マッカーサー進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べられている 山本武利「徳富蘇峰が「幻の日記」に記した敗戦の原因
―右派ジャーナリズム最大のタブー「昭和天皇批判」が随所に―」「現代」40巻9号、2006年9月号p248~254、講談社参照。。
後半は昭和天皇-3参照
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月5日 (月) 16:14。
最終更新:2008年09月21日 00:23