昭和天皇-3

前半は、昭和天皇昭和天皇-2参照


短歌

昭和天皇は生涯に約1万首の短歌を詠んだと言われている。公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは立場によるところが大きい。宮中行事や歌会始に代表される歌会、行幸おことばに代表されるパフォーマンスに伴っての作品発表は、いずれも宮内庁の目を経ており、相聞が一首も発表されていない点をとっても、一般の短歌作者とは同列に論じられない部分もある。近代短歌成立以前の御歌所派の影響は残るものの戦後は、木俣修岡野弘彦ら現代歌人の影響も受けた。公表された作品の約4割は字余りで、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・南方熊楠に触発されたもののみである。このような作風は「おおらか」とも、「非文学的」ともされてきた。(詳しくは昭和天皇の大御歌を参照)

  • 昭和天皇の歌集
    • みやまきりしま:天皇歌集 (毎日新聞社編) (1951年11月、毎日新聞社)
    • おほうなばら:昭和天皇御製集 (宮内庁侍従職編) (1990年10月、読売新聞社)
    • 昭和天皇御製集 (宮内庁編) (1991年7月、講談社)
  • 昭和天皇・香淳皇后の歌集
    • あけぼの集:天皇皇后両陛下御歌集 (木俣修編) (1974年4月、読売新聞社)

生物学研究

200px|thumb|[[興居島ユムシを採取する昭和天皇(1950年3月19日)]] 昭和天皇は生物学者として海洋生物や植物の研究にも力を注いでいる。1925年6月に赤坂離宮内に生物学御研究室が創設され、御用掛の服部廣太郎の勧めにより、変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学的研究を始めた。1928年9月には皇居内に生物学御研究所が建設された。1929年(昭和4年)には自ら在野の粘菌研究第一人者南方熊楠のもとを訪れて進講を受けた。南方の名は、後の御製にも詠まれて残っている。もっとも、時局の逼迫によりこれらの研究はままならず、研究成果の多くは戦後発表されている。ヒドロ虫類についての研究は裕仁(あるいは昭和天皇)の名で発表されており、『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』をはじめ、7冊が生物学御研究所から刊行されている。また、他の分野については専門の学者と共同で研究をしたり、採集品の研究を委託したりしており、その成果は生物学御研究所編図書としてこれまで20冊刊行されている。

昭和天皇の生物学研究については、山階芳麿黒田長礼の研究と同じく「殿様生物学」の流れを汲むものとする見解や、「その気になれば学位を取得できた」とする評価がある。一方、昭和天皇が研究題目として自然科学分野を選んだのは、純粋な個人的興味というよりも、万葉集以来の国見の歌同様、自然界の秩序の重要な位置にいるシャーマンとしての役割が残存しているという見解もある。これについては北一輝が昭和天皇を「クラゲの研究者」と呼びひそかに軽蔑していたという渡辺京二の示すエピソードが興味深いが、数多く残されている昭和天皇自身が直接生物学に関して行った発言には、この見解を肯定するものは見当たらない。ただ、詠んだ和歌の中で、干拓事業の進む有明海の固有の生物の絶滅を憂うる心情を詠いつつ、その想いを「祈る」と天皇としては禁句とされる語を使っている点に特異な点があることを、自然保護運動家の山下弘文などが指摘してはいる。なお、昭和天皇の海洋生物研究の一部は今上天皇である明仁の研究とともに、新江ノ島水族館神奈川県藤沢市)で公開されている。また海洋生物研究に用いられた御採取船「葉山丸」は、大山祇神社愛媛県今治市)の海事博物館に保存、公開されている。


  • 昭和天皇の著書
    • 日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討 (1967年2月)
    • 天草諸島のヒドロ虫類 (1969年9月)
    • カゴメウミヒドラClathrozoon wilsoni Spencerに関する追補 (1971年9月)
    • 小笠原諸島のヒドロゾア類 (1974年11月)
    • 紅海アカバ湾産ヒドロ虫類5種 (1977年11月)
    • 伊豆大島および新島のヒドロ虫類 (1983年6月)
    • パナマ湾産の新ヒドロ虫Hydractinia bayeri n.sp.ベイヤーウミヒドラ (1984年6月)
    • 相模湾産ヒドロ虫類 (1988年8月)
    • 相模湾産ヒドロ虫類 2 (1995年12月)
  • 昭和天皇と専門の学者の共同研究
    • 那須の植物 (1962年4月、三省堂)
    • 那須の植物 追補 (1963年8月、三省堂)
    • 那須の植物誌 (1972年3月、保育社
    • 伊豆須崎の植物 (1980年11月、保育社)
    • 那須の植物誌 続編 (1985年11月、保育社)
    • 皇居の植物 (1989年11月、保育社)
  • 昭和天皇の採集品をもとに専門の学者がまとめたもの
    • 相模湾産後鰓類図譜 (馬場菊太郎) (1949年9月、岩波書店)
    • 相模湾産海鞘類図譜 (時岡隆) (1953年6月、岩波書店)
    • 相模湾産後鰓類図譜 補遺 (馬場菊太郎) (1955年4月、岩波書店)
    • 増訂 那須産変形菌類図説 (服部廣太郎) (1964年10月、三省堂)
    • 相模湾産蟹類 (酒井恒) (1965年4月、丸善)
    • 相模湾産ヒドロ珊瑚類および石珊瑚類 (江口元起) (1968年4月、丸善)
    • 相模湾産貝類 (黒田徳米・波部忠重・大山桂) (1971年9月、丸善)
    • 相模湾産海星類 (林良二) (1973年12月、保育社)
    • 相模湾産甲殻異尾類 (三宅貞祥) (1978年10月、保育社)
    • 伊豆半島沿岸および新島の吸管虫エフェロタ属 (柳生亮三) (1980年10月、保育社)
    • 相模湾産蛇尾類 (入村精一) (1982年3月、丸善)
    • 相模湾産海胆類 (重井陸夫) (1986年4月、丸善)
    • 相模湾産海蜘蛛類 (中村光一郎) (1987年3月、丸善)
    • 相模湾産尋常海綿類 (谷田専治) (1989年11月、丸善)
  • 昭和天皇が発表したヒドロ虫類の新種
    • Clytia delicatula var. amakusana Hirohito, 1969 アマクサウミコップ
    • C.multiannulata Hirohito, 1995 クルワウミコップ
    • Corydendrium album Hirohito, 1988 フサクラバモドキ
    • C. brevicaulis Hirohito, 1988 コフサクラバ
    • Corymorpha sagamina Hirohito, 1988 サガミオオウミヒドラ
    • Coryne sagamiensis Hirohito, 1988 サガミタマウミヒドラ
    • Cuspidella urceolata Hirohito, 1995 ツボヒメコップ
    • Dynamena ogasawarana Hirohito, 1974 オガサワラウミカビ
    • Halecium perexiguum Hirohito, 1995 ミジンホソガヤ
    • H. pyriforme Hirohito, 1995 ナシガタホソガヤ
    • Hydractinia bayeri Hirohito, 1984 ベイヤーウミヒドラ
    • H. cryptogonia Hirohito, 1988 チビウミヒドラ
    • H. granulata Hirohito, 1988 アラレウミヒドラ
    • Hydrodendron leloupi Hirohito, 1983 ツリガネホソトゲガヤ
    • H. stechowi Hirohito, 1995 オオホソトゲガヤ
    • H. violaceum Hirohito, 1995 ムラサキホソトゲガヤ
    • Perarella parastichopae Hirohito, 1988 ナマコウミヒドラ
    • Podocoryne hayamaensis Hirohito, 1988 ハヤマコツブクラゲ
    • Pseudoclathrozoon cryptolarioides Hirohito, 1967 キセルカゴメウミヒドラ
    • Rhizorhagium sagamiense Hirohito, 1988 ヒメウミヒドラ
    • Rosalinda sagamina Hirohito, 1988 センナリウミヒドラモドキ
    • Scandia najimaensis Hirohito, 1995 ナジマコップガヤモドキ
    • Sertularia stechowi Hirohito, 1995 ステッヒョウウミシバ
    • Stylactis brachyurae Hirohito, 1988 サカズキアミネウミヒドラ
    • S. inabai Hirohito, 1988 イナバアミネウミヒドラ
    • S. monoon Hirohito, 1988 タマゴアミネウミヒドラ
    • S. reticulata Hirohito, 1988 アミネウミヒドラ
    • S.(?) sagamiensis Hirohito, 1988 サガミアミネウミヒドラ
    • S. spinipapillaris Hirohito, 1988 チクビアミネウミヒドラ
    • Tetrapoma fasciculatum Hirohito, 1995 タバヨベンヒメコップガヤ
    • Tripoma arboreum Hirohito, 1995 ミツバヒメコップガヤ
    • Tubularia japonica Hirohito, 1988 ヤマトクダウミヒドラ
    • Zygophylax sagamiensis Hirohito, 1983 サガミタバキセルガヤ

戦争責任

Template:Main? 明治憲法において最高権力者と規定されていたため、戦争責任を問う声はあったが、連合国(とくにアメリカ)が「天皇は日本統治に利用すべき存在」とし、戦争責任を問うことはなかった。

大日本帝国憲法(明治憲法)において、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠として、軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権とされ、また第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」を根拠に軍の編成権も天皇大権のひとつとされた。政府および帝国議会から独立した、編成権を含むこの統帥権の独立という考え方は、1930年ロンドン海軍軍縮条約の批准の際に、いわゆる統帥権干犯問題を起こす原因となった。

統帥権が、天皇の大権の一つ(明治憲法第11条)であったことを理由に、1931年満州事変から日中戦争、さらに大東亜戦争へと続く、いわゆる十五年戦争戦争責任をめぐって、最高指揮権を持ち、宣戦講和権を持っていた天皇に戦争責任があったとする主張と、明治憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定された天皇の無答責を根拠に(あるいは軍事などについての情報が天皇に届いていなかったことを根拠に)、天皇に戦争責任を問う事は出来ないとする主張とのあいだで論争があるが、天皇に戦争責任があったとする主張は大勢とはなっていない。〔大日本帝国大日本帝国憲法を参照〕

また、美濃部達吉らが唱えた天皇機関説によって天皇は「君臨すれども統治せず」という立憲主義君主であったという説が当時の憲法学界の支配的意見であったが、当時の政府は、「国体明徴声明」を発して、統治権の主体が天皇に存することを明示し、この説の教授を禁じた。

終戦後の極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)において、ソビエト連邦オーストラリアなどは天皇を戦争犯罪人として裁くべきだと主張したが、連合国最高司令官であったマッカーサー元帥らの政治判断(昭和天皇を訴追すれば死刑は確実であり、そうなると、徹底した天皇神格化教育を受けた日本国民の反発を招き、円滑な占領政策が行なえなくなるとの懸念)によって訴追を免れた。

なお、昭和天皇が初めてマッカーサー元帥を訪問した時に、マッカーサーは(マッカーサーメモによると)当初命乞いするのではないかと考えていたのに対し、昭和天皇は「私はどうなっても構わない、責任は自分がとるので、国民を助けてほしい」と語り、マッカーサーを大いに感動させたといわれる。この会談内容については全ての関係者が口を噤み、否定も肯定もしない為、真偽の程は明らかではない。これは、マッカーサー自身は、昭和天皇が全責任を負う旨の発言をしたという回想をしていたのだが、会見記録にはその記録がなかったため、論議を招いたものである。昭和天皇自身は、1975年に行われた記者会見でこの問題に関する質問に対し、「(その際交わした外部には公開しないという)男同士の約束ですから」と肯定も否定もしなかったが、現代史家・秦郁彦が、会見時の天皇発言を伝えるアチソン国務省政治顧問の国務省宛電文を発見し、現在では発言があったとする説が有力である。また、会見録に天皇発言が記録されていなかったのは、重大性故に記録から削除されたことが通訳を務めた松井大使の手記で判明し、藤田侍従長の著書もこの事実の傍証とされている。

昭和天皇自身は、1975年10月31日、初めての訪米から帰国した直後の記者会見で次のように答えている。(『昭和天皇語録』講談社学術文庫 p332)

[問い] いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)
[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
[問い] 戦争終結に際し広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者)
[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。

本島等長崎市長の戦争責任発言

1988年12月、本島等長崎市長(当時)が、昭和天皇には戦争責任があると思う、と発言したことに対し、保守陣営などからの反発と右翼からの脅迫が起こった。本島市長は発言の撤回をせず、右翼の構成員の銃弾を受けることとなった。天皇を巡る右翼の銃撃について嶋中事件との関連で言及する声もあった。

敗戦観

山田風太郎の著書『人間臨終図巻』内の山縣有朋の項目に昭和天皇が終戦から間もなく、疎開中の明仁親王(のちの第125代天皇)にあてた手紙が引用されている。

それを要約すると、敗戦の責任は、第一次世界大戦の時のドイツと同様に、偏に日本の国力の限界を無視、精神主義に陥った軍部にあり、日清日露の両戦役で陸海軍の指揮を担当した、山縣や山本権兵衛のような軍人がいたならば、ここまで国土を荒廃させるような無茶な戦争はしなかっただろうとのことである。

戦前から戦後へ

戦前の天皇は国民との接触はほとんど無く、公開される写真、映像も大礼服軍服姿がほとんどで、現人神大元帥と言う立場を非常に強調していた。

日本国民全滅の危機感からポツダム宣言受諾を決定したが、ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述が無く、非常に微妙な立場に追い込まれた。その為、政府や宮内省などは、天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却すると共に、巡幸と言う形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げようと苦慮した。具体的に、第1回国会の開会式、伊勢神宮への終戦報告の参拝時には、海軍の軍衣から階級章を除いたような「天皇御服」と呼ばれる服装を着用した。

さらに、進駐軍が上陸してくると、礼服としてモーニング、平服としては背広を着用してソフト路線を強く打ち出した。また、いわゆる「人間宣言」でGHQの天皇制擁護派に近づくと共に、一人称としてを用いるのが伝統であったのをを用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わすなど、日本の歴史上最も天皇と庶民が触れ合う期間を創出した。

陵墓・霊廟・記念館

thumb|250px|[[武蔵陵墓地昭和天皇陵「武蔵野陵」東京都八王子市)]] thumb|250px|[[昭和天皇記念館東京都立川市)]] 東京都八王子市長房町の上円下方墳の武蔵野陵(むさしののみささぎ)に葬られた。

昭和天皇を祀る神社はないが、全ての歴代天皇は皇居宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。なお大日本愛国党青年隊を中心に「昭和神宮」を創建しようと言う動きもある。

また、2005年11月27日、東京都立川市国営昭和記念公園内の「みどりの文化ゾーン・花みどり文化センター」内に、「昭和天皇記念館」が開館した。財団法人昭和聖徳記念財団が運営を行っている。館内には、「常設展」として、昭和天皇の87年間に渡る生涯と、生物学の研究に関する資料や品々、写真などが展示されている。

財産

  • 終戦時:37億5千万円。現在の金額で7912億円ほど。
  • 崩御時:18億6千900万円、および美術品約5千点。美術品は1点で億単位の物も多数という。

昭和天皇を演じた人物

関連項目

脚注

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著書

自身の著書

  • 裕仁『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』(1967年,生物学御研究所
  • 裕仁『相模湾産ヒドロ虫類』(1988年,生物学御研究所)
  • 宮内庁侍従職編『おほうなばら―昭和天皇御製集』(1990年,読売新聞社,1990年,ISBN 4643900954)
  • 昭和天皇(山田真弓補足修正)『相模湾産ヒドロ虫類2』(1995年,生物学御研究所)

その他の著書

  • 国立科学博物館『天皇陛下の生物学ご研究』(1988年,国立科学博物館
  • 田所泉『昭和天皇の短歌』(1997年,創樹社,ISBN 4794305222)

参考文献

史料・回想録

研究書

外部リンク



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月5日 (月) 16:14。












     

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最終更新:2008年09月21日 00:24
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