上海事変


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第一次上海事変(だいいちじしゃんはいじへん)は1932年昭和7年)1月28日以降に中国上海国際共同租界周辺で起きた日華両軍の衝突である。

日華間の緊張の高まり

thumb|300px|戦闘に加わる中国側[[憲兵]]

共同租界の市参事会にとっては、日本軍の動きより上海市街の外に野営する十九路軍のほうが重要だった。3個師団、3万人以上を擁する十九路軍は5年前にあった上海クーデターにおける国民党軍を思い起こさせ、上海市が警戒心を持つのも当然だった。

指揮官の蔡廷鍇(さい ていかい)は日本軍との交渉において「私の指揮下にある軍隊は、中華民国政府の正規軍であって、政府の命令によってのみ行動する」と言った。しかし、それは偽りで実際に十九路軍に命令する者は彼だけだった。その上、蔡廷鍇は日本軍との戦いを避けたい蒋介石の代弁者でもなく、蒋介石上海市同様、蔡廷鍇を警戒していた。

蔡廷鍇は、給与が支給されるまでは去らないと通告した<ref name=Sergeant>ハリエット・サージェント『上海―魔都100年の興亡』浅沼昭子訳、新潮社、1996年10月。このとき共同租界の防衛委員会は、義勇軍、市参事会会長、警視総監の他に、英、米、日、仏、伊各軍の司令官によって構成されていたが蔡廷鍇の目的は未払いの給与の支払いだけではなく、繁栄を極めていた上海の街を手に入れようとしているというのが全員の意見だった<ref name=Sergeant />。

一方、日本からの十数隻の軍艦来航と日本軍が日本人住民の安全とその財産を守るために、虹口に隣接する中国領を必要に応じて占領する意図の明言についてはその合理性から防衛委員会は問題としなかった。

1月26日には中国当局の戒厳令布告、中国人地区全域に土嚢と有刺鉄線のバリケードの構築、外国人住民に租界内への避難勧告。2日後、上海市参事会の非常事態宣言、上海義勇軍部隊は守備位置についた。共同租界防衛委員会はなおも、蔡廷鍇に最大の脅威を感じ、虹口の防衛を義勇軍の日本人部隊に任せた。

事変の起きる前の日本と列強との関係について、日本側資料では「上海事件の起こる前に於ける日本と各国との関係は、頗る良好にして、即ち居留地外は上海市長呉鉄城の支配権内に在るも、居留地内は工部局行政権を握り、其の執行機関たる参事会員は外人9名支那人5名を以て組織せるものなるが、各国人も予め支那側の横暴なることを熟知し日本に対し同情せり。」としている(昭和7年2月10日の枢密院「上海事件ニ関スル報告会議筆記」(以下「枢密院報告会議」という。)大角海軍大臣発言。原文は句読点及び濁点等なしの片仮名書きであるが、句読点及び濁点等を付し平仮名に改める。また算用数字に改める。以下同じ。))。

ところが、1月9日に「民国日報」という新聞が、前日に発生した桜田門事件に関する不敬記事を掲載し、また1932年1月18日午後4時ころ、中国人と見られる者によって日本人日蓮宗僧侶の天崎天山、水上秀雄と信者3人が三友實業社付近で襲撃され、水上は死亡し、2名が重傷を負った。中国の警察官の到着が遅れたため、犯人は逃亡した(現在ではこの犯行は日本側に雇われた中国人によるものと見なすのが定説である。詳細は上海日本人僧侶襲撃事件を参照のこと)。

これに対し、日本のみならず、工部局も「1月9日の民国日報の不敬記事及同月18日の日蓮宗僧侶等に対する抗日会の暴行事件に付いても、工部局は、民国日報の閉鎖、抗日会の解散を決議」(枢密院報告会議の大角海軍大臣発言)し、日本に同情的であったとされる。

また、日本人居留民がデモを行うとともに、1月20日に一部の日本人青年が三友實業社を襲撃する。1月27日に、上海周辺が騒然とする中で、日本を含む列国は協議を行い、共同租界内を列国で分担して警備することを決め、日本は「約2万7千の在住民を有する」(枢密院報告会議の大角海軍大臣発言)関係上、その最も利害関係ある北四川路及び虹江方面の警備に当ることとなった。日本以外の列国もそれぞれ担当地区の警備に当った。

村井倉松総領事は呉鉄城上海市長に対し事件についての陳謝と加害者処罰及び抗日団体の解散などを要求した。これに対し、上海市長側は回答を延期した上で最終的に日本の要求を受け入れた。ところが、「支那の回答遷延中民情は日に日に悪化し、呉市長が日本の要求を容れたることを聞くや之を憤慨したる多数の学生等は大挙して市役所を襲ひて暴行し、公安隊の巡警は逃亡するの有様にて、支那の避難民は続々として我居留地に入り来り、物情騒然たる」(枢密院報告会議の大角海軍大臣発言)という状況であったとされる。

そのため、工部局は遂に戒厳令を発布し、列国の軍隊は1月28日「午後5時」(枢密院報告会議の大角海軍大臣発言)より各自の担当警備区域に着いた。当時の日本の兵力は「我陸戦隊は当時1000人に過ぎざりしを以て、9時半頃更に軍艦より1700名を上陸せしめ、合計2700名」(枢密院報告会議の大角海軍大臣発言)という状況であった。

軍事衝突

日本側資料によると1月28日午後に「北四川路両側の我警備区域の部署に著かむとする際、突然側面より支那兵の射撃を受け、忽ち90余名の死傷者を出すに到れり。依て直に土嚢鉄条網を以て之に対する防御工事を施せり。元来此等の陸戦隊を配備したるは、学生労働者等、暴民の闖入を防止するが目的にして、警察官援助に過ぎざりき。然るに、翌朝に至り前夜我兵を攻撃したるは、支那の正規兵にして広東の19路軍なること判明せり。」(枢密院報告会議の大角海軍大臣発言)というのが直接の軍事衝突の詳細とされる。

また、「我司令官は陸戦隊の担任区域が支那軍と接するので不慮の衝突を避ける為、陸戦隊を配備に付けるに先ち、閘北方面に集結した支那軍隊の敵対施設を速に撤退することを要望する旨の声明を前以て発表し、且つ之を上海市長等に通告する等慎重周到なる手段を尽くしたのである。更に又陸戦隊の配備に就くに当っては、予め指揮官から「敵が攻撃に出ざる限り我より進んで攻撃行動を執るべからざる」命令をも与えて居るのである。」(昭和7年2月22日に海軍省名で発表された「上海事変と帝国海軍の行動」促音小文字に改める。以下同じ。))としており、日本側の先制攻撃ではないことを強調している。

また、日本側は「十九路軍は南京政府の統制に服するものではない。今回の上海事変は反政府の広東派及び共産党等が第十九路軍を使嗾して惹起せしめたるものと云ふべきである。斯の如く支那特有の内争に基き現政府に服して居らぬ無節制な特種の軍隊が軍紀厳粛なる帝国陸戦隊に対し、国際都市たる上海に於て挑戦し租界の安寧を脅かして居ることは、実に世界の公敵と云ふべきであって、我は決して支那国を敵として戦って居るものではなく、此第十九路軍のやうな公敵に対して自衛手段を採って居るに過ぎない。」(「上海事変と帝国海軍の行動」)として、日本側の正当性を訴えている。

軍事衝突後

1月28日から1月29日にかけての夜に蔡廷鍇が率いる19路軍との間に軍事衝突が起きたため、日本海軍は第3艦隊 (司令長官野村吉三郎中将) の巡洋艦4隻(那智など)、駆逐艦4隻、航空母艦2隻(加賀鳳翔)及び陸戦隊約7000人を上海に派遣することとして、これが1月31日に到着する。更に、日本政府(犬養毅内閣)は2月2日に金沢第9師団師団長植田謙吉陸軍中将)及び混成第24旅団(久留米第12師団の歩兵第24旅団を基幹とする部隊)の派遣を決定した。これに対して、国民党軍は第87師、第88師、税警団、教導団を第5軍(指揮官張治中)として、2月16日に上海の作戦に加わる。

2月18日に第9師団長は、更なる軍事衝突を避けるために、列国租界から蔡廷鍇が率いる19路軍が20キロメートル撤退すべきことを要求したが、蔡廷鍇が率いる19路軍はこれを拒否したため、2月20日に総攻撃を開始した。日華両軍の戦闘は激烈を極め、日本軍は大隊長空閑昇陸軍少佐陸士22期)が重傷を負い中国軍の捕虜となり南京へ連行された。(3月に少佐は日本軍に送還されたが3月28日に戦場跡へ戻り自決)また、混成第24旅団の工兵ら(肉弾三勇士)の戦死などがあった。

2月24日に日本陸軍は善通寺第11師団及び宇都宮第14師団等を以て上海派遣軍司令官白川義則大将参謀長田代皖一郎少将)を編成し上海へ派遣した。3月1日に第11師団が国民党軍の背後に上陸し、蔡廷鍇が率いる19路軍は退却を開始した。

一連の戦闘を通じて、日本側の戦死者は769名、負傷2322名。中国軍の被害は1万4326人であった。36日間の戦争によって上海全市が約15億6千元の損害を被った。中国側住民の死者は6080人、負傷2000人、行方不明1万400人と発表された。

なお、停戦交渉中の4月29日に上海日本人街の虹口公園で行われた天長節祝賀式典に際して、朝鮮人尹奉吉が爆弾を爆発させて白川義則大将、河端貞次上海日本人居留民団行政委員長が死亡し、野村吉三郎中将、植田謙吉中将、村井倉松総領事、重光葵公使らが重傷を負った。(上海天長節爆弾事件

この戦闘は、空母が初めて実戦に参加した戦闘でもあった。

停戦協定

上海戦に対する英米など列強の反応は、満州事変に比べてはるかに強硬であった。これは上海をはじめとする華中における列国の利権が脅かされたためである。日本軍は3月3日に戦闘の中止を宣言した。日中両国、および英米仏伊4カ国による停戦交渉が3月24日から上海で開始された。そして5月5日には、日本軍の撤退および中国軍の駐兵制限区域(浦東・蘇州河南岸)を定めた停戦協定が成立した(上海停戦協定)。

停戦協定によって租界を含む外国人居住地域の北・西・南へ15マイルを非武装地帯とし、この地帯は中国人警察官からなる中国保安隊(平和維持部隊)によって治安維持が行われることとなった。平和維持部隊の武装は最小限のピストルなどに留められた。この協定にはイギリスアメリカ合衆国フランスイタリアの各代表が立会人として署名し、協定の執行と運営を監督する為に日英米仏伊の領事と上海市長からなる国際委員会が設置された。しかし、国際委員会には平和維持部隊を監督する権限がなく、平和維持部隊がどの程度武装しているかは把握できなかった。

この非武装地帯内で起きた大山勇夫海軍中尉(当時)殺害事件を巡って後に第二次上海事変が勃発することとなる。

田中隆吉の証言

1931年9月18日に起きた柳条湖事件を契機として満州を舞台として日華両軍は戦火を交えた(満州事変)が、露骨な侵攻劇は各国からの反発を招いた。柳条湖事件の首謀者板垣征四郎大佐と関東軍高級参謀花谷正少佐らの依頼によって、世界の目を他にそらすために上海公使館陸軍武官補佐官田中隆吉少佐が計画した謀略であったというもの。実行者は憲兵大尉重藤憲史と「東洋のマタ・ハリ川島芳子

田中の愛人であった川島芳子は中国人の殺し屋を雇い、1932年1月18日の夜、上海の馬玉山路を歩いていた日本人僧侶を襲わせた。

中国人が日本人僧侶を殺害したという事件は、日ごろから中国人に反感を抱いていた上海の日本人居留民の怒りを爆発させ、青年団が中国人街に殴り込みをかけ、各所で暴力事件が続発したため、上海の工部局は戒厳令を敷いた。上海の日本人を保護するために派遣されていたのは海軍陸戦隊の約1000人だったが、中国側は3万5千人だった。治安悪化で日本人が不安に駆られる中、田中隆吉の工作による発砲事件が引き金で、1月28日、蔡廷鍇が率いる19路軍と戦火を交えた。

国際都市上海を戦場に変え、世界世論の注目を浴びた戦闘は続き、その間に黒竜江省省長である張景恵らによる東北行政委員会が、満州民族出身の元清朝皇帝愛新覚羅溥儀を執政として3月1日満州国の建国を宣言した。上海事変は満州事変から列強の目を逸らすという目的を達したものといえる。日華両国の停戦協定が成立したのは5月5日のことであった。

脚注

関連項目

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月18日 (木) 09:41。











    
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