愛国社(あいこくしゃ)は、
明治8年(1875年)2月22日、大阪会議に参加した板垣退助が、大阪で旧愛国公党の同志に再結集を呼びかけ創設した。愛国社に参加したのは、西日本の士族層で、これを板垣など高知県の立志社員が中心になって運営にあたった。本社を東京に置き、愛国社に加盟する各地方の政社からは、委員を本社に送って中央と地方での情報収集及び相互連絡に当たることになっていたが、結成後間もなく、板垣が参議に復帰した上、参加者のうち、西南戦争に西郷軍に参加した者も多く、自然消滅した。
西南戦争後、自由民権運動は、武力による専制政府打倒から、言論と大衆組織による運動へと転換することになる。明治11年(1878年)4月に立志社が中心となり、愛国社の再建を決定。9月に石川、愛知、和歌山、愛媛、香川、高知、岡山、鳥取、福岡、佐賀、大分、熊本各県から13社の代表が大阪に集まり愛国社再興会議を開催した。翌明治12年(1879年)11月に開催された第3回大会では、国会開設実現を目標とする全国規模の請願運動を組織することを決定し、こうして愛国社は全国的な国会開設運動の中心となっていった。
こうして、国会開設を目標とする全国運動は、同時にそれまで士族中心だった運動が、新たに豪農豪商を出身の県会議員を指導者が指導する形に転換していった。これに伴い愛国社についても、立志社中心の運営に対する批判が高まり、ついには、明治13年(1880年)3月第4回大会において、愛国社とは別個に国会期成同盟の大会が開会される事態に陥った。この後、愛国社は、旧立志社系統の人々によって継続するが、明治13年11月26日、東京において解散が論議された記録を最後に歴史の舞台から退場した。
昭和3年(1928年)岩田愛之助により創設される。機関紙は「愛国新聞」。中国及び満州に関する問題に積極的関与、各大学で反共産主義右翼学生の組織化を企図した。田中義一内閣打倒や農村での青年に対する実践教育などを行っていたが、一躍、愛国社の名を広めたのは、昭和5年(1930年)ロンドン海軍軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題で、愛国社社員の佐郷屋留雄が東京駅において浜口雄幸首相を狙撃し重傷を負わせた(このときの傷がもとで、浜口は死去)ことによる。後に大日本生産党に参加した。
青年組織として愛国社青年連盟(俗に「愛連」とも「浅草愛連」とも呼んだ)があり戦前はファッショの片棒を担ぎ、戦後も斯界の大物である大沢武三郎団長が反共暴力団として名前を売った。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年9月9日 (火) 04:17。