武藤 章(むとう あきら、Template:和暦?12月15日 - Template:和暦?12月23日)は、昭和の軍人、陸軍中将。東京裁判で唯一中将として絞首刑判決を受けた。
熊本県出身。済々黌中学を経て、Template:和暦?陸軍士官学校(25期)を卒業。富永恭次・佐藤幸徳・山内正文・田中新一・山崎保代らが同期。
Template:和暦?陸軍大学校(32期)卒業。冨永信政、青木重誠、酒井康、中村正雄、酒井直次、西村琢磨、橋本欣五郎らが同期。
Template:和暦?、盧溝橋事件に際して参謀本部作戦課長として対中国強硬政策を主張し、12月には中支那方面軍参謀副長として赴いた。
Template:和暦?に陸軍省軍務局長、Template:和暦?に近衛第2師団長(スマトラ・メダン)、Template:和暦?に第14方面軍(フィリピン)の参謀長に就任した。武藤は参謀として、著名な軍人の下で軍務を尽くしたと言われている。陸軍省軍務局長の時、東條英機との考えの相違により軍中枢から近衛第2師団長に遠ざけられる。東條の失脚後は、第14方面軍司令官に任命された山下奉文の希望により第14方面軍参謀長に任命され、フィリピンの地で終戦を迎えた。東京裁判のため日本に戻された。
戦後、東京裁判で捕虜虐待の罪により死刑判決を受けた。死刑の理由については、陸軍省軍務局長として対米開戦の責任を問われたためか、第14方面軍参謀長としてフィリピンでのアメリカとの戦いの責任を問われたためかで意見が分かれるが、田中隆吉元陸軍少将が「あの男が軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」と証言したことにより死刑判決を受けたとも言われており、東條英機は判決後武藤に「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と意外の感を漏らしたとも言われる。武藤と田中は互いに相手に対して嫌悪感をいだいており、武藤は田中が軍部内の動きを法廷で暴露したことについて、笹川良一に「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と語ったという。
Template:和暦?12月23日に巣鴨プリズンで絞首刑に処された。辞世の句は、
であった。また、次のような詩を書き残している。
Template:和暦?、靖国神社に合祀された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月12日 (木) 02:21。