白鳥 敏夫(しらとり としお、明治20年(1887年)6月8日 - 昭和24年(1949年)6月3日)は大正、昭和期の日本の外交官・政治家。東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。元外務大臣石井菊次郎も叔父にあたる。息子に白鳥正人元北陸財務局長。
千葉県出身。東京・日本中学、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学経済学科卒。
1913年(大正2年)10月に高等文官試験・外交官及び領事官試験に合格し、外務省に入省。1930年(昭和5年)に同省情報部長となり、満州事変当時、内閣書記官長だった森恪や鈴木貞一陸軍中佐(当時)と提携し、事変に対する国際連盟の批判に対抗するための外交政策の代表的役割を果たした。
事変後も、連盟脱退など軍部と連携して英米に対する強硬外交を推進し、そのための世論誘導に努めた。そのため、元々は連盟脱退反対派だった松岡洋右が国際連盟脱退の英雄として扱われるようになったことには、露骨に不快感を表していたという。
以来、皇道精神やアジアモンロー主義を提唱して、国内外で「型破り」といった評価を受けるようになった。 そのことから、1933年(昭和8年)より3年間スカンジナビア四国公使として、ストックホルムに追われる形となったが、その際にも大島浩駐ドイツ陸軍武官と提携して、1936年(昭和11年)の日独防共協定の成立に腐心した。 日本に帰国してからの約2年間は閑職に置かれる状態だったが、日独伊連携強化を主張する若手外務官僚の間では「白鳥を外相にせよ」との声が挙がり、連判状には約50名もの外務省事務官の署名が集まったという。
1938年(昭和13年)に、当時の近衛文麿首相の推薦により駐イタリア特命全権大使に親補されると、大島と連携して日独伊三国同盟の推進を図った。しかし、当時のリッベントロップ外相が「日本との同盟締結があまり難航するなら、ソ連との不可侵条約を結ばざるを得まい」と恫喝まがいの発言をしたことから、白鳥は「独ソ接近の可能性がある」と東京に打電した。ところが、日本政府は白鳥の忠告を聞き入れず、最終的に独ソ不可侵条約が締結された。これにより三国同盟構想は水泡に帰し、白鳥は大使を依願退職した。
1940年(昭和15年)には外務省顧問となり、松岡洋右のブレーンとなった(1941年4月に病気を理由に辞任)。 その後、大政翼賛会総務を経て、1942年(昭和17年)の総選挙で、千葉県から推薦候補として立候補して、衆議院議員に当選。翼賛政治会理事や盟邦同志会会長などを務めた。
太平洋戦争終結後、連合国側よりA級戦犯指定を受け極東国際軍事裁判にて終身禁固刑の判決、服役中に喉頭癌により死去。
1978年(昭和53年)10月17日、靖国神社の合祀祭にて昭和殉難者として合祀される。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月3日 (月) 13:25。