南進論(なんしんろん)とは、日本が南方地域へ進出すべきであるという第二次世界大戦前の対外論である。
古くは明治時代から提唱され台湾領有や第一次世界大戦後の南洋諸島の委任統治の際にも論じられ、特に日中戦争の頃に主唱された。初期の南進論は必ずしも日本による領土拡張や軍事的進出と結びついたものではなかったが、1930年代以降、日本における「自存自衛」理念他国から見るともちろん侵略行為である。また大東亜戦争も危機的な情勢としては日露戦争と同様に生存戦争だが、日本人自身も戦後教育のため、「軍国主義による侵略戦争」として捉えられることが多い。但し、盧溝橋事件後の日中戦争については自他共に認める侵略行為で、結果的に自らの首を絞め、太平洋戦争を起こす要因となった。と結びつき、「武力による南進」が志向されるようになった幕末に佐久間象山などが唱えた攘夷運動(外国の力を取り入れ、日本が植民地になること防ぐという概念)に起源を持つ。日露戦争後、アジアでの影響力を巡り、日本と欧米の対立が強まる中、経済制裁を加えられ、物資が不足すると日本は自国(日本)の維持のため、アジア進出を目指した。。「北守南進論」とも称される。
南進論は田口卯吉・志賀重昂・菅沼貞風などの民間の論客が提唱したもので、自由貿易主義の流れを汲むものとアジア主義の流れを汲むものに大別され、彼らはオセアニアや東南アジア島嶼部への貿易・移民事業を試みた。日清・日露戦争以降、日本の国策の基本は朝鮮・満州・中国大陸など東北アジアへの進出を図る北進論となったため南進論は民間・非主流派の対外政策論にとどまった(日清戦後のフィリピン独立革命(1898年)の際、日本軍が独立派を支援することでこの地に勢力を扶植することが模索されたが、結局は断念された)。
1914年第一次世界大戦参加にともない、日本海軍がドイツ領ミクロネシア(南洋群島)を占領し、戦後この地が日本の委任統治領として事実上の植民地になると、南洋群島は「裏南洋」、すなわち「表南洋」(東南アジア島嶼部)への進出拠点と位置づけられ、一時的な南進ブームが高まった。しかしこの時期の南進論の主流は貿易・投資・移民を軸に平和的な経済進出を唱道するものであった。
1930年代、満州事変以降、英米との関係が悪化して日本の国際的な孤立が進むと、「南進」はその後の国策の有力な選択肢の一つと考えられるようになり、場合によっては武力を伴ってでも実施すべきものであるとされた。
しかし武力南進が実際に国策として決定されたのは1940年のことである。この時日中戦争の泥沼に陥っていた日本は、1940年4月から6月のドイツの電撃戦により東南アジアに植民地を持つオランダ・フランスがドイツに降伏し、イギリスも危機に瀕していたため、このことを利用して東南アジアを自己の勢力を組み込めば危機的状況から脱出できると考え、武力南進を決意したのである。
この武力南進は周到に準備された国策というよりは泥縄式に決められた政策であった。7月27日の大本営・政府連絡会議で、場合によれば武力を行使しても東南アジアに進出することが決められた油井大三郎・古井元夫著、 『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』 中央公論社 1998年 pp.136-137。
日本の武力南進の最初はフランス領インドシナで、当時のインドシナは中国国民政府(蒋介石政権)に対する英米の支援ルートになっており、日本軍はフランスとの合意に基づき1940年9月この地に進駐した(北部仏印進駐)。
南進論を実行した結果、アメリカ合衆国によって石油の全面禁輸に踏み切られて対米戦争に突入し、最終的には敗戦する原因となった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月14日 (金) 11:24。