満蒙開拓移民


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満蒙開拓移民まんもうかいたくいみん)は太平洋戦争下に日本政府の国策によって推進された、大陸の旧満州内蒙古華北に入植した日本人の移民の総称。

概要

1931年満州事変以降に本格化した日本からの満州国への移民は、当時の広田弘毅内閣は1936年に「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画、これを日本政府により推めた。この政策には、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画も打ち出されており、国策に裏打ちされた入植者の大陸への送り込みが図られた。

日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権制海権を失った段階で停止した。

背景

日本の政府により戦前に進められていた、北米アメリカ、南米ブラジルや南米諸国への日本人移民の入植移民数に段階的制限が加えられるようになった。また、昭和恐慌による当時の日本の地方の農村地域は疲弊と困窮をきわめており、窮乏生活を送らざるを得ない農業従事者らの強い移民志向もあったとみられている。

開拓移民団

満州開拓移民は農業従事者を中心に、村落や集落などの地縁関係に重点をおいた移民団が日本の各地で結成された。彼らは農業研修や軍事的な訓練を渡航前に受け、大陸へ「満州開拓武装移民団」として送り込まれた。

満州開拓移民の募集には、『王道楽土』や『五族協和』などをスローガンに喧伝したキャンペーンが大々的に行われ、多くの人々が募集に応じた。

入植

満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず「匪情悪化」を理由に既存の地元農民が開墾している農村や土地を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、政府がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げ、日本人開拓移民を入植させる政策が行われた。およそ2000万ヘクタールの移民用地が強制収容された。

地元農民は自らの耕作地を取り上げられる強制移住に抵抗したため、関東軍が出動することもあった。 「集団部落」は反日組織との接触を断つ為に、地元住民を囲い込む形で建設された。

満州は法律上、日本の本土の延長である「外地」ではなく「外国」であった。移住した日本人開拓団員たちは開拓移民団という日本人社会の中で生活していたことに加え、渡満後もみな満州国籍に変更せず日本国籍のままであった。そのため、「自分たちは住む土地が変わっても日本人」という意識が強く、現地の地元住民たちと交流することはあっても「満州国人」として同化することはなかった。

戦局の悪化による兵力動員で1942年以降は成人男子の入植が困難となり、15歳〜18歳の少年男子で組織された「満蒙開拓青少年義勇軍」が主軸となった。軍事的観点からおもにソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれた。

移住後の問題

地元の住民たちの中には、日本人開拓移民団を自分たちの生活基盤を奪った存在として恨み、敵視する者が少なからずおり、団員との衝突やトラブルに発展するケースも相次ぎ、絶える事がなかった。これらの日本人への反感が、反日組織の拡大につながった。これらは、後のソ連参戦時に拓移民団員が現地民たちに襲撃される伏線ともなってゆく。

開拓団の引揚げ

青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は27万人とも、32万人ともされる。ソ連の参戦でほとんどが国境地帯に取り残され、日本に帰国できたのは11万人あまりだった。

敗戦後の日本の混乱により、開拓移民団を中心とした大陸から帰国した「引揚者」は帰国後の居住のあてもなく、戦後も苦難の生活を余儀なくされた。政府は、彼らに移住用耕地を日本の各地に置くことにしたが、いづれの土地も荒れ 耕作には適さず多くの人々は過酷な状況にさらされた。このような帰国移民向けの移住用耕地を「引揚者村」という。

関連項目

参考文献

  • 藤田繁『草の碑 満蒙開拓団・棄てられた民の記録』能登印刷出版部 1989年1月 ISBN 4890100792
  • 大洞東平『銃を持たされた農民たち 千振開拓団、満州そして那須の62年』築地書館 1995年10月 ISBN 4806767441
  • 二松啓紀『裂かれた大地 京都満州開拓民』京都新聞出版センター 2005年7月 ISBN 4763805584

外部リンク




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年3月4日 (火) 13:48。












     
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