第2次大隈内閣


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{{日本の内閣記事|だい2じ おおくま ないかく|17|大隈重信|Template:和暦?|4月16日|Template:和暦?|10月9日|立憲同志会中正会大隈伯後援会|第12回衆議院議員総選挙|1914年(大正3年)12月25日|http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/17.html|早稲田大学総長}}

概要

第1次山本内閣崩壊後、徳川家達清浦奎吾大命降下されるがいずれも組閣に失敗(鰻香内閣を参照)、元老会議はやむなく1907年(明治40年)の憲政本党の内紛を機に政界を引退していた大隈重信を後継に奏請した。Template:和暦?4月13日に大命降下を受けた大隈は旧憲政本党以来の議員が所属していた立憲同志会中正会から閣僚を入れて組閣を行った。立憲同志会の指導者で大隈と密接な三菱財閥と血縁関係にある加藤高明外務大臣として大隈を補佐した。

第1次世界大戦が勃発すると、ドイツに宣戦を布告した。山東半島南洋諸島からドイツ勢力を駆逐すると、中華民国北京政府に対して対華21ヶ条要求を提出した。北京政府はこれを認めたものの、これを内外の情勢に配慮しない加藤外相の独走と見た元老西園寺公望らからは不興を買った。

その後、元老山縣有朋との約束である2個師団増設問題の解決に務めるものの、衆議院第1党である立憲政友会が強く反対した。このため、衆議院解散を行って第12回衆議院議員総選挙に臨んだが、その際山縣系官僚出身の大浦兼武内務大臣が大規模な選挙干渉を行った。このため、与党側は勝利して立憲同志会が第1党になったものの、選挙後に内外の批判を浴びて大浦内相は辞任、大隈も加藤外相の助言により1915年(大正4年)7月31日内閣総辞職を決定する。だが、大正天皇即位式を目前に控えた時期の総辞職には元老などから異論が出て、加藤高明・若槻禮次郎ら総辞職派の閣僚を更迭して同年8月10日内閣改造を行った。だが、即位式と2個師団増設法案の審議が終わると、予算案を巡って内閣と貴族院との対立が激化するとともに、元老はこれ以上の大隈続投は好まず、内閣は総辞職するに至った。その際、大隈は加藤高明を、元老会議は寺内正毅朝鮮総督を奏請するが、大正天皇は後者に組閣を命じることにしたのである。

国務大臣

加藤高明(1914年(大正3年)4月16日 - 1915年(大正4年)8月10日
大隈重信(兼任)(1915年(大正4年)8月10日 - 同年10月13日
石井菊次郎(1915年(大正4年)10月13日 - 1916年(大正5年)10月9日)
大隈重信(兼任)(1914年(大正3年)4月16日 - 1915年(大正4年)1月9日
大浦兼武(1915年(大正4年)1月9日 - 同年7月30日)
大隈重信(兼任)(1915年(大正4年)7月30日 - 同年8月10日)
一木喜徳郎(1915年(大正4年)8月10日 - 1916年(大正5年)10月9日)
若槻禮次郎(1914年(大正3年)4月16日 - 1915年(大正4年)8月10日)
武富時敏(1915年(大正4年)8月10日 - 1916年(大正5年)10月9日)
岡市之助(1914年(大正3年)4月16日 - 1916年(大正5年)3月30日)
大島健一(1916年(大正5年)3月30日 - 1916年(大正5年)10月9日)
八代六郎(1914年(大正3年)4月16日 - 1915年(大正4年)8月10日)
加藤友三郎(1915年(大正4年)8月10日 - 1916年(大正5年)10月9日)
一木喜徳郎(1914年(大正3年)4月16日 - 1915年(大正4年)8月10日)
高田早苗(1915年(大正4年)8月10日 - 1916年(大正5年)10月9日)
大浦兼武(1914年(大正3年)4月16日 - 1915年(大正4年)1月7日)
河野廣中(1915年(大正4年)1月7日 - 1916年(大正5年)10月9日)
武富時敏(1914年(大正3年)4月16日 - 1915年(大正4年)8月10日)
箕浦勝人(1915年(大正4年)8月10日 - 1916年(大正5年)10月9日)

参政官

1914年(大正3年)10月6日新設。

外部リンク




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 14:27。












     
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