台湾抗日運動


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台湾抗日戦争(たいわんこうにちせんそう)とは、1895年の乙未戦争を基点とし、「西来庵事件(タパニー事件)」終息までの約二十年にわたって継続した台湾人による日本植民地支配への武力闘争の中国における呼び名。

概要

台湾民主国

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1895年に日清戦争の敗北が決定的になった朝は、戦争の早期講和を目指して同年4月17日に日本と下関条約を締結し、その際に日本が求めた台湾地域(台湾島と澎湖諸島)の割譲を承認した。

しかし台湾に住む清朝の役人と中国系移民の一部が清朝の判断に反発して同年5月25日台湾民主国」を建国、丘逢甲を義勇軍の指揮官とし日本の接収に抵抗した。しかし日本軍が台北への進軍を開始すると、傭兵を主体として組織された台湾民主国軍は間もなく瓦解、台南では劉永福が軍民を指揮、また各地の民衆も義勇軍を組織して抵抗を継続したが、同年6月下旬、日本軍が南下、圧倒的な兵力・武器の差の前に敗退した。10月下旬に劉永福が大陸に逃亡、日本軍が台南を占領したことで台湾民主国は崩壊した。台湾軍民で戦死又は殺害された者は14,000人(『台湾史小事典』)に及んだ。

抗日運動

台湾民主国の崩壊後、台湾総督樺山資紀1895年11月8日東京の大本営に対し台湾全島の鎮圧を報告、日本による台湾統治が開始された。しかし12月には台湾北部で清朝の郷勇が台湾民主国の延長としての抗日運動を開始した。1902年になると漢人による抗日運動は制圧され、民間が所有する武器は没収された。これらの抗日運動で戦死又は逮捕殺害された者は1万人余り(『図解台湾史』)との説もある。

この時期の総統である児玉源太郎は鎮圧を前面に出した高圧的な統治と、民生政策を充実させる硬軟折衷を政策を実施し、一般民衆は抗日活動を傍観するに留まった王育徳 『苦悶的歴史』、1979年。日本統治前期の抗日活動は台湾を制圧し清朝への帰属を目指すものであり、台湾人としての民族自覚より清朝との関係の中で発生した武装闘争であると言える。

一旦は平定された抗日武装運動であるが、1907年北埔事件が発生すると1915年西来庵事件までの間に13件の抗日武装運動が発生した。規模としては最後の西来庵事件以外は小規模、または蜂起以前に逮捕されている。そのうち11件は1911年辛亥革命の後に発生し、そのうち辛亥革命の影響を強く受けた抗日運動もあり、4件の事件では中国に帰属すると宣言している。また自ら皇帝を称するなど台湾王朝の建国を目指したものが6件あった。

霧社事件

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後期の抗日運動の中で大規模なものとして霧社事件がある。これは1930年10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投件仁愛郷)でサイディック族の大頭目莫那魯道が6部落の300余人の族人を率いた反日武装事件であり、小学校で開催されていた運動会会場に乱入し日本人約140人を殺害した。事件発生後総督府は原住民への討伐を決定、軍隊出動による討伐作戦を2ヶ月にわたって展開し、対立部族の協力も得た鎮圧作戦の結果700人ほどの抗日サイディック族が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。その後生き残った約300人は川中島に移され、霧社タイヤル族は消滅した。

霧社事件鎮圧以降、組織的な武装運動は影を潜め、日本側から見れば植民地支配が軌道に乗ったということになる。 またこの間を通して、台湾人指導者の再三の懇請にも関わらず大陸の中国人ははっきりとした支援を行わず、かつての「トカゲの尻尾切り的な」一方的な割譲とあわせて、「大陸は台湾を軽視している」という印象を台湾人に与えた。この事は、台湾人が大陸側の漢民族について、同胞ではありながらも距離感のある、微妙な感情を抱かせる契機ともなり、はては現在の台中関係にも影響を及ぼすことになった。



関連項目




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月21日 (金) 08:54。












     
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