人民戦線事件(じんみんせんせんじけん)とは、1937年12月15日、コミンテルンの反ファシズム統一戦線の呼びかけに呼応して日本で人民戦線の結成を企てたとして労農派系の大学教授・学者グループが一斉検挙された事件。
労農派は大森義太郎や向坂逸郎などのようにコミンテルンとも関係していたのは事実であったがTemplate:要出典?、共産党のような明確な証拠は不十分であった。が、その思想的な影響力は共産党を遙かに凌駕するものとなったために政府としては検挙することとした。第一次検挙では、代議士の加藤勘十・黒田寿男(ひさお)、運動家の山川均・荒畑寒村・鈴木茂三郎・岡田宗司・向坂逸郎・大森義太郎など446人が検挙された。1938年2月1日の第二次検挙で、大内兵衛・有沢広巳・脇村義太郎・宇野弘蔵・美濃部亮吉や佐々木更三・江田三郎など大学教授・運動家を中心に38人が検挙された。いずれも「国体変革」「私有財産否定」を目的としたとして治安維持法で起訴され、多く(第二次検挙で逮捕された教授グループは全員)は、1944年9月2日の二審で無罪が確定したが、加藤・鈴木・山川らは有罪とされた。戦後、1945年に免訴となる。
この事件を機に、日本共産党に限定されていた検挙が、マルキスト・社会主義者一般に及ぶようになり、日本での社会主義革命運動の主力はその後、司法省・内務省の管轄外にある陸軍の革新将校が中核となっていった。
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