五代 友厚(ごだい ともあつ、天保6年12月26日(1836年2月12日) - 明治18年(1885年)9月25日)は、江戸末期の武士・薩摩藩士、明治期の実業家。薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷(鹿児島城下、現鹿児島市長田町)生まれ。幼名は徳助。通称才助。関西経済界の重鎮。「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。東の渋沢栄一、西の五代友厚とも称される。
『三国名勝図会』の執筆責任者で記録奉行の五代直左衛門秀尭の子として生まれ、後に分家する。薩摩藩藩士として長崎海軍伝習所に学ぶ。海外視察のため上海に密航もした。このために、藩からは脱藩の罪に問われるが、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって罪を許された。欧州視察後、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件などの外交処理にあたった。また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致した。初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開けた。
明治2年(1869年)の退官後、金銀分析所などを設立し、鉱山経営、紡績、製藍業などをはじめ実業家として道を歩む。薩長藩閥政府との結びつきが強く、明治8年(1875年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件(参照:明治十四年の政変)にも関わり、政商といわれた。
大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所、初代会頭は五代友厚)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学、天王寺商業高等学校)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などの設立に関わった。
鹿児島市泉町(泉公園内)、大阪市中央区の大阪証券取引所前、大阪商工会議所前に銅像が建立されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月15日 (土) 10:06。