南京安全区国際委員会


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

南京安全区国際委員会(なんきんあんぜんくこくさいいいんかい、The International Committee for Nanking Safety Zone)とは、日中戦争初期の南京攻略戦に際し、市外に避難できなかった中国市民を、南京城内の一部を安全区として保護するために設けられた委員会。第二次上海事変に際して南市に設立された安全区を手本に、南京に残留した欧米人が中心となって結成された。

略歴

  • 1937年11月17日 ベイツ、スマイス、ミルズの3人は、アメリカ大使館員ウイリヤ・R・ペックに、南京に安全区を設置する計画を説明し、中華民国・日本両政府に認知させるための仲介役を依頼する。同日、ミニー・ボートリンからも、同趣旨の手紙を受け取る。このことを受け、ペックは、国民政府立法院委員長・孫科、抗戦最高統帥部第二部長・張群、南京市長・馬超俊らに非公式に伝えた。
  • 11月22日 南京安全区国際委員会が結成される。委員長は、ジーメンス南京支社の総責任者であるジョン・H・D・ラーベが就く。
  • 12月8日 『告南京市民書』を配布し、安全区への市民の避難を呼びかける。
  • 12月13日 南京陥落

安全区

南京における安全区は南京城内の北西部に設置された。面積は3.8平方キロメートルで、城内全域と比べたなら8%程度の広さにあたる。安全区は何本かの通りに囲まれており、およそ六角形をしていた。その境界は各地に設置された標識によって明示された。丘陵地帯が接している南西側は山の稜線が境界とされた。

この地域は高級住宅街であり、本来の住民の一部はすでに市外への避難を済ませていた。また公共の建物が多かったことも難民の収容に向いていた。何より国際委員会のメンバーの居宅があるなど、彼らのホームグラウンドであった。中国軍の施設や陣地からも離れていたが、予定していた地域内の南西の山に陣地が設けられたため、陣地と隣接することになった。

この安全区内には難民のキャンプが多数成立し人口密集地となった。日本軍による市内占領の後も、外部と比較すれば治安が良い状況にあったと思われたため、民間人が大量に流入してきた。安全区の人口は最大で25万人程度とされる。また、民間人から購入したり盗んだりした民服(便衣)に着替えた敗残兵までが安全区に逃げ込み、民間人と入り混じる結果となった。

メンバー

マイナー・シール・ベイツ(Miner Searle Bates)
金陵大学歴史学教授。
ジョージ・アシュモア・フィッチ(George Ashmore Fitch)
委員名簿に名前は載っていないが、安全区の管理責任者として活動した。
アーネスト・H・フォースター(Ernest H. Forster)
アメリカ聖公会伝道団宣教師。
ジェームズ・H・マッカラム(James H. McCallum)
連合キリスト教伝道団宣教師。
ジョン・マギー(John Magee)
アメリカ聖公会伝道団宣教師。16ミリフィルムによる「日本軍の暴行の跡とされる負傷者や虐殺死体」などの映像を残した。
ジョン・H・D・ラーベ(John H. D. Rabe)
委員長。ジーメンス社南京支社の総責任者。ナチス党員。1938年2月28日に南京を去りドイツに帰国するが、日本軍の暴虐を止めるよう訴えたことが当時の党の政策に反し、党の監視下に置かれる。
ルイス・S・C・スマイス(Lewis S. C. Smythe)
書記。金陵大学社会学教授。南京戦およびその後の暴行による被害状況を調査し、『南京地区における戦争被害』としてまとめた。
エドワルト・スペルリング(Eduard Sperling)
ドイツ資本による上海保険公司の支店長。「日本兵の暴行を体を張って阻止した」と伝えられる。
ミニー・ヴォートリン(Minnie Vautrin)
金陵女子文理学院教授。宣教師。学院に婦女子のためのキャンプを開設し、その責任者として強姦や拉致から大勢の女性を保護した。
ロバート・O・ウィルソン(Robert O. Wilson)
金陵大学付属病院(鼓楼病院)医師。続々と病院に運び込まれる負傷者の治療にあたった。



  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月24日 (日) 03:35。










    
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。