米内内閣


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

{{日本の内閣記事|よない ないかく|37|米内光政|Template:和暦?|1月16日|同年|7月22日|官僚・軍人が中心。|なし|なし|http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/37.html|海軍大将}}

概要

前の阿部内閣が総辞職した後、新内閣の首相には当初陸軍大臣畑俊六が噂されていた。しかし、昭和天皇が当時の日独伊三国同盟締結を求める風潮を憂慮したために、海軍良識派である海軍大将の米内光政に組閣の大命が降下された。米内は組閣と同時に自ら現役を退き予備役となるが、親英米派で日独伊三国同盟反対論者だったこと、近衛文麿らによる新体制運動にも冷淡な姿勢を貫いたこと等により陸軍や親軍的な世論から不評を買う。米内内閣成立後の斎藤隆夫立憲民政党)による反軍演説も陸軍の反発を招いた。

組閣から半年後の1940年(昭和15年)6月、フランスドイツナチス・ドイツ)に降伏すると、独伊への接近を企図し、近衛文麿を中心とする新体制に期待して倒閣の機会を窺っていた陸軍は、その目的を達すべく、畑俊六陸相を単独辞職させる敗戦後の東京裁判においてA級戦犯被告となった畑はこのことを厳しく問われることになる。。米内は後任の陸相を求めたが陸軍が推挙しなかったため、軍部大臣現役武官制により、総辞職に追い込まれた。

昭和天皇は米内内閣総辞職について「もし米内内閣があのまま続いていたなら戦争(対米戦争)にはならなかったろうに」と、後年まで悔いていたという。

閣僚

米内光政(予備役海軍大将):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
有田八郎(貴族院所属:昭和研究会):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
児玉秀雄(貴族院所属:昭和研究会):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
桜内幸雄立憲民政党):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
畑俊六(軍人:陸軍大将)(阿部内閣から留任):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
吉田善吾(軍人:海軍中将)(阿部内閣から留任):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
木村尚達(官僚:司法省):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
松浦鎮次郎(官僚:文部省):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
島田俊雄立憲政友会革新派):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
藤原銀次郎(民間・投資家・王子製紙社長):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
勝正憲立憲民政党(元大蔵官僚)):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
松野鶴平立憲政友会正統派):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
小磯国昭(予備役陸軍大将):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
吉田茂(官僚:内務省→貴族院所属):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
石渡荘太郎(官僚:大蔵省):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日
広瀬久忠(貴族院所属:昭和研究会):1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日

政務次官

Template:節stub?

注釈

Template:脚注ヘルプ? Template:reflist?

外部リンク



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月18日 (火) 01:34。












     
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。