西郷隆盛-3

前半は、西郷隆盛及び西郷隆盛-2参照


人物評

  • 愛称
    「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。西郷に対し、最も敬意を示す表現法は南洲翁である。
  • 肥大
    「先生の肥大は、始めからぢや無い。何でも大島で幽閉されて居られてからだとのことぢや。戦争に行つても、馬は乗りつぶすので、馬には乗られなかったぢや。長い旅行をすると、股摺(またず)れが出来る。少し長道をして帰られて、掾(えん)などに上るときは、パァ々々云つて這(は)つて上られる態が、今でも見える様ぢや。斯んなに肥つて居られるで、着物を着ても、身幅が合わんので、能く無恰好な奴を出すので大笑ぢやつた。」『西南記伝』引高島鞆之助実話。高島は元陸軍中将、枢密院顧問官。西南戦争時は別動第一旅団長
  • 「うーとん」「うどめ」などの徒名の由来
    「うどめ」とは「巨目」という意味である。西郷は肖像画にもあるように、目が大きく、しかも黒目がちであった。その眼光と黒目がちの巨目でジロッと見られると、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという。そのうえ、異様な威厳があって、参議でも両手を畳について話し、目を見ながら話をする者がなかったと、長庶子の西郷菊次郎が語り残している。その最も特徴的な巨目を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう。
  • 沖永良部島の「社倉」のその後
    沖永良部島は台風・日照りなど自然災害が多いところであったが絶海の孤島だったので、災害が起きたときは自力で立ち直る以外に方法がなかった。そのことを知った西郷は「社倉趣意書」を書いて義兄弟になっていた間切横目(巡査のような役)の土持政照に与えた。社倉はもともと朱熹の建議で始められたもので、飢饉などに備えて村民が穀物や金などを備蓄し、相互共済するもので、江戸時代には山崎闇斎がこの制度の普及に努めて農村で広く行われていた。若い頃から朱子学を学び、また郡方であった西郷は職務からして、この制度に詳しかったのであろう。この西郷の「社倉趣意書」は土持が与人となった後の明治3年(1870年)に実行にうつされ、沖永良部社倉が作られた。この社倉は明治32年(1899年)に解散するまで続けられたが、明治中期には20,000円もの余剰金が出るほどになったという。この間、飢饉時の救恤(きゅうじゅつ)の外に、貧窮者の援助、病院の建設、学資の援助など、島内の多くの人々の役にたった。解散時には西郷の記念碑と土持の彰徳碑、及び「南洲文庫」の費用に一部を充てた外は和泊村と知名村で2分し、両村の基金となった。
  • 猟好きと猟犬
    西郷は狩猟も漁(すなどり)も好きで、暇な時はこれらを楽しんでいる。自ら投げ網で魚をとるのは薩摩の下級武士の生活を支える手段の一つであるので、少年時代からやっていた。狩猟で山野を駆けめぐるのは肥満の治療にもなるので晩年まで最も好んだ趣味でもあった。西南戦争の最中でも行っていたほどであり、その傾倒ぶりが推察される。したがって猟犬を非常に大切にした。東京に住んでいた時分は自宅に犬を数十頭飼育し、家の中は荒れ放題だったという。
  • マキャベリストとしての評価
    敬天愛人の体現者としての評価とは別に冷酷なマキャベリストしての評価も存在する。幕府を挑発するために不逞浪士に江戸市中で乱暴狼藉を行わせたり、官軍のために貢献した赤報隊を偽官軍として処断するなど道義に反する行いも数々している。だが、己の保身や栄達のために策を講じたことはないとされ、このことが後の西郷の高い人格的評価の源泉となっている。その一方、維新後は政治的な策略や欺瞞を一切行わなくなった。だが皮肉なことにこのことが結果的に西郷を政治的な隠遁に追い込む遠因となった。

肖像

大久保ら維新の立役者の絵が多数残っている中、西郷は自分の写真が無いと明治天皇に明言している。事実、西郷の顔写真は一切残っていない。

死後に西郷の顔だと言われる肖像画が多数描かれているが、基となった1枚の絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、弟・従道の目元に、がっしりしていた従弟・大山巌の顔つきを合成したものであり、キヨッソーネは西郷との面識が一切無かったことから、実際の彼の顔とは異なり細い顔であるという可能性もある。西郷の顔を記憶している人間が当時は多数生きており、特に似ていないとの異論も出ていないので基本的にはキヨッソーネの肖像画は似ているものと思われる。ただし、実際の西郷の耳は耳たぶが垂れたいわゆる福耳ではなく、平耳であったことが近年の研究で明らかにされている。実際の西郷にあって描かれた肖像画のいくつかは、明らかに平耳で描かれている。

寺田屋事件が起こった旅籠寺田屋にて西郷や明治天皇が坂本龍馬や桂小五郎らと写っていると称されている写真(フルベッキが佐賀藩致遠館の学生たちと撮影した写真)があるが、甚だ疑わしい。高値で売り込む人物が現在でもいるので、要注意である。フルベッキの写真は撮影されたのが慶応2、3年と特定されているが(明治初年の説もある)、比定された西郷ら明治維新の元勲がこの時期に一堂に会したことは史料的にも有り得ぬし、西郷本人に限っても、既に肥満体になっていたのに、頬骨が出、普通の身躯をしているなど疑問点だらけで、副島種臣とフルベッキ、さらに無名の佐賀士族の若者たちを写した写真を元勲たちの写真とこじつけたにすぎない。

銅像

肖像画を基に東京都台東区上野上野公園高村光雲作(傍らの犬は後藤貞行作)の銅像が建設された。銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている<ref name="kabayama">樺山愛輔『父、樺山資紀』、伝記叢書44、大空社、昭和63年。公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んし(うちの主人)はこげんなお人じゃなかったこてえ(あら、こんな人ではなかったですよ)」と腰を抜かし(この発言を銅像の顔が本人に似てない事と解釈する説もある)、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(鹿児島弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。この糸子の言をも樺山愛輔は「大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出来たらうが、…」<ref name="kabayama"/>と解釈している。

上野の西郷像は糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、兎狩りをしている姿である。この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した<ref name="kabayama"/>。連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。

一方、鹿児島市の城山公園に立つ、郷土の彫刻家安藤照作による銅像は軍装(陸軍大将)である。

昭和50年代に鹿児島県下で小学生に無料配布されていた西郷隆盛の伝記を簡単にまとめた読本『西郷隆盛』で未亡人の言葉は、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説されている。今日では想像しにくいが、銅像を造って故人を顕彰するという西洋伝来の新しい文化がようやく定着した時期であり、その多くが正装したり威厳に満ちたものであったのに対し、西郷の銅像は明治維新の元勲のものとしては、あまりに庶民的に過ぎるものである。一時は朝敵とされた西郷の名誉回復の場でもあった銅像序幕で、予想とあまりにかけ離れた服装の銅像に対する驚きと落胆の気持ちの反映であった。本来は皇居内に立てる案もあった西郷像は、西南戦争で朝敵となったことで反対する意見も根強かったという経緯も無視できない。上記大山巖の言い分も、まだ西郷に対する反感を持つ政治家も多かった時代、明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景にあったと考えられる。時代が下って鹿児島県の城山公園に建てられた銅像が、陸軍大将の正装で直立不動の姿勢であるのは、西郷の名誉回復という観点からすれば、未亡人が本来期待した銅像の姿に近いといえよう。

伝説・風聞

  • 西郷星の出現
  • 西南戦争後も西郷は生存
    西南戦争後も西郷は中国大陸に逃れて生存しているという風聞が広まっていた。1891年にロシア皇太子時代のニコライ2世が来日し、鹿児島へも立ち寄ると、西郷が皇太子と共に帰国するという風説もあった。西南戦争に下士官として従軍し、大津事件を起こした津田三蔵は、これを真に受け凶行に及んだといわれている。
  • 台湾に西郷の子孫あり
    1851年(嘉永4年)、薩摩藩主島津斉彬の台湾偵察の密命を受け、若き日の西郷隆盛は、台湾北部基隆から小さな漁村であった宜蘭県蘇澳鎮南方澳に密かに上陸、そこで琉球人を装って暮らした。およそ半年で西郷は鹿児島に帰るが、南方澳で西郷の世話をして懇ろの仲になっていた娘が程なく男児を出産した。この西郷の血筋は孫の代で絶えたという。

その他

  • 幼少期、近所に使いで水瓶(豆腐と言う説もある)を持って歩いている時に、物陰に隠れていた悪童に驚かされた時、西郷は水瓶を地面に置いた上で、心底、驚いた表現をして、その後何事も無かったかのように水瓶を運んで行った。
  • 身長:182cm、体重:114kgこの当時、薩摩沖では鰯、秋刀魚が豊漁で、薩摩人は栄養状態がよく体格は当時の日本人の平均を大きく凌駕していた。盟友大久保も身長178cmあった。平均身長が155cmだった当時の常識からは西郷はまさに雲を突く巨漢であった。。血液型B型。喫煙者であるが酒は弱く下戸であった。
  • 青年壮年期においては妻のほか愛人を囲うなど享楽的な側面も見せたが、晩年は禁欲的な態度に徹した。
  • 西郷隆盛が士族兵制論者か徴兵制支持者なのか、当時の政府関係者ですら意見が分かれており、谷干城鳥尾小弥太は前者を、平田東助は後者であったとする見解を採っている。御親兵導入の経緯などからすれば、士族兵制論者と見るのが妥当であるが、山縣有朋の失脚後も西郷は山縣の徴兵制構想をそのまま継続させたことから、親兵・近衛を通じて形成された山縣に対する西郷の個人的信頼から徴兵令実施を受け入れたと考えられている。ちなみに廃藩置県導入の際に西郷を最終的に同意させたのも山縣であった。
  • 没年月日(1877年9月24日)がグレゴリオ暦なので、一部の西郷研究者からは生年月日も天保暦からグレゴリオ暦に直して1828年1月23日にすべきだと言う声も上がっている。
  • 郷土の名物、黒豚の肉が大好物だったが、特に好んでいたのが今風でいう肉入り野菜炒めと豚骨と呼ばれる鹿児島の郷土料理であったことが、愛加那の子孫によって『鹿児島の郷土料理』という書籍に載せられている。

脚注

主な参考文献

<注>西郷隆盛に関係する文献は膨大な数にのぼります。以下にあげたものには、当然に基本文献はあげていますが、それ以外は、本稿を書くに当たって、なんらかの論拠にしたものだけに限定しています。

資料・研究書・論文等

  • 「花房外務大丞外数名差遣」(『太政類典・第二編・明治四年~明治十年』第90巻、明治5年8月18日の条、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01000019400、国立公文書館
  • 「行在所達第四号」(『太政官布告 陸軍省達 総督本営』明治10年2月25日の条、作成者: 太政官、太政大臣三條實美、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04017622000、国立公文書館
  • 福沢諭吉丁丑公論』、1877年 (復刻版、『福澤諭吉著作集』第9 巻、慶應義塾大学出版会、2002年、ISBN 4-7664-0885-3;『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』講談社学術文庫、1985年、ISBN 4-06-158675-0)
  • 勝海舟『氷川清話』(復刻版、江藤淳松浦玲編、講談社学術文庫、2000年、ISBN 4-06-159463-X)
  • 三矢藤太郎編『南洲翁遺訓』、鶴岡町 (山形県)、1890年(復刻版、『西郷南洲遺訓』、山田済斎編、岩波文庫、1939年、ISBN 4-00-331011-X)
  • 日本黒龍会編『西南記伝』、日本黒龍会、1911年
  • 加治木常樹『薩南血涙史』、1912年(復刻版、青潮社、1988年)
  • 日本史籍協会編『西郷隆盛文書』、1923年(原本は島津家臨時編輯所編『西郷隆盛書翰集』、作成年不明)
  • 大西郷全集刊行会編『大西郷全集』、大西郷全集刊行会、1926年
  • 香春建一『大西郷突囲戦史』、改造社、1937年
  • 香春建一『西郷臨末記』、改造社、1937年
  • 竹内才次郎『西南役前後の思出の記』、自家出版非売品、1937年
  • 下田一喜編『西南役側面史』、西南戦争六十年会、1938年
  • 大久保利謙等編『鹿児島県史』、鹿児島県、1941年
  • 大山柏『戊辰役戦史』、時事通信社、1968年12月1日
  • 西郷吉之助編『西郷南洲史料』、東西文化調査会、1969年
  • 西郷隆盛全集編集委員会編『西郷隆盛全集』、大和書房、1979年
  • 鹿児島県維新史料編纂所編『鹿児島県史料 忠義公史料』第7巻、、一五二文書、1980年
  • 風間三郎編『西南戦争従軍記』、南方新社、1999年
  • 東郷実晴「村田新八と宇留満乃日記」(『敬天愛人』第4号、西郷南洲顕彰会 )
  • 山田尚二「村田新八の喜界島遠島」(『敬天愛人』第4号、西郷南洲顕彰会 )
  • 中井平一郎「西南役と延岡」(『敬天愛人』第6号、西郷南洲顕彰会)
  • 東郷實晴「西南戦争と県令岩村通俊」(『敬天愛人』第6号、西郷南洲顕彰会)
  • 芳即正「県令大山綱良と私学校」(『敬天愛人』第8号、西郷南洲顕彰会)
  • 山田尚二「詳説西郷隆盛年譜」(『敬天愛人』第10号特別号、西郷南洲顕彰会)
  • 山田尚二「西南戦争年譜」(『敬天愛人』第15号、西郷南洲顕彰会)
  • 塩満郁夫「鹿児島籠城記」(『敬天愛人』第15号、西郷南洲顕彰会)
  • 吉満庄司「西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について」(『敬天愛人』第20号、西郷南洲顕彰会)
  • 塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言前巻」(『敬天愛人』第20号、西郷南洲顕彰会)
  • 塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言後巻」(『敬天愛人』第21号、西郷南洲顕彰会)
  • 平田信芳「島津応吉邸門前」(『敬天愛人』第21号、西郷南洲顕彰会)
  • 和田義人、篠永哲、中生男『ハエ・蚊とその駆除』、財団法人 日本環境衛生センター、1990年2月20日、ISBN 4-88893-058-9。

評論・小説等

演じた俳優

関連項目

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外部リンク


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月23日 (水) 11:18。












     

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最終更新:2008年09月21日 00:26
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