1945年(昭和20年)10月5日に内閣総辞職し、次の幣原内閣が発足するまで、職務を執行した。
東久邇宮内閣は、前の鈴木貫太郎内閣の総辞職を受けて、皇族かつ現役陸軍大将である東久邇宮稔彦王が組閣した内閣である。
前の鈴木内閣は、発足当初より終戦内閣として組閣されていたため、終戦の詔書を発して間もない1945年(昭和20年)8月17日に内閣総辞職した。後任人事については、敗戦処理という困難な仕事を遂行するため、強力な権威と実行力を必要とした。これまで何度か、国民及び軍人を強力に統制するため、皇族であり現役の軍人であった稔彦王の首相待望論が持ち出されてきたが、その都度、内大臣木戸幸一の反対により阻止されてきた(東條内閣を参照。)。しかし、こと終戦にいたって、軍の暴走(特に、陸軍の中堅幹部)を抑えて政府秩序を再構築し、国民を統合して荒廃した国土を復興するためには、皇族が政府の先頭に立って、政治を行うしかないと考えられた。また、戦争にも負けたことで、これ以上国家の事態が悪化するようなこともなかろうという読みからも、皇族を政治に立てやすかったといえる。
当初、次期首相に推挙された稔彦王は、皇族かつ軍人であるがゆえに、これまで政治に近づくことを禁じられ、政治経験もないことを理由として、就任を拒んだ。しかし、時局の説明を受けて就任を承諾し、戦前から親交のあった近衛文麿を相談相手とすることで政治面の補佐を受けることになる。就任後の記者会見で、「全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」という、いわゆる「一億総懺悔」発言を行う。この「一億総懺悔」と「国体護持」を敗戦処理と戦後復興に向けた二大方針とした。
東久邇宮内閣は、省庁再編、軍の武装解除、連合国軍の進駐、降伏文書調印など、次々と重要課題を処理していくことが求められ、いまだ体制の整わない連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からの指令にも対応していった。このような中で、GHQから1945年(昭和20年)10月4日に伝えられた指令、いわゆる「自由の指令」(「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」、人権指令。)への対処が問題となった。この指令は、人権確保のため、治安維持法、宗教団体法などの廃止や政治犯・思想犯の釈放、特別高等警察(特高警察)の解体や内務大臣ら内務省幹部の罷免などを内容とした。東久邇宮内閣はこの指令の実行をためらい、内閣総辞職に至った。
1945年(昭和20年)8月17日 - 同年8月26日
1945年(昭和20年)8月26日 - 同年10月9日
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月19日 (水) 18:15。