105人事件


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105人事件(105人じけん)とは、1910年8月の日本の韓国併合後まもない時期に「発生」した、「寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件」・「宣川事件」・「朝鮮陰謀事件」ともいう事件である。

1910年9月30日に日本の一地方となった「朝鮮」での統治を行なう機関として設置された朝鮮総督府の筆頭である朝鮮総督に翌日の10月1日に就任した寺内は、朝鮮において憲兵警察制度の実施に象徴される「武断統治」を行なった。寺内は1910年12月、朝鮮北西部の平壌宣川新義州などを視察したが、その間に朝鮮人が何度か彼の暗殺を試みたものの、いずれも失敗に終わったという噂が、1911年になって広まった。それをうけて、朝鮮総督府は、同年9月までに約700人の朝鮮人を逮捕し、証拠不十分で釈放された人たち以外の122人への裁判が翌1912年に始まった。そして、朝鮮総督府や朝鮮語紙『毎日申報』、日本語紙『京城日報』、英字紙『Seoul Press』といった総督府系の報道機関は、逮捕者の多くがキリスト教徒だったことから在朝米国人宣教師(特に長老教)が彼らの背後で扇動したのではと疑った。一方、米国政府やニューヨークに本部があった長老教教会は、「事件」との関わりを否定し、逆に朝鮮総督府が自白を得るために逮捕者を拷問しているのではと疑った。

1912年になると、在朝米国人宣教師と寺内との会見、長老教教会および三人の上院議員などによる駐米日本大使館との折衝(その際に、かつて米国にも留学した「首謀者」尹致昊への善処を求める嘆願がなされた)などによる「事件」解決、日米関係打開のための動きがみられた。そして、当時の京城(現在のソウル)地方法院(裁判所)は同年9月28日、前述の122人の中で17人だけを無罪とする一方、のこりの105人に懲役刑を言い渡した(「105人事件」というよび方は、ここからくる)。その後の控訴審では1913年10月、105人の中で99人が無罪を言い渡された一方、尹致昊などの6人は懲役刑が確定したが、その6人も1915年2月、大正天皇の即位式にちなんだ恩赦によって釈放された。

こうして、「105人事件」は一応決着し、尹致昊はこれ以降、日本の朝鮮統治を容認し、結局は「親日派」へとなっていく。また、実際には寺内に対する暗殺計画・企図はなく、「105人事件」は日本側による捏造だったともされる中、朝鮮総督府は、韓国併合後も存続していた秘密結社の新民会(シンミンフェ、尹致昊が会長だった)を事実上壊滅させて、日本の朝鮮統治の威力を朝鮮人に見せつけ、「武断統治」を続けた。しかし、それに対する朝鮮人の不満が直接的契機となって、1919年には三・一独立運動が起こる。その意味で、「105人事件」は、三・一独立運動を予告し、またその引き金ともなった出来事であった。

参考文献

  • 鶴本幸子「所謂『寺内総督暗殺未遂事件』について」『朝鮮史研究会論文集』第10集、1973年
  • 尹慶老『105人事件과 新民会研究』一志社、ソウル、1990年
  • 長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係―朝鮮独立運動とアメリカ 1910-1922』平凡社、2005年




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 03:38。












     
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